チェッカーズ タイトル画像

1、はじめに、

最近、宇多丸(日本のラッパー。ライター、アイドル評論家、映画評論家、クラブDJ、ラジオDJとしても活動。)さんの映画批評が面白く、ついテレビのスイッチを入れる感覚でYoutubeの動画「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル(TBSラジオ、2007年4月-)の中の映画批評(週刊映画時評「ムービーウォッチメン」)を聴いてしまう。

宇野常寛さんのオタク的批評も面白いが、宇多丸氏のMC的批評にぐいぐい引き込まれてしまう。残念ながら、今の私には作品をレンタルDVDを借りてきてガンガン観倒す程の時間的余裕がないのだが公開中の映画に関しては、宇多丸氏が推しているタイトルは「みなくっちゃ」と言う気にさせる。映画は劇場で大画面で専用音響で楽しむのが王道である。

近日、私が鑑賞したのは「ジャージー・ボーイズ」と「猿の惑星: 新世紀」。「猿の惑星: 新世紀」は、以前見た「猿の惑星: 創世記」の続編で期待通りの面白さ。

私はもう一作の方・・音楽グループの成功と裏切りと解散を描いた「ジャージー・ボーイズ」を観ていて「チェッカーズ」を思い出さずにはいられなかった。

今回の月刊精神分析のテーマは「チェッカーズ」。

今回は挑戦的な試みとして我が青春の「チェッカーズ」を精神分析的視点で語ってみよう。

2014年平成26年10月31日 月刊 精神分析編集部A

ご意見・ご感想はlacan.fukuoka@gmail.comまでお願いします。

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2、「ジャージー・ボーイズ」の事

私が観た映画「ジャージー・ボーイズ(2014)」はクリント・イーストウッド監督、主役:フランキー・ヴァリ役にジョン・ロイド・ヤング。ウィキペディアで調べてみると、、もともと「ジャージー・ボーイズ」は実在の音楽グループのフォー・シーズンズの経歴を基にしたミュージカルで、2005年11月、ラホヤ・プレイハウスで初演。好評を受けブロードウェイに進出・・・したと言う。

この曲なら「あぁ知ってる、聴いたことがある」筈。


https://www.youtube.com/watch?v=njYHcutQYlI

君の瞳に恋してる
原題: CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU

1967年にフォー・シーズンズのフランキー・ヴァリがソロシングルとしてヒットさせ、のちにアルバム『Frankie Valli Solo』に収録された。ビルボード誌では、1967年7月22日に最高位の週間ランキング第2位を獲得した。1967年ビルボード誌の年間ランキングでは第12位。1982年にはボーイズ・タウン・ギャング(Boys Town Gang)がディスコ調にアレンジし、日本やイギリスなどで大ヒットした。


日本のサブカルで言えば漫画「NANA」的な面白さの作品と言えば若い人にも通りがいいかもしれない。

逆にお年を召した方は「フォーリーブス(ジャニーズ事務所)」を彷彿をさせるかもしれない。

誰しも青春時代を振り返ればラジオやCDから流れてきたBGMがある筈だ。甘酸っぱい思い出を回想すれば、そこには素敵な音楽があった筈だ。

「サザンオールスターズ」「リンドバーグ」etc。

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3、チェッカーズ

チェッカーズ (THE CHECKERS)は、1980年代から1990年代前半にかけて活動した男性7人によって構成された日本のロックバンド。福岡県久留米市にて結成。

<メンバー>
藤井郁弥(現:藤井フミヤ)(ふじい ふみや、1962年7月11日 - ):リードボーカル
武内享(たけうち とおる、1962年7月21日 - ):ギター、リーダー
高杢禎彦(たかもく よしひこ、1962年9月9日 - ):ボーカル
大土井裕二(おおどい ゆうじ、1962年11月2日 - ):ベース、副リーダー
鶴久政治(つるく まさはる、1964年3月31日 - ):ボーカル(他キーボード)
徳永善也(とくなが よしや、1964年6月7日 - 2004年8月17日):ドラムス
藤井尚之(ふじい なおゆき、1964年12月27日 - ):サックス(他ギター、フルートも担当)

<実績>
1983年3月29日上京して、目黒区のヤマハ音楽振興会の寮で生活をはじめる。9月21日、「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。
1984年、「涙のリクエスト」がヒット。ランキング番組に3曲同時ランクイン。チェッカーズは社会現象化し、ファッションなどにも大きな影響を与える。第35回NHK紅白歌合戦初出場。以降解散まで9年連続で紅白出場する。

人気アイドルグループとして10年の長きに渡って日本のミュージックシーンに君臨するものの1992年10月9日の「ミュージックステーション」内で、正式に解散を発表。12月にラストツアーを行い、12月31日の第43回NHK紅白歌合戦出場を最後に解散した

<その他>
『とんねるずのみなさんのおかげです』に月1回の準レギュラーとして出演。

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4、時代背景

<経済>

1983年~1992年と言えば、日本経済はバブル景気の最中で、自分の会社員生活はずっと安泰で、部長や役員への昇進は無理でも毎年給料は上がっていき、半年に一度のボーナスは数十万円もらえるのが当たり前で、数百万円の高額商品の買い物も60回ローン(5年間払)をくめばへっちゃら。普通のサラリーマンも35年ローンで市内に3LDKのマンションも買えちゃうよと言う終わりなきインフレの日々が永遠に続く事を信じて疑わない時代だった。

<政治>

政界に目をやれば、1982年に中曽根康弘(1次から3次)内閣発足。1987年田中角栄氏の傀儡政権に終止符打ち、竹下登(経世会)内閣誕生。リクルート疑獄事件で1989年宇野内閣が誕生するものの女性問題であっと言う間に海部内閣にバトンタッチ。1993年政治改革をめぐる政界の混乱の中内閣不信任が可決され宮澤喜一内閣は非自民連立政権の細川護煕内閣へ政権を譲渡。自民党一党独裁政治に終止符が打たれた時代。

