連合赤軍 坂東國男 ちはやふる下の句

0、たかじん委員会20080824 左翼の今と連合赤軍の正体とは?

いまから8年前のたかじんのそこまで言って委員会で上記の様な討論がなされていました。ちょうど、北京オリンピック開催時の放映でした。

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このサイトを作成する上で、私と同じように連合赤軍に興味を持った人々のブログや当時の関係者の「今」を伝える資料等に触れました。

私自身も50年以上を生き、色々な経験を重ねながら「そう言う時代だった」と過去を回想できる様になって、何となく当時の肌感覚を微かに感じられる様になったのかなと感じています。

これからも折にふれて関連著作や映像作品をチェックしていきたいと思います。

連合赤軍の全体像を残す会(1987年誕生)主催の連合赤軍事件殉難者追悼の会が2012年2月25日に開催された。事件(1971年~1972年)後、40年後の追悼の会である。その会のビデオですら今から4年前の記録であるのだが、ある参加者は会の中でこう語っている。

「私としてはこの40年間を振り返ってみると三島由紀夫が日本を変えたと思いたい。ところが、残念ながら変えたのは連合赤軍ですよ。連合赤軍が日本を変えました。いい意味じゃなくて、だって、連合赤軍がやろうとした夢や希望や愛やそういったものは全く伝わらない。逆にマイナスの方の事ばっかりが伝わっているじゃないですか。どっかの時点で間違ったんだと・・そういった事をきちんと発言すべきですよ」。重信房子のメッセージ「25日、追悼の会に参加して当時のことを語り合いたいところですが、かないません。3.11を経た今年、新しい時代、連合赤軍東アジア反日武装戦線など、何十年も獄にある吉野さんら当時戦った仲間を釈放された新年になりますように」と意気軒昂。別の参加者の発言・・「吉野(雅邦)は今、刑務所生活を楽しんでいます。パソコン・・・それから、あと、自分の犯した事件に対する執筆・・」、「あまり語られる事はないんですけれども、当時、生れた子達がいます。森恒夫さんのお子さんや、山田さんのお子さんや、あと、山に行った山本さんの頼良ちゃんの事もあります。みな自分達の姓を名乗っていません。ある意味では名前を変えられた子もいるんです。亡くなった同志達が家族を形成する事ができなかった。その事がまことに残念です。」と。

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1、はじめに

img003.jpgこんにちは、月刊精神分析編集部Aです。

今月のテーマは「連合赤軍 坂東國男 ちはやふる-下の句-」です。

はて?「連合赤軍 坂東國男」と「ちはやふる」って何のこと?ってお思いの読者の方が多いかと思いますが、順を追って説明します。

あさま山荘事件

あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)が、浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

2016年平成28年07月31日 月刊 精神分析 編集部A

感想のメールは

lacan.fukuoka@gmail.com

までお願いします。img02.jpg

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2、今月号のテーマの舞台は滋賀県大津市

九州人の私からすると東京、大阪には縁があっても滋賀県になると・・・特に接点のない地域である。

民間調査会社の日経リサーチが2013年03月に公表した「地域ブランド戦略サーベイ」の調査結果調査結果で「滋賀」の認知度は全国37位(47都道府県中の同率最下位)だそうで、失礼ながら世間の多くの人々からすると「滋賀県大津市」といわれてもピンと来ない。大津市が滋賀県の県庁所在地である。

大津市の越直美市長:当選時の年齢は36歳6ヶ月で歴代最年少であり、また史上最年少で当選した女性市長であった

昨今は不幸な事に「自殺の練習」で有名になった。「2012年09月号 滋賀県大津市皇子山中2いじめ自殺事件」が起こって、私はJR湖西線に乗り「大津京」駅から、自殺現場となった14階だての「ロータリーマンション西大津Ⅲ番館」を訪れた。事件の舞台となった学校は大津市立皇子山中学校(滋賀県大津市尾花川12-1、077-522-6673)で琵琶湖の辺りで緑も多く、世間を騒がせた事件の震源とは思えない環境の中にあった。

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3、滋賀県大津市は坂東國男さんの故郷

img001.jpgたまたまネットを検索している時に以下のエピソードをみつけた。あの「あさま山荘事件」の犯人グループのリーダー格である「坂東國男」氏は滋賀県大津市出身であり、彼の生家である「ばんど旅館(077-537-0836、滋賀県大津市粟津町9-2)」は取り壊される事なく、今も坂東さんの帰りを待ち続けているである・・・。更に調べてみると「ばんど旅館」は京阪石山駅(東海道本線-琵琶湖線-滋賀県大津市粟津町6-26)の真ん前にあるらしい。以下に「ばんど旅館」でヒットしたブログを引用します。

らいん屋☆親父の『しらしんけん』に『一寸ずり』

あさま山荘事件から40年 2012年02月19日 19時16分18秒 | 親父の人生・思い出 『あさま山荘事件』て言うても、もう知らん人の方が多いかもな。今日で事件発生から40年なんです。覚えている人でも、連合赤軍とか河合楽器の保養所とかテレビ放送がずっとあったとか。カップヌードルが事件で有名になって売れたとか、記憶は色々やと思う。親父、思うんやけどこの事件、まだ解決してへんのやろ。それやのに今日、何のニュースにも取り上げられんかった。犯人は5人やった。その中で唯一人「坂東國男氏」だけは未だ国際手配中や。親父が犯罪者に氏を付けるのは、四列目の男(菅)・弁当係(仙谷)よりも真剣にこの国の事を考えていたと思うから。それと、故郷の先輩やし、製麺屋のバイトをしてる時配達してたからな。今でも石山駅の前には『ばんと旅館』はあるんやわ。石山駅前も変わって、モナコ・クィーンのパチンコ屋はない。京阪の駅も変わって、宮角食堂も無くなった。近代的な建物の間に坂東國男氏の実家が昔のまんまの姿である。今でこそひっそりとした営業してない宿やけど、事件までは店もお客さんがいた。当時はうどん屋言うか大衆食堂を一階ではやってたしね。石山駅は近所に東レとかNECとか工場があったから結構賑やかやったんやわ。親父も製麺・製氷でバイトしてたから、朝からはうどんの配達、夕方は飲み屋の氷の配達で忙しかったわ。坂東旅館(正式にはばんど旅館)にも、事件後もうどんの配達に行ってたけど、オバちゃんとかだけやった。坂東國男氏の親父さんは事件で自殺したしな。今でも覚えているのは、店が暗かったんとオバちゃん(坂東國男氏の母親)の化粧が濃かったことやわ。あれから40年、オバちゃんは生きているのか死んでいるのか知らん。町も変わり、パチンコ屋も無く京阪グリルも純喫茶ACBも力餅のうどん屋も無い。40年前のままは、ばんど旅館だけや。親父、思う。この街は坂東國男氏の帰るのを待ってへんけど、母親は家は坂東國男氏の子供の頃のままの姿で待ってるんやとね。それと、あの時代は大学生・高校生が良も悪しきも真剣に国の事を考えてたいう事やろね。今年も親父は石山にも帰ると思う。坂東國男氏も65歳、帰ることは無理やと思うけど、待ってる家がある。【やっこ食堂も無くなったけど、石山に大倉たこ焼き店はまだある。】


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編集部Aも「大倉たこ焼き店」に行って「ねぎ焼き、焼きそば、たこ焼きセット」を食べました。

向現倶楽部 脳の辺縁系全体と皮質に作用する出来事

フラッシュバック ●ごちそうさまでした。店の外は、ヘリコプターの音が轟き、MM地区を取り巻く全国の地域課の人達。人だけではなく、全国から機動隊を乗せた装甲バスが数珠繋ぎです。そして、大岡川の小型船やクルーザーも撤去です。戸部町のクリーニング屋さんが、都橋に繋いでいるクルーザーも見えません。本当厳戒態勢ですね。

昨日、関内駅近辺には、全国から来た機動隊員さん達がフル装備で、整列されてました。何でかなと思っていたら大通り公園に横断幕を掲げて、拡声器で叫んでる。おばさん、そして、それを聞いている多くの人達。内容は、労働者の権利とかでしたが、その話し方と御横断幕に書かれた

"闘争"

って文字を見た時、幼い頃の情景が蘇りました。

小職の実家は、滋賀県で、大津市の石山って小さな街に在ります。小学校低学年のある冬、テレビを見ていたら凄い映像が飛び込んできました。警察が鉄球を使って家を破壊しるんです。そう、"あさま山荘事件" です。

あさま山荘事件は連合赤軍メンバーによって、実行された人質立てこもり事件です。その立てこもり犯の中に坂東國男という人がいました。この人が石山出身で、京都大学生だったんです。今も京阪電車石山駅前に、彼の生家である坂東旅館ってのが残ってます。勿論、旅館としの営みはされていません。事件が発生するまでは、勉強して坂東さんとこみたいに良い大学入ってなんて、言われてたんですが、事件発生後は、勉強し過ぎてあんなんになったら困るわとか言われました。

小職にとっては、かなりショッキングな出来事で、勉強しすぎると人殺しになるのかと真剣に悩んじゃいました。テレビでは連合赤軍の軌跡みたいな報道ばかりだったので、永田洋子達が拡声器で叫んでるのを見ていて、なんで、この人は闘争って言葉連発してるか、何と戦っているか分かりませんでした。

そんな事があったので、闘争って聞くと直ぐに連合赤軍がフラッシュバックしちゃうんです。昨日の大通り公園のあのおばさんも永田洋子に憧れてデモとかに参加してたのかな、とか思って、少し寂しくなっちゃいました。あのおばさんは、何と戦っているんだろう。軽々しく、闘争なんて言わない事です。坂東國男のお父さんは、あさま山荘事件が発生した時に坂東旅館で、首つり自殺、お母さんは、息子が国外逃亡後におかしくなったそうです。坂東國男は、国を良くしたくって闘争してたはずなのに、誰も幸せになってないです。彼の総括は、まだ終わってません。彼も齢60を超え、世界の何処かで、一人、総括しているのかも知れません。なんて回想が、APEC開催で来ちゃいました。●全国の警察官の皆さん、本当御苦労さまでした。

向現倶楽部さんは、あさま山荘事件当時、小学校低学年だったそうで、私と同世代の方だと想像できます。

坂東國男と滋賀県石山 by 姫野カオルコ(嘉兵衛)

2012.07.26 小学校の同級生と京急・八丁畷で会った。うち1人は、講談社文庫『ああ、懐かしの少女漫画』のP.282あたりの「松尾美保子の章」に出てくる男子だった。セマセくん(仮名)。彼は石山(滋賀県・大津市)に住んでいる。私たちが小学生-中学生だったときの最大の歴史的事件のひとつといえば、よど号ハイジャック事件からあさま山荘から総括リンチ殺人発覚から、坂東国男のお父さんの首吊りにいたるまでの、一連の赤軍派事件。「あの旅館、いまでもそのまま残ってるんや。あのままや」。セマセくんから聞いて、さらにショック。なぜショックなのかうまく説明できないが、どこの町もどんどん変わってゆくように、石山駅周辺もすごくきれいになったのに、あそこはそのままというのが、まるで山岳ベースでの、あの、報道写真をつきつけられるようで......。死体が折り重なっていた様子を白いテープでしるした、あの有名な報道写真......。「そや、あの土地と旅館を姫野が買(こ)うたらどうや」とセマセくん。......。私の家は昭和39年に建った。ヴォーリスさんの建築を模倣したような家であったが、もうガタがきてぼろぼろである。あの旅館は旅館だったのだから、もっと前から建っているはずであるから、それがそのままって......。でも、あの事件後、ずーっと坂口弘は刑務所の中にいて、坂東は国外なんだと思うと、なんだか、いろいろと思うよ......。