<芸能>

昭和歌謡歌番組全盛期であった。所謂、木曜日の夜はTBS『ザ・ベストテン』をみんなが見ている時代で、アイドルは1980年...松田聖子、河合奈保子、三原順子、岩崎良美、柏原よしえ、1981年...薬師丸ひろ子、松本伊代、伊藤つかさ、1982年...小泉今日子、中森明菜、北原佐和子、早見優、石川秀美、堀ちえみ、原田知世、三田寛子、1983年...わらべ、岩井小百合、富田靖子、伊藤麻衣子、武田久美子、桑田靖子、松本明子、大沢逸美、森尾由美、1984年...菊池桃子、岡田有希子、安田成美、渡辺桂子、長山洋子、荻野目洋子、1985年組:おニャン子クラブ(グループとして初歌唱)、中山美穂、本田美奈子、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯、井森美幸、森口博子、いしのようこ。所謂、第1次アイドル戦国時代。

『ザ・ベストテン』(英称:The Best Ten)は、1978年1月19日から1989年9月28日までTBS系列局で、毎週木曜日の21:00 - 21:54 (JST) に生放送されていたTBS製作の音楽番組

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5、チェッカーズ結成から上京

福岡県久留米市にて結成。

1980年。藤井郁弥(カルコークでボーカル、高校卒後国鉄勤務)と武内享(ギター。楽器店でヤマハのピアノのセールスマン)によりグループ結成。高杢禎彦(サイドボーカル)は藤井兄弟と保育園時代からの幼馴染。鶴久政治(サイドボーカル)の実家は八百屋で、50'sというバンドでボーカルをしていた。大土井裕二(ベース)が加入。徳永善也(ドラムス)は、(勧誘を断ったら)山に埋めるぞと脅されて加入したのは有名な話。
1981年、ヤマハ・ライトミュージックコンテストジュニア部門で最優秀賞を受賞をきっけに、徳永善也と藤井尚之の高校卒業を待って1983年3月29日に上京。目黒区のヤマハ音楽振興会の寮で生活をはじめる。

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6、チェッカーズ快進撃。社会現象へ。

1983年9月21日、「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。1984年、「涙のリクエスト」がヒット。ランキング番組に3曲同時ランクイン。チェッカーズは社会現象化し、ファッションなどにも大きな影響を与える。第35回NHK紅白歌合戦初出場。以降解散まで9年連続で紅白出場する。

チェッカーズカット流行:後部を刈り上げ、前髪は長く。

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7、私がみたデビュー当時のチェッカーズ

私は年齢的に藤井郁弥氏や高杢禎彦氏とまったくドンピシャの同世代である。もちろん、毎週木曜日夜には『ザ・ベストテン』を見ていたし、華々しくチェッカーズが同番組に初登場した瞬間も覚えている。

P.153 高杢禎彦著:チェッカーズ

印象にあるのは、「ザ・ベストテン」で話題曲のコーナー(今週のスポットライト)に出て、すぐにベストテンに入り、勢いが止まらず一位まで上がったこと。当時、この番組は、超人気番組で、スタジオに歌手を呼べないと中継車がロケに出て歌う仕組みになっていた。それで、チェッカーズが最初に一位を取った時は、コンサートで福岡に行っていて、中継は久留米の南筑高校だった。俺、実は、この時感無量だった。久留米から東京に出してくれた両親には、「ほら、約束通りやっただろ。俺を東京へ出してよかっただろ」と思った。そして、次に来た感情の波は、「高杢理髪店の悪ガキはスターになった」だった。久留米での出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。俺が迷惑かけた奴、俺を見捨てないでずっと指導してくれた柳川高校の先生。世話になった人の顔が映画のフィルムのようにパーッと頭の中を通過した。

私は臨時の照明が当てられた南筑高校のグランドで「涙のリクエスト」を歌うチェッカーズをテレビ画面で見ていた。手持ちのカメラが鶴久政治、藤井郁弥、高杢禎彦のボーカル陣をパンする。

高校を卒業して福岡から出て来たばかりの男性7人組のグループが今、華々しいスポットライトを浴び人気番組に生出演している。終わる事のない日常の中で大きな夢を掴んだ若者達。私は心の中で言い知れぬ不安感を覚えた「あぁこの人達このままでは終わらないな。きっと何かある」と。光が眩ければ眩いほど、また陰も濃くなるのである。

今から30年前の映像なので、チンチクリンのチェックの衣装から髪型までお笑いだが、当時のプロモーション戦略としてはインパクトが必要だったのであろう。たしか「7人の小人」をモチーフにした衣装もあったし、世界を幸せのチャックで・・と言うようなキャッチフレーズもあった。チェッカーズのメンバーにしてみれば、プロデューサーから提供された楽曲も衣装もちゃんちゃらおかしいものであった。

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8、NANA

チェッカーズは波に乗り次々とシングルをリリースする。

1、ギザギザハートの子守唄(1983年9月21日)第35回紅白曲
2、涙のリクエスト(1984年1月21日)
3、哀しくてジェラシー(1984年5月1日)
4、星屑のステージ(1984年8月23日)
5、ジュリアに傷心(1984年11月21日)第36回紅白曲
6、あの娘とスキャンダル(1985年3月21日)
7、俺たちのロカビリーナイト(1985年7月5日)
8、HEART OF RAINBOW 愛の虹を渡って/ブルー・パシフィック(1985年9月21日)
9、神様ヘルプ!(1985年11月1日)
10、OH!! POPSTAR(1986年2月21日)
11、Song for U.S.A.(1986年6月5日)第37回紅白曲

ここでチェッカーズに転機が訪れる。

P.184 高杢禎彦著:チェッカーズ

ちょっと、話は前後したが、若干のタイムラグと思って欲しい。バブリーな話を続けざまに書いていくには、どうしても流れを止めることができなかったのだ。フミヤが高額所得者になったのは、印税によるものが多いと前にも書いたが、実はこれ、師匠の元を離れた結果だったのだ デビュー以来、何かと面倒を見てくれていた師匠。師匠は、俺達がドンドン売れていくことは、おそらく想像していただろうけど、人間性まで売り切れちゃうとは考えもしなかったと思う。 ベストテンの常連。出す曲は、ほとんど一位。これ、ほとん師匠が手がけたものだったのだけど、チェッカーズは一位が続き、紅白も毎年、当たり前のような顔して出るようになると、鼻がグングン伸びて天狗の鼻どころじゃなくなった。 「俺達には才能がある。オリジナルになっても十分やっていける。この人気があれば大丈夫。もう、師匠の元から離れよう」 チェッカーズのメンバーの誰もがある時、言い出した。誰も反対はしなかったんだから、同調者と呼ばれてもしかたないけれど、本当は、きれいな文章で「チェッカーズは師匠の教えを良く守り、やがて自分達の翼で大空へ舞い上がる日が来たのです」って書きたいけど。それを書いたら嘘になるし、これからの俺の人生の出発点に台無しになる。 「真実は一つ。真実に勝るものはナシ」って言葉があるけれど、俺は今回のこの本では自分自身には忠実になることを守る。他のメンバーがどう反論しようが思おうが、それは勝手。俺が知っている真実は一つだけなのだから。

才能があると考えたメンバーは、師匠に何も言わず、「これからはオリジナルで行く」と宣言した。当時のVTRを見れば、リーダーもフミヤもカッコ良いこと言っているが、あれはすべて俺からしたら、嘘のかたまり。もちろん、この俺に関しても。師匠から離れたかった一番の理由は「か・ね」それだけだ。
これはオリジナルになった作品をみてもらればすぐわかる。作曲は、尚之、ユウジ、マサハル、リーダーが担当したものが適当に散らばっているが作詞は、ほとんどがフミヤ。他のメンバーに作詞の才能がまったくないかと尋ねられれば、それは違う。でも、作詞はほとんどフミヤに集中した。メンバーは無頓着(常に高い均等割のギャラを先代からもらっていたから、満足していた)か芸術性にばからこだわる(尚之)かどちらかだった。
でも、ものには程度というものがある。人間には「これだけ金が入ればいいじゃん」って考える奴と、もう見境がつかなくなり、「もっとくれもっとくれ」と貪欲になる奴と二つのタイプに分けられると思う。「金持ちの強欲」とはよく言ったもの。
あのオリジナルに変わった時期は、まさにメンバーのこの人間の二面性がモロに出た時期だったと思う。具体的な曲名でいうと、86年の「NANA」からオリジナルになったのだけど、明らかにパワーは落ちた。
先代と師匠は深い仲で、先代を紹介してくれたのは師匠な訳だから、師匠も先代に言われたら何も反論はしない関係だったと思う。先代が、師匠に「こらえろ。ヒロこらえろ。こいつらなりに考えたことなんだから」と慰めた光景は、想像でも目に浮かぶ。「今、こいつら見えていないだけなんだから」とも言ったんじゃないかな。先代は。
金のためなら恩も売る。これがチェッカーズの本質だったのか!情けねえと思う。でも
、情けねえバンドだったから、解散してみんないい思いができなくなり、思い出として残っているんじゃないかと思う。利口なバンドだったら、ハウンド・ドッグのように長く続けているのだろう。
師匠には、デビュー前、散々世話になって、デビュー後もたくさん曲書いてもらって、売れて絶頂に来たら、「あんたはひっこんでて」っていう意味合いが、「これからは全部オリジナルでいきます」には含まれているのだから。
俺は、この本を書くにあたって芹澤廣明氏のことを師匠って書いているけど、他のメンバーの中には歌の先生ではあっても、人生の師匠とまでは思ってない奴もいると思う。私生活まで師匠だと考えている奴は、もしかしたらいないかもしれない。
俺は、師匠のおふくろさんが死んだら葬式には受付をやる(不謹慎なたとえで申し訳ありません)、師匠が、「こっかへ行くからお前来い」と言ったら、「じゃあ、俺が車運転していきますから」と素直に言える。それだけの想いは今でもある。
でも、この時の俺は、完全に舞い上がっていた。勢いに押され、メンバーの中に埋もれた。これ、絶対に自分自身の人生における汚点。もう、何やったって消せやしないけれど。
ただ、もう一度あの時へ戻れたら、オリジナルやるにしても堂々と師匠の所へ行って、事情を全部話すと思う。もう、完全に遅いけど。それに、この話は書いている自分が、怒りと情けなさの落ち込み筆が止まりがちになる。もう、これで充分でしょ、読者の皆さん。もうこれ以上深く書くことはできません。本当にごめんなさい。


12、NANA(1986年10月5日)
13、I Love you, SAYONARA(1987年3月5日)第38回紅白曲
14、WANDERER(1987年7月8日)
15、Blue Rain(1987年11月6日)
16、7つの海の地球儀(1987年11月6日)
17、ONE NIGHT GIGOLO(1988年3月21日)
18、Jim&Janeの伝説(1988年6月29日)
19、素直にI'm Sorry(1988年10月21日)第39回紅白曲
20、Room(1989年3月21日)
21、Cherie(1989年7月5日)
22、Friends and Dream(1989年12月6日)第40回紅白曲
23、運命 (SADAME)(1990年3月21日)
24、夜明けのブレス(1990年6月21日)第41回紅白曲
25、さよならをもう一度(1990年11月21日)
26、Love '91(1991年3月21日)
27、ミセス マーメイド(1991年9月4日)第42回紅白曲
28、ふれてごらん ?please touch your heart?(1991年12月4日)
29、今夜の涙は最高(1992年3月21日)
30、Blue Moon Stone(1992年5月21日)
31、Present for You(1992年11月20日)

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9、私がみたデビュー転換時のチェッカーズ

芸能に疎い私でさえ「NANA」は従来のチェッカーズの曲とは異なった感じがするものと受けとめた。「未来に感じ濡れてくれ」と言うきわどい歌詞の為、NHKで放送禁止となり、「チェッカーズのメンバーが本来やりたかった音楽はこれなんだそうです」とラジオのパーソナリティが番組中で紹介していた。ウィキペディアで発売されたシングルの作曲者名をみれば一目瞭然。ギザギザハートの子守唄(1983年9月21日) からSong for U.S.A.(1986年6月5日) まですべてのシングル曲をプロデュースしてきた芹澤廣明氏から離れ、「NANA」以降のチェッカーズはオリジナル路線を走ることになったのである。