2012年が事件後40年の節目でしたので、関係者の方が認められているブログが散見します。

TURACO、旅と日常を綴る

2012年08月03日 坂東國男 今週末、滋賀に行くのだけどさ、JR東海道線の石山駅を降りると駅前にばんど旅館というのがある。現在は、旅館業は廃業していて建家だけが残っているのだけど、このばんど旅館は、あさま山荘事件を起こした連合赤軍のメンバーだった坂東國男の実家なんだよね。膳所高から京大農学部に入って、感化されて退学して連合赤軍に入ったのだけど、この家の悲惨な話をいまでも親戚が集まると聞くせいか、強烈に石山駅=坂東國男と連想してしまう。坂東國男と高校のクラスが同じ、そのまま京大の理工学部に入ったおじさんが親戚にいて、酒が入るとこの種の話を必ずするからなぁ...人一倍左翼思想と学生運動に興味を持ってしまったのだろうなぁ(笑)。坂東國男はいまどこで何をしているのか...※ダッカ日航機ハイジャック事件で超法規的な措置として国外退去して、64歳になった現在でも海外に潜伏中


2016年05月17日、京阪電鉄:滋賀里駅から乗車し、京阪石山駅へ向かった。なんと車両数は2。昔の博多の市内電車を思い出した。おまけにワンマン電車ではなく車掌さんが乗っている。きけば、無人駅が多いので車掌さんが必須との事。木造の民家の直ぐ側を走っている様は「あぁ生活電車なんだ」との認識を強くする。普通に普段着の人々、買い物、通学、日々の生活に密着にしているのがわかる。

京阪石山駅へ到着。二階の広場から南側の通りに目を落とす。眼下のファミマの隣に、ありました「ばんど旅館」。付近はマクドがあり、ファミマがあり、セブンがあり、見慣れた日本全国画一化された景色なのに、踏切の手前、道路右側に時の流れから取り残されたかのように「ばんど旅館」はあった。ただただ「坂東國男」氏の帰りを待っているかの様に。
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余計な事かもしれないが、坂東國男と同様に大津市に生まれ進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進んだ「行方正時」さん(1949年生まれ。25歳・赤軍派)榛名山ベースで昭和47年01月09日リンチで死亡も、このあたりにお住まいであったのだろか?坂東國男さんと行方正時さんはほぼ同学年であった筈で、膳所高校の卒業アルバムには必ず二人は近い線に掲載されていた筈である。

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4、坂東國男の養育環境

坂東國男

坂東國男(ばんどうくにお、1947年1月10日 - )は、日本の新左翼活動家。共産主義者同盟赤軍派兵士を経て、連合赤軍に合流、幹部を務めた。 滋賀県大津市生まれ。生家は東海道本線(琵琶湖線)石山駅前で旅館を営んでいた。滋賀県立膳所高等学校卒業。1966年に京都大学農学部林学科に入学するがのちに退学。1971年代に赤軍派の坂東隊として、植垣康博、山崎順らを率いてM作戦(金融機関強盗)を行った。赤軍派が京浜安保共闘と統一し連合赤軍となると、連合赤軍中央委員に就任。連合赤軍での序列は5位。連合赤軍幹部として山岳ベース事件に関与。1972年2月19日に警察の手から逃れるために仲間4人とともにあさま山荘事件を起こすが、2月28日に逮捕される。あさま山荘事件を起こした5人の中では唯一の赤軍派出身であった。40日間黙秘をしていたが、事件中に自殺した父親の位牌を見せられると山岳ベース事件やあさま山荘事件に関する供述を始めた。獄中では永田洋子、植垣らと共に塩見派につき赤軍派プロ革派に参加。1975年に日本赤軍によるクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放・国外脱出し日本赤軍に参加。日本赤軍参加後は同組織最高幹部である重信房子の側近となった時期があり、重信を「敬愛する司令官同志」と表現したパンフレットの作成、また日本赤軍からの脱退届を提出した和光晴生に対する査問会議の議長を務めるなどした。現在も連合赤軍事件だけでなく、日本赤軍としてダッカ日航機ハイジャック事件に関与した罪も加わり警察庁に指名手配中であると同時に国際指名手配されている。公安当局によると、坂東は基本的に中東に拠点を置き、中国・ルーマニア・ネパールでの入国の形跡が確認されているが、詳細な消息及び現在の生死は不明である。

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世の鉄ちゃんの為に京阪電鉄とJR琵琶湖線の路線を下記に書いておきます。

京阪電鉄(石山坂本線)滋賀里駅-南滋賀駅-近江神宮前駅(近江神宮最寄り駅)-京阪石山駅-皇子山駅-別所駅-三井寺駅-浜大津駅-島ノ関駅-石場駅-京阪膳所駅-錦駅-膳所本町駅(膳所高校最寄り駅)-中ノ庄駅-瓦ヶ浜駅粟津駅-京阪石山駅(ばんど旅館最寄り駅)-唐橋前駅-石山寺駅

JR(琵琶湖線)京都駅-山科駅-大津駅-膳所駅-石山駅--長浜駅(北陸線)黒田家の祖先は近江国伊香郡黒田村の荘園領主で福岡市民の私も少なからず親近感を持っています。福岡城は初代福岡藩主:黒田長政(官兵衛の嫡男)によって築城されました。

Google地図を眺めてみればすぐわかる。坂東國男さんは、生家のばんど旅館から、春嵐小学校?、栗津中学校、膳所高等学校へ京阪で通い、一浪の後、・・京都大学農学部へ。京大へは琵琶湖線で向かった筈だ。自然豊かな琵琶湖の辺りで生を受け学び育った坂東國男さんが何故に学生運動にハマり、武力闘争に走り仲間を死に至らしめ、さらにさらに国外逃亡(国際手配)するに至ったのか?