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10、分断していたチェッカーズ

TV出演時や公に登場するチェッカーズは仲良し7人組を演じていたわけだが、実際には分断され、楽屋も分かれていたという。

P.219「解散までの一年間」 高杢禎彦著:チェッカーズ

解散の話が出てからの約一年間。俺にとっては、もっとも荒れた時期となった。辞めたくないという自分の願望とは逆に、辞めるためのライブや音楽活動をしていかなければならないのだから。 心情的には、どうしてもフミヤが許せなかった。オリジナルへ転向していく時もそうだが、フミヤは、チェッカーズに対する大きな波紋をいつも投げかける。これは、ひょっとすると、アマチュアバンド時代から続いていることかもしれない。たしかに、チェッカーズが結成される時も、7人のメンバー以上に人間はいたのに何人かを奴の考えで外した事もあった。こういった波紋を起こして、自分のやりたい方向へ強引に流していく。これは、フミヤの天性なのかもしれない。 この俺が荒れている時期、フミヤは俺に凄く気を遣った。もう、マネージャーのような感じだった。藤井フミヤにとって、解散までの約一年間は、地獄のような日々だったかもしれない。 例えば、タバコを切らして、「おい、フミヤ、タバコ買ってこいよ」と言えば、素直に買いに行くという具合だ。 もう、やっていることは、フミヤが気を遣っていることを承知で、学生時代のジャイアンに俺は戻っていた。フミヤは、仕事が入ると俺とマサハルとクロベエがいる楽屋によく顔を出した。これも完全に気を遣っている。なぜなら、他のトオル、ユウジ、尚之はもう楽屋にさえよっぽどの用事がない限り来ることはなかったからだ。完全にチェッカーズは二分化された。 尚之は、遠くでみながらもそんな俺とフミヤに関係のとまどいを持っていたと思う。尚之にとって、フミヤは兄貴だし、俺は学生時代からずっと面倒を見てきた隣のいいアンチャンなのだから。

私の記憶にもこんなエピソードが残っている。あるラジオ番組に高杢氏以外のメンバーが出演していた。当時、高杢氏の婚約が公になっていた時期だったのだが、実は、高杢氏の婚約を他のメンバーは当人から直接聴いておらず、うどん屋で食事中に偶然放送されていた番組の報道で知ったと語っていた。・・・人気グループのメンバー同士の関係はそんなに希薄なものなのか?と訝(いぶか)しく思ったものだが、なんの事はないチェッカーズは解散の危機を迎えておりメンバーの関係は既に悪化していたのであった。

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11、逝ったクロベエ:徳永善也さん

1992年一杯で解散して10年・・高杢氏の著書:チェッカーズ(新潮社)の発行は2003年06月25日。それから約1年後、チェッカーズのドラムス:クロベエこと徳永善也さんが2004年8月17日、舌癌により40歳の若さで死去。

徳永善也さんのウィキペディアを覗いてみると、

ウィキペディア

徳永の実父は会社を自営していたが、仕事で運転していた車での踏切事故で1985年の年末に他界。この事故についての補償など事後処理は、チェッカーズの所属事務所・スリースタープロが行ったという。チェッカーズは1992年一杯で解散し、藤井郁弥(現:藤井フミヤ)・尚之兄弟・武内亨・大土井裕二はスリースタープロを事情あって退社したが、徳永は高杢禎彦・鶴久政治とともに社に残った。これは鉄道事故補償の恩義を徳永が通したからだといわれる。

と言う記述があった。チェッカーズが所属していたスリースタープロに残った高杢禎彦・鶴久政治・徳永善也、退社した藤井郁弥(現:藤井フミヤ)・尚之兄弟・武内亨・大土井裕二という構図は二分化した構図そのものであった。

また、徳永善也さんの死去に関しては、徳永善也を送る会の発起人は武内享、藤井フミヤ、大土井裕二、藤井尚之、隈富太郎・・5名が連名で表記されており、ここでも、高杢禎彦・鶴久政治さんとの不仲が見て取れる。

当時、マスコミでもこの件は取り沙汰され話題となった。

鶴久政治さんのウィキペディアを覗いてみると、

ウィキペディア

チェッカーズドラムス担当の徳永善也が亡くなった際、ワイドショーに高杢と出演し司会者からチェッカーズ元メンバー同士の確執に触れられると「今こんなときなのに。命よりも重い確執ってあるんですかね?」と嘆き泣いた。

ビートルズにジョンレノンやハリスンが不可欠なのと一緒で、チェッカーズにはクロベエ:徳永善也さんが不可欠なのである。例え一夜限りでもチェッカーズは復活もしないし再結成もしない。ただ、我々の青春の思い出の1ページに書き残される各々のチェッカーズが在るだけ。それでいい。

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12、高杢氏の著書:チェッカーズを無視

徳永善也さんの死去の際の「送る会の発起人」騒動の時、マスコミからのインタビューに関して藤井フミヤ氏はこう答えていた。「(高杢禎彦氏が書いた「チェッカーズ」に関して)ここにいるメンバー(藤井郁弥・尚之兄弟・武内亨・大土井裕二)の誰ひとりとして読んでないし、デタラメな本だから読む必要ないと聞いている」と。

字面(じずら)だけみていると、自分が第三者から聞いている評価は「デタラメ」とヤンワリと本の内容を否定しながらも、実際自分は読んでないから内容をきかれてもわかりません・・と金持ち喧嘩せずと大人の対応をしながらも、内容については「知りません、わかりません」と逃げているのである。

まぁ人気グループの恥部が晒されている本の記述にいちいち反論したり激高したりすればマスコミの思うツボなので、体よく無視しているのだろう。元チェッカーズのメンバーは芸能界で芸能活動を継続中なのだから「夢を売るお仕事」をする上で自分の世間からの好感度を下げたくはないのである。

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13、資料:フミヤ、高杢側の"挑発"ファクスで無視宣言

元チェッカーズの高杢(たかもく)禎彦(42)が、解散の経緯について綴った自著を藤井フミヤ(42)に「デタラメな本」などと言われたことに対し、「法的な措置も選ばざるを得ない」と応えていた問題で、フミヤ側は15日、ファクスでマスコミに緊急コメント。「十数年前のチェッカーズの解散については、今はお話することはありません。また、今後、本などを出版する予定もありません」と、高杢側の"挑発"を無視する姿勢を明らかにした。

クロベエこと故徳永善也さん(享年40)の「送る会」をきっかけに明らかになったメンバー間の確執だが、果たしてこれで終止符が打たれるか?

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14、資料:元チェッカーズ鶴久政治の露出増加 『有吉ゼミ』出演が転機

8月16日(土)16時6分配信

元チェッカーズ・鶴久政治(50)のテレビ出演が増加している。最近1か月ほどの間でも、『さんまのスーパーからくりTV』(TBS系)、『ナカイの窓 芸能人100人一斉調査SP』、『誰だって波瀾爆笑』(ともに日本テレビ系)などの番組に出演。ここ数年、ほとんどテレビ出演のなかった鶴久に再びスポッ トが当たりつつある。どうしてなのだろうか。テレビ局関係者が話す。

「そもそも、チェッカーズというスーパーグループのサイドボーカルとして知名度は高いし、今のテレビ界において1980年代アイドルの存在は大きい。懐かしの名曲を振り返る企画などでは、"元チェッカーズ"としての需要があるわけです。

本当はリードボーカルの藤井フミヤに出てもらいたいが、フミヤはチェッカーズ時代の版権を放棄しているし、過去のVTRも使いにくい。現役バリバリの アーティストですから、懐かし企画に出るメリットもあまりないでしょう。だから、チェッカーズ振り返りものには、鶴久が呼ばれるケースが増えたわけです」

そこに加えて、最近では、『有吉ゼミ』(日本テレビ系)で"片付けすぎ男子"として、クローズアップされたことが大きいのだという。

「これまでのイメージと違う意外な一面を見せてくれました。芸能人はストロングポイントが1つだけだと厳しい。番組制作側から見た場合、これまでの鶴久は正直なところ、"元チェッカーズ"というストロングポイントしかなかった。

それが、"片付けすぎ男子"という新たな魅力が加わった。また、『有吉ゼミ』はゴールデン帯の高視聴率番組ですから、一般的にも業界的にも、多くの人が見ている。これによって、他の番組でも鶴久を起用すると面白いのでは、と考えるようになったのです」(同前)

『誰だって波瀾爆笑』では、チェッカーズ時代から仲良しという元光GENJI・諸星和己と共演。鶴久作曲のチェッカーズのヒットソング『夜明けのブレス』を鶴久のギターとコーラスに合わせて、諸星が熱唱。鶴久が諸星に曲を書くプランも話題に飛び出した。

「番組側としては、光GENJIファンとチェッカーズファンの両方を取り込める。どちらも活躍を知っているファン層の世代が近いので、仮に光GENJI ファンでチャンネルを合わせた視聴者はチェッカーズの映像も楽しめるし、逆も同じとなるわけです。大スターの諸星とサイドボーカル気質の鶴久は、相性もい いと思いましたね。『波瀾爆笑』でも、諸星がわざと横柄な態度に出る部分を、鶴久がうまくフォローしていました」(同前)

今後、鶴久のテレビ出演は、ますます増えていくのかもしれない。

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15、資料:チェッカーズのサイドボーカル 鶴久と高杢が共演しない理由

2014.07.22 11:00

元チェッカーズの鶴久政治が、7月13日に放映された『さんまのスーパーからくりTV』(TBS系)の2時間スペシャル『夏の芸能人かえうた祭』 に出演した。この日、鶴久はリードボーカルとして『ジュリアに傷心』の替え歌『鶴久の嫉妬心(ジェラシーハート)』を披露。"サイドボーカルの悲しみ"を テーマに歌い、会場の笑いを誘った。
チェッカーズといえば、1984年には『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』が3曲同時にベストテン入り。前髪を 垂らし、後ろは刈り上げる"チェッカーズカット"を全国の中高生がマネし、社会現象となったアイドルグループだった。その後も、『星屑のステージ』『夜明 けのブレス』『ミセスマーメイド』などヒット曲を連発し、1992年、惜しまれながらも解散した。
チェッカーズ解散後、リードボーカルの藤井郁弥(現・フミヤ)はソロとして大活躍している。では、鶴久と高杢禎彦という2人のサイドボーカルコン ビはどうだったのか。解散当初は、高杢はバラエティやドラマを中心に、鶴久政治は音楽活動も続けながら、バラエティにも出演していた。『夜もヒッパレ』 (日本テレビ系)などで、高杢と鶴久2人揃って熱唱するなど、チェッカーズ時代と変わらぬ息のあったところも見せていた。
だが、最近、鶴久は『有吉ゼミ』(日本テレビ系)に"片付け男子"として度々出演するなどテレビで顔を見掛ける機会が増えているが、高杢の姿はあまり見る機会がない。なぜだろうか。芸能担当記者が語る。
「チェッカーズ解散後、2人は同じ事務所に所属していたこともあり、セットでの出演が多かった。でも、今は別々の事務所ということもあり、共演が減っています」
それだけでなく、別の事情もあるという。テレビ局関係者が話す。
「世間は、どうしても『チェッカーズ=フミヤのいたバンド』というイメージを持ちます。逆に言えば、『元チェッカーズ』の看板を引っ提げてテレビ出 演する場合、何らかの形でフミヤには触れざるを得ない。事実、『からくり~』の替え歌でも、鶴久はフミヤという単語を出していたし、フリートークでもフミ ヤの話題が出ました。
そうなると、当然の帰結として、2003年に暴露本を出版し、フミヤを痛烈に批判した高杢は、バラエティ番組では使いにくい。フミヤについて触れづらいし、なにか言った所で笑えませんからね」
実際、高杢は暴露本の出版以降、テレビ出演が大幅に減っている。今、いったい何をしているのだろうか。前出・芸能担当記者が話す。
「主に講演会の仕事をしています。埼玉県の制作する道路使用適正化に関するビデオにも出ていますね。ちなみに、今年初めてのホームページ更新は、5月30日。『ご無沙汰してます!』というタイトルで、都内の高校のPTAを対象とした講演会の案内でした」
高杢が再びテレビで活躍する日は来るか。

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16、資料:チェッカーズ確執報道 高杢にこれだけは言っておきたい

世間では「フミヤが高杢・鶴久を仲間外れにして最低だ」という意見が多い。
テレビでは、高杢の暴露本を基に確執を伝えている。
しかし、この本を読んだ後、高杢の味方をする人はほとんどいないだろう。
いたとしたら、よっぽど洗脳されやすい人だと思う。

基本的に暴露本(高杢は生放送でボーロ本といってスタジオを凍らせた)
を書く神経がわからない。
そして、それを基に報道するマスコミは信用できない。
だって、暴露本なんて自分に都合のいいことしか書かないし、
過去のことなんてどうにでも言える。
人間は過去を美化する傾向がある。
だから、解散から11年後に発売された本に信憑性は持てない。