滋賀県立膳所高等学校
〒520-0815
滋賀県大津市膳所2-11-1(077-523-2304)

大津市立栗津中学校
〒520-0833
滋賀県大津市晴嵐一丁目20-20(077-537-0745)

大津市立春嵐小学校
〒520-0856
滋賀県大津市光が丘町4-70(077-537-0749)
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Google地図でみてもらえると一目瞭然。素晴らしい環境の中にある。今回初めて、滋賀里駅から京阪石山駅まで京阪電鉄を利用した。この取材をするまで知らなかったのだが、アニメ作品「中二病でも恋がしたい!」の舞台としてオープニングアニメでは石山駅も描写されているという・・私が「石山駅」を訪れた時もラッピング電車が走ってました。

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5、ちはやふる-下の句-の舞台(近江神宮)

さて、ここでやっと登場「ちはやふる-下の句-」である。私はまったく原作漫画を読んでないので映画の世界のみでの語りとなる。

ちはやふる

『ちはやふる』は、末次由紀による日本の少女漫画、およびそれを原作としたテレビアニメ、実写の映画。『BE・LOVE』(講談社)において2008年2号から連載中。競技かるたに没頭する少女の青春を描く。アニメ化および実写映画化されたほか、現実社会の競技かるた浸透にも影響をおよぼした。

綾瀬千早(広瀬すず)と幼なじみの太一(たいち)、新(あらた)を軸に、瑞沢高校かるた部創部(上の句)から、近江神宮での全国大会での団体戦、個人戦での奮闘を描く(下の句)

下の句は、冒頭「かるたをやめる」と言い出した「新」に「千早」と「太一」が会いに行くエピソードから始まる。

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ところで、劇中で全国高校生かるた大会が開催される近江神社。劇中でも真っ赤な社で印象的なバトルゾーンとして登場するのだが、近江神宮の所在地は(滋賀県大津市神宮町1-1、077-522-3725)なぜに、かるた大会が近江神宮で開催されるのか?と言う問いにはウィキペディアに解答してもらう事にして、今号の月刊 精神分析は国際手配犯:坂東國男氏の生家からかるた大会の開催地まで全て滋賀県大津市なのである。

Google地図で見て欲しい、京阪電鉄に乗車し南滋賀駅-近江神宮前駅の間を車中から西側の車窓を眺めていれば、近江神宮の「一の鳥居」だって見えちゃうのだ。・・・という事は、坂東國男さんだって、絶対、近江神宮にお参りにいった筈ではなかろうか?。実際、Google地図でルート検索しても徒歩時間を入れても僅か30分で着く。

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上の写真の通り、京阪の線路の向こうに近江神宮の「一の鳥居」がみえる!幼少期ないし青春期に赤軍の坂東國男氏は実家の石山駅前のばんど旅館から近江神宮に行った事が絶対ある筈なのだ。

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6、アイデンティティ

1993年2月19日 テレビ報道から。

上記の動画は、永田洋子・坂口弘の死刑が確定(最高裁)した事を報道するニュースステーション(久米宏と小宮悦子)。なつかしー。

先月号の月刊精神分析では映画「桐島、部活やめるってよ」を取り上げた。今月号は「ちはやふる-下の句-」と「連合赤軍 坂東國男」3つの共通テーマはアイデンティティの獲得である。

「ちはやふる-下の句-」では、大好きな祖父を失い・・同時にかるたをする意味(アイデンティティ)を失った新(真剣佑)を競技かるたの世界に呼び戻そうとする千早(広瀬すず)。仲間・・団体戦のかるたを否定し孤高の女王としてのアイデンティティを保持・君臨し千早の前に立ちはだかる若宮詩暢(松岡茉優)。

安保反対と声高に叫び連合赤軍として学生運動に奔走する坂東國男。

「ちはやふる-下の句」では競技かるたにかける情熱の伝播(でんぱ)が描かれた。もし革命の闘士として坂東國男氏が勇ましく劇場作品として取り上げられたら、革命にかける情熱の伝播が神々しく描かれたかもしれない。

人の精神の発達を考える時に、勿論、その人の養育史なり家庭環境も勘案しなければならないが、もう1つ時代背景をも考えなければならない。

今の時代は日本国においては暴力、武装によるクーデーター(暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変)などは考えにくい状況ではあるが、坂東國男氏が生まれたのは1947年昭和22年の事である。大東亜戦争終戦が1945年(昭和20年)8月15日。坂東國男氏は、やっと戦争が終わった日本に生を受けたのである。坂東氏の両親は新生日本国の担い手になる様にと願いを込めて「國男」と彼を名付けたに違いない。1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発。与党が自民党、野党第一党が社会党なる「55年体制」なる政治体制が確立されたのが1955年(昭和30年)坂東國男8歳の時。60年安保条約締約批准(ていやくひじゅん)が坂東國男13歳の時。キューバ危機は1962年(昭和37年)。米軍がベトナムへ空爆開始1965年(昭和40年)。佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争1967年(昭和42年)。70年安保闘争時、坂東國男23歳。あさま山荘事件1972年2月の時、坂東國男25歳。日本という国の進路を普通に学生が真剣に考えていた時代(社会情勢)の中で彼は誕生し成長したのだ。

坂東國男と言う人間のアイデンティティに一番影響を及ぼしたのは何で有ったろうか?ここからは私の想像である。話は、坂東國男氏の親の世代に遡る。

京都や大津の人々は空襲にあって辺り一面焼け野原と言う体験は無いかもしれないが、終戦を迎えた時の日本は目ぼしい都市は全て空襲によって焼け野原状態で、広島と長崎に原子爆弾を2発も落とされ、戦争続行不能状態になっていた。日本の勝利を疑わなかった国民は呆然自失状態であった筈だ。

img017.jpg昭和04年生まれの実父にきいた事がある。終戦時、16歳(戦地に行けなかった予科練組)だった実父。「背振山の山肌を超低空飛行でゆうゆうと飛ぶB29をみて日本は負けた」と思ったと回想していた。そりゃ、敵の重量級爆撃機がゆうゆうと低空飛行している様を見れば高校生でも負けてるなと思うよな。制空権は敵の手におちて・・・。いくら大本営がラジオから勇ましく日本の戦果を伝えても、日本国敗戦は誰の目から見ても紛れもない既成事実だったのである。

坂東國男さんの親の世代はそういう世代なのだ。戦後のマスコミは連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣に媚を売り、戦争責任を軍部に押しつけたが、その実、山本五十六関連の映画を鑑賞したりすると、むしろ、戦前は軍部より一般国民やマスコミも戦意高揚状態であった様が描かれていたりして、敗戦は自業自得感も拭えない様な気もする。「一億総懺悔」と言うお題目もありましたっけ。

・・となると、坂東國男さんの親世代は敗戦のトラウマを抱え、自信を失い、日本国の父としての父性も喪失してしまった世代と言えよう。

父が掟とルールと社会性を唱えないなら子どもは何をモデルに自我を形成したらよいのであろうか?坂東國男氏は、彼の名前の「国」の形を作る事を使命とし、その情熱の伝播に学生運動を選んだのである。