この本で高杢は、
オリジナル(シングルをメンバーの作詞・作曲)に移行したのは「か・ね」が目当てだった、
と書いている。
しかし、当時のインタビュー記事を見ると、
「俺がフミヤにオリジナルで行けると言った」と意味のない自慢をしているし、
高杢もオリジナル移行に賛成していたはずだ。

音楽をやっている人間がオリジナルで勝負したいと思うのは当たり前だ。
では、なぜ今さら高杢が「か・ね」目当てだった、などと言い出したのか。

高杢は作詞・作曲が出来ず、印税が入ってこないからだ。
その当て付けで、今さら暴露本(ボーロ本)を出すことによって印税をかっさらっている。
オリジナル移行当時までは、高杢も作詞していた。
(といってもアルバムに1曲入るか入らないかだが)。
しかし、88年発売のアルバム「スクリュー」で1曲作詞してから解散まで1度もしていない。
要するに、高杢は失格の烙印を押されたのだ。
考えてもみて欲しい。
作詞も楽器も出来ずに、メンバーでいるやるせなさを。
高杢は小学生の頃から、番長として突っ走ってきて、
チェッカーズで天下を取った(気分でいた)。
そんな男が、失格の烙印を押されたのだ。
野球で言えば、ガキ大将が補欠のようなもの。
カッコがつかない。
居場所がないことは想像するに難くない。
雑誌でもメンバーは音楽を語っているのに、高杢はなぜか人生を語っているのだ。

高杢はソロ活動を開始する。
高杢と鶴久がソロ活動で忙しくなり(89年辺り)、
チェッカーズはレコーディングすらままならないこともあった。
(忙しくなったと言っても、高杢のソロコンサートは3列目までしか埋まらなかったのだが。事実)
メンバーの心が徐々に離れていったのはこの辺りではないだろうか。
89年12月発売の「Friends&Dream」は、フミヤが高杢を思って書いた曲だとも言われている。

メンバー間の溝は深まる一方で、91年秋にフミヤが解散を提案した。
すると、高杢は「解散して、食っていける奴なんていない」とキレる。
結局、多数決(4対3)でチェッカーズは解散をする。

当たり前だが、暴露本は自分に都合のいいことしか書かない。
この暴露本でも、オリジナル移行(86年秋)から、
話は突然、91年秋の解散に移る(途中、フミヤが高杢を引き止めた話が出てくるが)。
この5年にあったことをもっと詳しく書くべきである。
だいたい、解散しようといった奴が悪いのだろうか。
解散しようと言わせた原因を作った奴が悪いんじゃないか。
なのに「解散したら、誰もメシ食っていけない」と逆ギレする。

他のメンバーは音楽で食っていける。
高杢はチェッカーズという看板がなくなれば、タレント活動が危うくなる。
結局は、自分のことしか考えていないと思われる。
だいたい、暴露本の題名が「チェッカーズ」というのが、
いかに高杢は「チェッカーズ」という名前に頼っているかを象徴している。
「クロベエを送る会」以降、ワイドショーに連日出演している高杢。
ザ・ワイドに出た時は、後ろに暴露本のポスターを貼っていたのだ。

こんな人と仲直りなんて出来るわけがない。
マスコミは「葬式くらい一緒にやってもいいじゃないか」と言うが、
自分が他のメンバーでも、そう言えるのだろうか。
傍から見ても、高杢は相当意地汚い奴だとわかる。
そんな奴がずっと側にいた。そして、解散しても噛み付いてくる。
他のメンバーは、腸煮えくり返っているに違いない。
「葬式くらい一緒にやってもいいじゃないか」
と思えない位、許せないんだよ。
そこを理解する、いや理解なんてしなくてもいいが、
ワイドショーやスポーツ紙は、もう少し客観的な報道をすべきだね。
高杢の暴露本から引用して、ストーリーを組み立てるのがおかしい。
高杢の主観でしかないんだから。
そんなことより、もっと客観的な出来事(事実)を並べて検証した方がいいよ。
冷静に高杢の発言を聞いていると、矛盾していることが多いんだよね。
発起人の問題にしても、高杢も鶴久も7~8年クロベエに会ってないわけ。
なのに、他メンバーが「送る会をやる」と言い出したら、
「俺達も加えろ」ってそれはおかしいだろ。

クロベエが七夕の時、
「皆仲良くなりますように」と書いたらしいが、
必ずしもチェッカーズのことを指しているとは限らない。
クロベエが所属していたバンド「WILD-G」も確執があったんだってさ。
冷静に考えたら、12年も前に解散してバンドのこと言うかね。
それより今のバンドのこというんじゃないかな。
俺はクロベエじゃないからわからないけどさ。
あと、クロベエのお姉さんにインタビューしてたワイドショーがあったね。
基本的にテレビは自分達の作りたいように作る。
自分達の欲している発言を基に作り上げるものだから、
ノーカット版見ないと判断って難しいよね。
わざわざ、来てくれたという恩だって感じるだろうしね。

まあ、早い話がフミヤを叩いた方が視聴率を取れる。
だから叩くわけだ。
だって、テレビ欄に「高杢」とだけ載っても、誰も見ないしね。
「なんて読むの?たかきえ???」ってことになるし。
小学生は漢字を覚えるいいチャンスだけどさ。
まあ、マスコミに流されず、自分でちゃんとリサーチしないとな。

以上です、編集長!
もっと書きたいことあるんだけど、今日はこの辺で。
高杢は自分の過去なかったことにしようとしてるからな。
解散後、「恥ずかしき事の数々」(93年5月)ってシングル出してオリコンに入らなかったこととかね。この12年音楽をやってないのに、
「再結成してもいいと思っている」という発言とか有り得ないでしょ。
暴露本(ボーロ本)書いてるくせにさ。
マサハルには嘘泣きするなといいたい。涙出てないよ。
笑ってたのに、いきなり泣けねえつーの。
マサハルは、いい曲書いてたから悲しいよ。
「ミセスマーメード」とか「Jim&Janeの伝説」とか素晴らしいじゃないか。
なんでこんなになっちゃったわけ???
だいたい、この2人はなんでテレビに出て抗議するんだ?
直接本人たちに言えばいいじゃないか。
ただ単に、高杢の本の宣伝じゃねえか。虚しいな。

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17、チェッカーズの藤井郁弥は死んだ

葛飾北斎を知っているだろうか?『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」や赤富士が有名な浮世絵師である。あのゴッホをはじめとする西洋の芸術家にも大きな影響を与えた事で知られる。

実は北斎は、改号を頻繁に繰り返したという。ウィキペディアの記述によると30回。名前を変えるとはどういった意味があるのか?

精神分析的視点で語ると、改号すると言うことは「新しい自分に生まれ変わる」事であり、それは「過去の自分を殺すこと」である。

80年代を代表するアイドル歌手の松田聖子(チェッカーズと同様に福岡県久留米市出身)さんの本名をご存知だろうか?蒲池法子(かまちのりこ)である。蒲池家は江戸時代は柳川藩家老格だった旧家である。蒲池法子ではアイドルスターとしての字面や韻が良くなかったのか?蒲池法子さんは、松田聖子として生まれ変わって芸能界に打って出たのである。

芸能人やタレント、芸人、作家といわれる個人的な才能を拠り所に生きていく人は、芸名、源氏名、ペンネームを名乗る。親が名付けた名前を捨て、自分を自分で規定し生きて行くのである。

そう言った意味において、「ギザギザハートの子守唄」、「涙のリクエスト」、「ジュリアに傷心」などの芹澤廣明氏のプロデュースしたチェッカーズの初期曲群で世に出た藤井郁弥@チェッカーズは既に死んで、いや自らを殺して、藤井フミヤ@アーティストに生まれ変わったのである。

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18、藤井フミヤ誕生

前述した通り「NANA」からオリジナル路線を走り始め、その多くを作詞した藤井郁弥氏には多額の印税が支払われる様になったわけです。例えば、読者がカラオケ店で藤井郁弥作詞、藤井尚之作曲のNANAを歌えば、応分の印税が藤井兄弟に支払われるわけです。高杢禎彦氏は当時チェッカーズが所属していた事務所スリースタープロからメンバーには均等割のギャラが支払われてしたと著書:チェッカーズで記述していますが、藤井フミヤ氏にしてみれば、このアイドル人気もいつまで続くかわからないし、将来の生活を考えても一人のアーティストとして独立してやっていける方向で考えるべきと舵を切るのはおかしな事ではないし、むしろ才能のあるものなら当然の考えの帰結と言える。

藤井郁弥は1990年6月29日(三十路前)、長年交際していた中学校の同級生と結婚、久留米水天宮で挙式し、一男一女を授かった。穿った見方をすれば、結婚する事=家庭人としてきて行く事を決意する事であり、いずれは「そして父になる」覚悟をする事でもある。いつまでも藤井郁弥@チェッカーズではいられない。彼は藤井フミヤ@アーティストに生まれ変わった。

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19、藤井郁弥の亡骸

ウィキペディアのチェッカーズを斜め読みしても、

2.1 デビュー前
2.2 前期(1983年 - 1985年)・アイドル的人気の沸騰
2.3 中期(1986年 - 1989年)・楽曲のオリジナル化とソロ活動の並行
2.4 後期・末期(1990年 - 1992年)・それぞれの道へ

・・・と、オリジナル路線への変更を中期と定義している。

高杢禎彦氏は著書「チェッカーズ」において、オリジナル路線への変更によって「明らかにパワーが落ちた」と回想しているが、一発屋で消えていくタレント・芸人も多くいる世界で、チェッカーズは解散まで9回連続紅白歌合戦出場を成し遂げている。浮き沈みの激しい世界で、オリジナル路線に変更してもポテンシャルを維持し続けたのも事実で、チェッカーズの繰り出した多くの楽曲を作成し続けた藤井郁弥氏のアーティストとしての実力を認めざるを得えないのである。

藤井フミヤ氏のウィキペディアをのぞいてみると、音楽を志した考えを以下の様に語っている。

ウィキペディア

アートについては、ラジオ番組で、パリの個展を実績をかたり自らの経験や知識を示し、第一線で活躍するコンテンポラリーアーティストであるダミアン・ハーストの「牛の親子を真っ二つにした作品(Mother and Child Divided)」を挙げて、番組のゲストであった土岐麻子にその印象、関心もしくは評価を尋ねるなど、関心の高さを伺わせている。同時に、「自分が他人に何で勝てるかと考えたときに、(フミヤートではなく)音楽しかないという結論に至った」としている。加えて、「アートに関心を持っても、その作品そのものが自宅に入り込むことは無いが、音楽であれば(たとえCDやラジオであっても)本物が生活に入ってくる。加えて、音楽は繰り返し鑑賞してもらえるから、アートより強く理解される」という、音楽優位の考えを述べている。

やはり藤井フミヤ氏はかしこい。アートではなく音楽の方が人々に強く理解される(ビジネスになる)と考えていたのである。

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20、藤井フミヤと高杢禎彦のその後

チェッカーズのシングル「Friends and Dream」(1989年12月6日)作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治の中に「俺たちは いつからガキじゃなくなったんたろう 俺たちは いつから大人になったんだろう」と語るくだりがある。

一説には郁弥が高杢に贈った歌詞とも言われている。

あのガレージで作った翼があるさ oh well
大丈夫さボロボロでもまだとべるぜ

Boys on Dream Boys on Dream
初めて見たよおまえの流す涙
Boys on Dream Boys on Dream
笑っていいか 似合わない弱気な背中
言いたくないなら聞きはしない
朝までグラスに 酒注ぎ足してやるだけさ
昔も今も俺たちは遠い日のまま
時の流れが夢の形変えても

俺たちは いつからガキじゃなくなったんたろう
俺たちは いつから大人になったんだろう

Friends and Dream Friends and Dream
それぞれの道 いつかはみつかるはずだから
くだらぬ賭けをして別れよう
思い出の半分はいつまでも仲間さ
夕日のスクリーン映る笑い声が
壊れたGT どこまでも押して行く
俺たちずっと石ころのダイヤでいような oh well
そいつだけは守れそうな 約束だったぜ
昔も今も俺たちは遠い日のまま
時の流れが夢の形変えても