読者の皆さんは、想像もできない遠い昔の話と片付けてしまうかもしれないが、カルト教団:オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのは1995年(平成7年)3月20日。今から僅か20年前のことである。事件発生当時、狂気の集団が起こした類似事件として、赤軍による「あさま山荘事件」が引用されていた。

当時、オウム真理教教団広報部長を務め「あぁ言えば上祐」と揶揄された上祐史浩氏の著書(告白本)を読むと、福岡銀行の行員であった実父が愛人をつくり逃げた為、母子家庭で育つ事になり、後に、麻原彰晃に父性を求める事になってしまったのがオウム真理教に入信した動機だと自己分析していた。

地下鉄サリン事件

(ちかてつサリンじけん)とは、1995年(平成7年)3月20日に、東京都の帝都高速度交通営団で、宗教団体のオウム真理教が起こした神経ガスのサリンを使用した同時多発テロ事件で、死者を含む多数の被害者を出した。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件である。この事件は日本だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた。

毎日新聞では坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んでオウム「3大事件」(-さんだいじけん)と表現している。

乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。

勿論、時代背景や社会情勢の影響もあるが、その人のアイデンティティや人格形成にとって「何を父とするのか?」「何をモデルとするのか?」は大問題なのである。

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7、プロローグ 印旛沼事件

ネット上で「連合赤軍」をチェックしているとその前身は「共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)」と「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)」が武器と資金を合体して誕生した組織であるとしている資料が多い。

あるテレビのドキュメント番組では「赤軍」と「京浜安保共闘」と紹介していた。

「赤軍」はハナッから武装ありきの組織で、今の平和ボケした日本社会からするとなんともとんがった組織の様に見受けられる。武装蜂起を公然と主張するのだから当然当局にもマークされ「大菩薩峠事件」で幹部が大量検挙(55名)。一部は「よど号ハイジャック事件」を起こし、北朝鮮に亡命。その他「M作戦」と称して金融金管から資金の強奪。事件時のリーダーは森恒夫。

「京浜安保共闘」は、そもそもは毛沢東思想を掲げた労働運動が原点。のちに武装闘争組織へ先鋭化。火炎瓶やダイナマイトによる一連の「闘争」を行った結果、幹部の逮捕、最高指導者の川島豪(獄中)から奪還を狙い交番襲撃、銃砲店襲撃と思想闘争と言うよりギャング化の一途をたどる。事件時のリーダーは永田洋子。

「印旛沼事件とは」

1971年夏。「赤軍」と「京浜安保共闘」が、まだ共同で軍事訓練にあたっていた「連合赤軍」結成の1ケ月前、過激派の恐ろしさも知らずに京浜安保共闘に参加した「早岐やす子(21歳)」と「向山茂徳(20歳)」は山岳ベースでの訓練などに辟易し脱走。

「京浜安保共闘」の永田洋子・坂口弘ら幹部は情報の漏えいを怖れ、赤軍派リーダーの森恒夫にも相談し、森は粛清することを提案、脱走者二人の処刑を決断する。8月3日「早岐やす子」は、京浜安保メンバーのアパートでパーティーをやろうと誘い出された。「早岐やす子」の飲み物には睡眠薬が仕込まれており(薬学を専攻していた永田が薬物を手配・調合した)寝静まったのを見計らって、「早岐やす子」を車に乗せた。その頃には日付も変わっていた。そして印旛沼近辺に連れ出した後、絞殺した。その後、前日に掘っていた穴に、死体から衣服を剥ぎ取って埋めた。

8月10日、「向山茂徳」も誘い出したが、警戒して一切飲み食いせず、早く帰ろうとしていた。そのため、「処刑執行役」全てが「向山茂徳」を押さえつけて、タオルで絞殺した。その後、「早岐やす子」を埋めた地点の近くに穴を掘って、死体から衣服を剥ぎ取って埋めた。

これが山岳ベース前に起きた印旛沼リンチ事件である。山岳ベース事件前にすでに彼らは二人の同志を殺害していた。実行犯は吉野雅邦(無期懲役)寺岡恒一(真岡銃砲店襲撃事件に関与、後、永田批判により粛清)と瀬木政児(脱走)だが、金子みちよ、杉崎みさ子、大槻節子、更には運転担当の小嶋和子といった女性も加担している。

裏切者は森・永田の指示により「みんなで粛清」それが革命の為・・のパターン(元型)は既にこの時出来上がっていたのである。

麻原の指示で、みんなで坂本弁護士一家をポアしましょう。霞ヶ関にサリンを撒きましょう。それが解脱の為・・なんとも。

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8、連合赤軍 山岳ベース事件 あさま山荘事件

あさま山荘事件をチェックしていると、山荘事件の前に起こった連合赤軍山岳ベースリンチ殺人事件もセットで出てきてしまう。こちらの方はあまりに酷くて避けたいのだが・・どういう事件の挙句に「あさま山荘事件」が起こったというのも取り上げないといけないかなと・・。

山岳ベース事件

山岳ベース事件(さんがくベースじけん)とは、1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍が起こしたあさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮する契機となった。

あさま山荘事件の連合赤軍のメンバーは(坂口弘25歳、坂東國男25歳、吉野雅邦23歳、加藤倫教:事件当時の報道では少年B19歳、加藤元久:事件当時の報道では少年A16歳)の5名。この中でも加藤兄弟(加藤倫教、加藤元久)はそれぞれ19歳、16歳の未成年であった。坂口弘は現在も死刑囚として服役中。坂東國男は超法規的措置で国外退去の後、国際指名手配中。吉野雅邦は無期懲役で服役中。加藤倫教は1983年2月に懲役13年の刑が確定し三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。現在は故郷の愛知県刈谷市で農業を営む。加藤元久は、逮捕時16歳であったため実名は伏せられ保護処分の後、中等少年院。

(さかぐちひろし、ばんどうくにお、よしのまさくに、かとうみちのり、かとうもとひさ)

連合赤軍はあさま山荘に立てこもる前に、印旛沼事件、連合赤軍山岳ベースリンチ殺人事件を起こしていた。ネットで情報を集めていると気分が悪くなってくるので詳細は記述できない。

今の平和ボケした日本社会では想像できない事であるが、1970年代初頭、先鋭化した学生運動の過激派は、銃砲店を襲い銃器と実弾を奪い武装し革命を志したのだ。

「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! そのために革命を起こすのである!」「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


連合赤軍:委員長・森恒夫、副委員長・永田洋子

<榛名山(はるなさん)ベース:メンバー29人>-------------------

「総括」と言う名のリンチ(私刑)被害者12名

昭和46年12月31日(01人目)尾崎充男(みちお)(22歳・革命左派)
昭和47年01月01日(02人目)進藤隆三郎(21歳・赤軍派)
昭和47年01月02日(03人目)小嶋和子(22歳・革命左派)

昭和47年01月03日の会議で、中央委員会が結成。序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・坂東國男・山田孝・吉野雅邦の順

昭和47年01月04日(04人目)加藤能敬(よしたか)(22歳・革命左派) 
昭和47年01月07日(05人目)遠山美枝子(25歳・赤軍派)
昭和47年01月09日(06人目)行方正時(25歳・赤軍派)

昭和47年01月12日■岩田半治(21)脱走。

昭和47年01月17日(07人目)寺岡恒一(24歳・革命左派)。
昭和47年01月20日(08人目)山崎順(21歳・赤軍派)

この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。連合赤軍はバスで移動。迦葉山(かしょうざん)ベースへimg03.jpg

<迦葉山(かしょうざん)ベース>-------------------

昭和47年01月30日(09人目)山本順一(28歳・革命左派)
昭和47年01月30日(10人目)大槻節子(おおつきせつこ)(23歳・革命左派)

昭和47年02月04日■山本保子(28歳)(山本順一の妻)脱走

昭和47年02月04日(11人目)金子みちよ:妊娠8ヶ月(24歳・革命左派) 
*金子みちよは吉野雅邦の妻。印旛沼事件時(1971年08月)は妊娠三カ月であった事になる。吉野雅邦は印旛沼事件の実行犯であるから仲間を殺し、更に自分可愛さに身重の妻まで見殺しにした重たすぎる十字架を背負って無期懲役。

昭和47年02月07日■前沢虎義(24歳)群馬県渋川市のバス停から脱走

昭和47年02月07日■中村愛子(22歳):迦葉山ベースから山本夫妻の長女・頼良ちゃん(当時3ヶ月)と資金100万円と共に脱走。後、娘は千葉・市川署に保護。

昭和47年02月12日(12人目)山田孝(27歳・赤軍派)

永田は坂口と離婚、森と結婚するという。

29人のメンバーの内12人死亡、4人脱走、残り13人

<妙義山(みょうぎさん)ベース>-------------------

昭和47年02月16日 逮捕:奥沢修一(22歳)ライトバン車中で逮捕
昭和47年02月16日 逮捕:杉崎ミサ子(24歳)ライトバン車中で逮捕

昭和47年02月17日 妙義湖近くで逮捕:森恒夫(27歳)
昭和47年02月17日 妙義湖近くで逮捕:永田洋子(27歳)

昭和47年02月19日、植垣康博(23歳)は他のメンバー3人と・青砥幹夫(22歳)寺林真喜江(23歳)伊藤和子(22歳)と共に食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕。

<あさま山荘>-------------------

昭和47年02月24日 坂東国男の母親の芳子(当時47歳)の呼びかけが行われた。

「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。早く出てらっしゃい。あんたたちが世の中をよくしようとしてやったことはみんなが認めてますよ。警察の人もほめてますよ」「お母さんはお前を生き甲斐にして今日まで一生懸命働いてきたのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てきてお母さんと一緒にあたたかい御飯を食べようよ。あんたたちのことはみんな認めている。・・・・・・警察にも立派な人がいます。ニ枚舌を使うことはない。警察の人が撃たないと約束したのよ。早く出てきなさい」

昭和47年02月28日 逮捕:坂口弘(25歳)
昭和47年02月28日 逮捕:坂東國男(25歳)
昭和47年02月28日 逮捕:吉野雅邦(23歳)
昭和47年02月28日 逮捕:加藤倫教(19歳)
昭和47年02月28日 逮捕:加藤元久(16歳)

昭和47年02月28日

坂東の父親の坂東基信が滋賀県大津市の自宅で首吊り自殺した。51歳だった。

昭和47年03月10日から14日にかけて、逃亡していた■山本保子(28歳)■前沢虎義(24歳)■岩田半治(22歳)■中村愛子(22歳)が次々と出頭

結果:29人のメンバーの内、12人がリンチ死亡、13人逮捕、4人が出頭。

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9、加藤三兄弟

連合赤軍 山岳ベース事件 あさま山荘事件などの動画をチェックしていると、元連合赤軍の加藤倫教(みちのり)さんが、マスコミのインタビューに応える番組が何本か出てくる。一部はモザイクがかかっているが、一部は本名でモザイクなしで登場している。

img005.jpg加藤倫教さんは、あさま山荘事件の連合赤軍のメンバーであり、山岳ベースリンチ事件にも関わっている筈(詳細は不明)で、逮捕、裁判の後、1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放となり、現在は故郷(愛知県刈谷市)の実家の農業を継いでいる。服役と言う形で罪を償っており、現在の加藤倫教さんは、犯罪者ではない。そして、マスコミからすると、あの大事件の加害者側の当事者であるから、当然、取材対象になるのであろう。1952年生まれであるから、現在、64ないし65歳で無事、年金受給者となっている。
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ただ、加藤倫教さんが一方的な加害者かと言うと、そうでもなくて、昭和47年01月04日(04人目)連合赤軍山岳ベース殺人事件では「総括」と称し長兄の加藤能敬(よしたか)さん(22歳)を目前で多数の仲間から殺されている。そして、その様を、末弟の加藤元久(もとひさ)さん(16歳)と一緒に目撃し、生き残った倫教さん元久さん兄弟があさま山荘事件へ連座する事になるのである。ちなみに、殺された長兄の加藤能敬さんの彼女も01月02日(03人目)の被害者として殺されている「小嶋和子(22歳)」。