大丈夫さボロボロでも You can still fly
Oh well 大丈夫さ ボロボロでも You can still fly

今、現在、2014年10月であるから、チェッカーズ解散から20年余り、高杢禎彦氏の「チェッカーズ」出版(2003年)から10年余り・・時間の経過は残酷である。

藤井フミヤ氏は現在もソロアーティストとして全国でコンサートを開いている。地元福岡ソフトバンクホークス公式セレモニーソング「勝利の空へ」を作詞・作曲するなど相変わらず^^。FBS福岡放送のロゴマークの作成などデザイナーとしても才能を発揮している。2014年→2015年の武道館でのカウントダウンライブを予定。高杢禎彦氏は個人事務所を開き華々しくはないがタレント活動を継続中。

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21、おわりに(投企)

誰しも青春の甘すっぱい時期に聞こえてきた「音楽」がある筈。私の青春はチェッカーズであり、松田聖子であり、中森明菜であり、小泉今日子であるわけです。

今回は映画「ジャージー・ボーイズ」鑑賞から「チェッカーズ」を思い出し、精神分析的視点で語ってみました。

ここで心理学で用いられる「投企(とうき)」と言う語を紹介しましょう。

日本実業出版社「絵でわかる現代思想」より

ハイデガーは、人間が世界を構成する純粋意識ではなく、自分が選んだり、造ったりしわけでもない世界に否応なく投げ込まれてしまっている存在であると指摘した。

人間は否応なしにこの世界を生きなければならない。このすべての人間に共通した状態をハイデガーは「被投性」と名づけた。

そして、被投性は、気分(とりわけ、不安)を通して自覚される。

たとえば、日常生活の中でぼっかり空いたエアポケットのような瞬間に、「どうして俺はここにこうして生きているのか?」、あるいは、「やがて死ぬ自分にとって、生きることにどんな意味があるのか?」といった不安を抱えた問いが、誰にも忍び寄る。

このとき、われわれは「どうして自分はここに存在するのか?」という不安から、自分がこの世界に投げ込まれており、ここから決して逃れられないこと(被投性)を自覚せざるをえない。

いったん、被投性を自覚すると、ヒトは、いつか自分が死によって、この世界から強制的に退場させられる事に気がつく。

自分の死を鋭く意識することをハイデガーは死への「先駆的覚悟性」と呼んだ。

この死の自覚からさらに自分の生の意味をもう一度捉えなおし、再構成する試みが始まる。

この試みは「投企(とうき)」と呼ばれる。

ここまでを整理すると、世界の中に否応なしに投げ込まれていた者が、不安を通してそれを自覚し、そこから新たに自分を捉えなおし、新たな生き方を始めるという流れが読み取れる。

死の自覚を通して、人間は自分を新たな可能性に向けて投げ込むことができる。人間は不安を通して被投性に直面させられるが、逆にこれによってはじめて、存在と自由の真の意味が得られるのである。。

この記事を読んでいる皆さんは、10年前、20年前の自分はどうだっか?思い出せますか?今とは明らかに違った自分でしょ?日々少しづつ人は変わっていく、成長していく、生まれ変わるのです。それを「投企」と呼びます。

藤井フミヤ氏はチェッカーズを解散する事によってアーティストと自立しようと「投企」し、高杢禎彦氏は食道ガンの羅患によって高杢@ジャイアンから「投企」したのではないか?

2014年平成26年10月31日 月刊 精神分析 編集部A

ご意見ご感想はlacan.fukuoka@gmail.comまでお願いします。

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22、JAL123便とチェッカーズ

チェッカーズ関連の記事をサーチしていて気になった件があったのでメモしておきます。1982年08月12日。日本航空123便墜落事故がおこった当日同時刻、チェッカーズは西武球場でライブ(コンサート)を挙行していた。西武球場がドーム化され西武ドームとして生まれ変わったのが1999年なので1982年事件当時はまだ「西武球場」だった。

日本航空123便墜落事故

1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した航空事故である。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2014年4月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である。

JAL123便には歌手の坂本九さんも乗り合わせて不遇の死を遂げるのだが、なぜか、事件当日、チェッカーズのコンサート中で坂本さんの曲を歌ったと記述しているブログをネット上で複数件見かけた。なお商品化された記録ビデオから件のシーンはカットされているという。

18時、JAL123便、羽田離陸。
18:24爆発音(伊豆半島上空)
山梨県大月で円を書くように旋回。
18:46機長「これはダメかもしれんね」
18:56御巣鷹山に激突。
19:13「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」とのニュース速報を配信。
確かにチェッカーズコンサート開催中の事故なのだが、JAL123便が埼玉上空を飛んだとの記録はない。更に、報道機関が速報したのが19:13。

あるチェッカーズファンのブログより引用

今年もこの日が来ました、29年前の今日、とても悲惨な事故が起きました。

日航機墜落事故です。

私は直接的な遺族ではないですが、この日が来るととても悲しくなりいつも涙が出てしまいます。

どんなに月日がたっても、突然家族を亡くした悲しみは決して癒えることはないと思います。

改めて犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

私は8歳くらいでしたか、小学生でしたがこの事故はとてもよく覚えています。

1985年の08月12日は、初めてライブに行った思い出の日でもあるからです。

その頃、チェッカーズが大好きで大好きで、母と一緒に所沢の西武球場(今の西武ドーム)のライブに行っていました。「TYPHOON CHECKERS IN SEIBU STADIUM」

ライブ開演が確か18時だったかと。
私はスタンドの、上から数えた方が早いくらいの壁席にいました。
ライブが始まって、上空にかなりたくさんのヘリコプターが飛んでいたのを覚えています。
生中継?それとも撮影かな・・それにしては多いなあ...
子供心に不思議に思ってました。

このとき、123便はこのあたりを迷走していたとのこと。
ビデオには映ってないと思いますが、映ってるという人もいますね。

尚ちゃんのソロ曲のときがちょうど墜落時間
ビデオではカットされてますが、ムーンライトレビューのときだったか
フミヤから坂本九さんの名前が出たんですよね~、記憶が確かならですが。
なんせ子供だったのでそこらへんはあいまいです・・・
今思うと、なんかすごいですね。

私がこの事故を知ったのは、ライブが終わり千葉に帰った夜遅く。
駅からのバスはもちろんなくタクシーで帰ったのですが、その車中で。ラジオで知りました。

家に帰って父が「すごい事故が起きたぞ...」と
夜の暗い闇がそのまま恐怖につながる感じがしてとても怖かった記憶があります。

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Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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