そりゃ、もう到底まともな心理状態ではない「集団ヒステリー状態」であっただろうと容易に想像できる。

しかし、森・永田の鬼畜コンビは、自分の気に入らない仲間に因縁をつけ、次々にリンチしていくのだから恐ろしい。インタビューに応える加藤倫教さんがはっきり「永田洋子が憎いです」と個人に対し感情をぶつけている。

リーダーの森恒夫(もりつねお)は1973年1月1日に獄中で首吊り自殺(28歳)。サブの永田洋子は私刑の判決が下されるものの2011年(平成23年)2月5日)脳腫瘍のために東京拘置所で獄死(65歳)した。

長兄の加藤能敬さんはリンチで死亡。次男の加藤倫教さんは服役。三男の加藤元久さんは中等少年院と、世間からみると問題兄弟なのだが加藤父は・・・

加藤父

加藤三兄弟・・彼らはそろって熱心な右翼思想の持ち主である父親に反発していた。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で、質素な生活をこころがけていた。この父親は3月3日付で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。

言ってみれば、天皇陛下万歳!の戦中派の父に対する反動形成で極左に走った息子たちの成れの果てとも言える状況で、国語教師だった父は自ら己の教育の失敗の責任を取らなければならない立場に追い込まれたと言えよう。

参考に、加藤倫教の著書のAmazonレビューを引用する。

レビュー

若松孝二の映画「実録・連合赤軍」は、もはや映画という枠に到底収まりきれない強烈なインパクトを持った作品だった。中でも、劇中赤軍派の重信房子と遠山美枝子の関係と共に最も記憶に残ったのが、革命左派の加藤三兄弟を巡る哀しみの運命だ。そして、兄が自己批判、総括の名のもとにリンチ、死に至らしめられた瞬間に居合わせ、自らも16歳の弟と共に浅間山荘に籠城し銃撃に加わっていたのが本作の著者加藤倫教、服役後の現在はNPO活動や環境保護に尽力している人物、私事ながら、私の中学、高校の先輩である。世界中で様々な問題が噴出し、変革のうねりが巻き起こっていた1968年、16歳で初めてデモに参加した時の高揚感と一体感を胸に、拝金主義や出世競争への反感、絶えず弱者の側に立ちたいとのヒロイックな憧れ、正に気恥ずかしくなるなるほどの純粋さと正義感を持った普通の高校生が、学生運動は一種のファッションとの大勢への反発から、更に過激な武装闘争への参加を決意し、そしてあの同志殺しにも加担していく。

坂東國男氏も加藤三兄弟も戦中派の親に育てられた人達で、ひょっとしたら、戦争中と言う特異な状況で生活して来た人達の大いなる欠損が世代を越えて表象し、最悪の結末を迎えたと分析できなくもない。

月刊 精神分析編集部Aの実父も昭和04年生まれでギリギリ予科練世代である。何か付けて「予科練ではどうだった」とか「戦争中は」と言うフレーズは山程きかされたのを覚えている。思い返せば当の私は高度成長期を生きている世代で、実父の言う事が全く心に響かなかった。戦後の実父の生き方は戦中の生き方の裏返しにみえて、なんとももどかしく感じていた。・・そう言う意味においては、たまたま坂東さんや加藤三兄弟の身の回りにあったのが「過激な学生運動」で、私の目前にあったのが手塚治虫の「鉄腕アトム」だった。・・だけなのかもしれない。

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10、植垣康博さんと安彦良和とアムロ・レイ

植垣康博(うえがきやすひろ:1949年生れ)さん。元連合赤軍のメンバー。・・昭和47年02月19日、植垣康博(23歳)は他のメンバー3人と・青砥幹夫(22歳)寺林真喜江(23歳)伊藤和子(22歳)と共に食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕・・。とある。逮捕時の植垣さんの表情は肉食動物のそれで、喰うぞ!と言わんばかり。

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逮捕され起訴、裁判は最高裁まで上告。結果、懲役20年の実刑。現在は服役を終了し、静岡市葵区で「ふしぎな酒場 スナック・バロン」(静岡県静岡市葵区呉服町2-5-22 ソシアルカドデビル4F 054-221-5236)を経営されているとの事。

今でも赤軍に接点をもった活動をされているみたいで・・・ネット上の告知を拾うと・・

植垣 康博

2015年3月15日イベント案内「イスラム国問題」について。ゲスト 足立正生氏(映画監督)。今年に入ってからのパリでの新聞社襲撃事件、日本人人質二人の処刑事件、アルジェリアでのホテル襲撃事件と、イスラム国を巡って世界に激震が走っています。この事態に対して、日本の政府やマスコミは右往左往し、いい加減な情報を御用学者や御用評論家を使って垂れ流し、国民を欺き惑わしています。そこで、イスラム国問題を巡って少しでも正解な情報を知り、より明確に理解するために、足立正夫さんのお話を聞くことにしました。映画監督でもある足立さんは長いこと日本赤軍と行動を共にし、アラブの情報をより深く理解する事が出来る立場にだけに、足立さんのお話しは極めて有益なものと成るでしょう。日時03月21日 開場、午後06時半 開演、午後07時 場所 スナック・バロン 090-7775-6079 いいね!62件コメント4件シェア2件

まだまだ革命戦士として血気盛んなご様子。映画監督の足立正生氏は「 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) (2007) 」を監督した若松孝二(2012年10月17日76歳没)さんのプロダクションの一員であり、ウィキペディア上では・・・

足立正生

1971年、若松孝二とともにパレスチナへ渡る。1974年、日本赤軍に合流し、国際指名手配される。1997年、レバノンで逮捕され、3年間の禁固刑を経て、日本へ強制送還される。

・・と立派な過激派扱いである。

植垣さんとの語りに機動戦士ガンダムで有名な「安彦良和」さんの件がでてくる。

あるブログから引用

ガンダムと言えば思い出される何人かの方々のうち、キャラクターデザインで今も漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を連載している安彦良和先生。彼は弘前大学時代の植垣さんの先輩にあたり、学生運動(反戦委員会)のリーダーを務めていました。後にそれが原因で除籍処分を受けるそうですが、植垣さんの著書『兵士たちの連合赤軍』によると「元民青の幹部で、今日でこそアニメーション映画で活躍しているが、その当時は、多くの学生から信頼されていた活動家だったのである」とのことです。

たしかに安彦良和さんのウィキペディアをのぞいてみると・・学生運動の頁があって・・

安彦良和

このときの安彦は「もう終わった。反戦も左翼運動もどんづまり。それまでの22年間、何のために生きてきたんだ」という思いであったという。保釈後、「もう弘前にはいられない」と上京し友人の協力もあって写植屋に3か月ほど勤めた。だが写植の仕事はどうしても好きになれず、そのときにたまたま目にした虫プロの求人新聞広告に子供の頃に漫画家になりたかった事を思い出し応募した。面接では高校時代まで大学ノートに描いていた漫画を見せて合格した。

先月号の月刊精神分析で取り上げた「桐島、部活やめるってよ」で、勝手に失恋した映画部の前田涼也(神木隆之介)、吹奏学部の沢島亜矢(大後寿々花)は各々、自分のシナリオの自主映画作成に一生懸命であったり、部長として予選会に向けて吹奏楽部をまとめるのに注力しているわけです。

そういう、文脈で言えば、安彦良和さんは青春をかけて恋した学生運動に失恋して、その喪失感を埋めるために虫プロでのアニメーターとして頑張って、後々、ガンダムで大成功したのではないか。心理学や精神分析の世界では、そういう心の動きを「昇華」と言う。

見方を変えれば、民間人でありつつもホワイトベースの乗組員としてガンダムに搭乗しジオン公国軍と対峙するアムロ・レイは安彦氏らの学生運動がセル画上に昇華した姿なのかもしれない。

僕ら60年代に生まれたテレビっ子世代がブラウン管上で見ていたアニメ作品はひょっとしたらあの時代の若者たちの運動パワーの隠喩、比喩、換喩なのかもしれない。

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11、戦中~戦後派への変遷

私は1963年(昭和38)生れの私達は所謂テレビっ子世代。ブラウン管のテレビのスイッチを入れれば「鉄腕アトム」「仮面ライダー」「ウルトラマン」と言う作品群を見ながら育った世代である。そうそう夏休みには「東宝チャンピオンまつり」で「ゴジラ」映画を鑑賞するのがトレンドであった。

出版物にしても昆虫図鑑に準(なぞら)えて、仮面ライダー怪人図鑑(ハードカバー)が発行され普通に書店に並んでいた。その怪人図鑑に原作者である石森章太郎氏のお言葉が掲載されていた(当時は、石ノ森章太郎ではなく石森章太郎)。

さて、そこに書いてあった原作者:石ノ森章太郎さんのお言葉はどういうものであったかと言うと、私の記憶にはこうある「仮面ライダー本郷猛は、人々の生活を脅かす悪の組織ショッカーと戦います。読者である皆さんの周りにはショッカーはいませんが、今も、広い世界には戦争を起こして人々を苦しめたり、戦争をする為の武器を売って儲けている人がいます(死の商人)。読者のみなさんは・・・」と言った様なものだったと思います。

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石ノ森章太郎原作の漫画。死の商人「黒い幽霊(ブラックゴースト)団」に拉致され、サイボーグ戦士に改造された9人の男女の戦いを描くSFアクション漫画。


石ノ森氏の作風というか、読者に伝えたい事のベースに「死の商人の否定」ひいては「戦争の否定」があったのは間違いないと思います。

石ノ森章太郎1938年〈昭和13年)戦中生れ(終戦が小学校1年生)は戦争否定はするものの運動家にはなっていません。安彦良和1947年(昭和22年)戦後生れは学生運動にはまって反戦運動。これが私達の世代1963年(昭和38年)生れ、宅間守(付属池田小事件)ですと経済的にはバブル世代、オウム真理教サリンテロ世代(麻原独立王国の建国)。神戸阪神大震災世代:1982年(昭和57年)07月07日生れ酒鬼薔薇聖斗(神戸連続児童殺傷事件)。9月28日生れ加藤智大(秋葉原無差別殺傷事件)。・・・いづれも時代背景を色濃く感じます。

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12、Googleでみる「あさま山荘」

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事件発生当時、あさま山荘は、河合楽器の保養所「浅間山荘」であった。人質になったのは管理人(牟田郁男)の妻・牟田泰子さん(当時31歳)だった。浅間山荘は特殊な構造をしていて、三階建てで崖っぷちに沿うように建てられ、3階に出入り様の玄関があると言う変わった建物。まぁ冬は道路添いにある3階からの出入りの方が理に適っている様な気もする。 一応、Google地図で検索してみたのだが、浅間山荘の住所「長野県北佐久郡軽井沢町発地字牛道514-181番地」ではヒットしない。「〒389-0113」はヒットしてJR軽井沢駅からのルート図も書いてくれた。8.3Kmで車で21分の道のり。よってストリートビューで映像をみると言う事はできない・・って言うか、私有地なのでGoogleカーが側の道を通って撮影と言う事ができないのであろう。 ところがである、空撮映像を基礎データにするGoogle Earthはちゃんと「あさま山荘」と言うピンをたてて位置情報を提供してくれる。すげ!、道路側と道路の反対側の土地の落差も確認できる。さすがGoogleである。 勿論、あの独特な山荘の形状を確認する事はできないのであるが、ピンを立てれば「榛名山」「迦葉山」「妙義神社社務所」「妙義湖」「軽井沢町発地」「軽井沢町発地」と連合赤軍がどのようにベースを移動したのか?についてもルート検索できる。194Km。車で3時間39分の道のりだそうです。極寒の2月末を30人足らずのパーティで移動。それもメンバーの中には妊娠八ヶ月の女性、16歳の少年もいたのである。

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13、おわりに

今月の月刊 精神分析はいかがでしたでしょうか?

滋賀県大津市が舞台の「競技かるた」青春映画「ちはやふる-下の句-」と、滋賀県大津市出身の連合赤軍;坂東國男さんの共通テーマ、青春のアイデンティティ獲得を精神分析的視点で「あさま山荘事件」「連合赤軍山岳ベースリンチ殺人事件」まで網羅して語ってみました。

本サイトへのご意見ご感想は
lacan.fukuoka@gmail.com
でお待ちしています。

2016年平成28年07月31日

月刊 精神分析 編集部A

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14、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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