福岡県知事亀井光奥田八ニ

1、はじめに

福岡県民の皆様は如何お過ごしでしょうか?

現在、巷では、舛添要一(ますぞえよういち:自民党・公明党推薦)都知事の政治資金の使い方が問題になっています。私は福岡県民ですので門外漢なのですが、・・゜まぁ彼が福岡県(北九州市)出身の国際政治学者だというのはさておいて・・。

今月の月刊精神分析では、我が郷土、福岡県の政治史の一面一事象を書き留ておこうと思います。

「温故知新」と言うわけではないですが、最近、やたら昔の事を思い出してしまって・・・

現在、52歳(1963年昭和38年生れ)の私からすると、昔の福岡県の政治史と言えば「亀井光(かめいひかる)」「奥田八二(おくだはちじ)」の保革県政交代劇が思いだされます。もうかれこれ30年以上前の事。それは、私が20歳になって投票権を得て初の選挙(第10回統一地方選挙 投票日:1983年04月10日)の事でした。

「亀井光」「奥田八二」でGoogle検索するものの、当時の選挙戦を詳しく伝える資料は殆ど入手できず(一部は都市伝説化)関連画像も殆どでてきません。私はインターネットの黎明期は1995年位と記憶していて、それ以前の世の中の情報は必然的に粗い情報しかネット上にアップロードされていないので検索しても思うような情報が入手できません。ウィキペディアの「福岡県知事一覧」でさえ1999年以前の情報がありません。

1983年の選挙の時、主役としてコミットした人はすでに社会の第一線から退かれている筈で、今となっては、こういう忘れられた情報の入手整理こそが大切な事の様に思います。

本サイトを作成するにあたり福岡県立図書館のお世話になりました。ありがとうございました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。
おごれる舛添は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

ぎおんしょうじゃのかねのこえ/しょぎょうむじょうのひびきあり/しゃらそうじゅのはなのいろ/じょうしゃひっすいのことわりをあらわす/おごれるますぞえはひさしからず/ただはるのよのゆめのごとし/たけきものもついにはほろびぬ/ひとえにかぜのまえのちりのごとし/

2016年平成28年06月08日 月刊 精神分析 編集部A
*今日で秋葉原無差別殺傷事件発生から丸8年です。

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2、知事職の始まりは「藩」

歴史的背景-知事職を語る時には、その歴史的背景を語らねばならない。

江戸時代は幕府から命じられたお殿様が「藩」という括りで江戸以外の地方を治めていました。福岡藩黒田52万石。ご存知、戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男、黒田長政が立藩し初代藩主となった(1600年 - 1871年)。日本国は17~18世紀はお殿様によって支配されたわけです。

廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。

明治維新後、明治政府による天皇親政体制の転換がなされ「府」「県」という行政単位と「知事」という役職が誕生したものの「知事」は、民主的な選挙で選ばれる知事ではなく、内務省という省庁から派遣されて赴任する今で言うところの「キャリア官僚」でした。

私達が自身の一票で「知事」を選べる様になるのには第二次世界大戦の終戦(1945年)大日本帝国の終焉を待たねばなりませんでした。

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3、「官選知事」から「公選知事」へ

戦前は、いわゆる「官選知事」と呼ばれており、官僚が知事に任命されていました。

戦前には、「内務省」という警察や地方行政、社会政策等の内政全般を統括する省庁があり、ここの地方行政部門に所属するキャリア官僚が各地の知事に任命されていました。官選知事は、2年程度で転任していました。例えば、青森県知事を務めた人が群馬県知事に転任し、その次に福岡県知事になるというように、各地を渡り歩いていたのです。これは、現在でいえば、警察庁のキャリア官僚が各地の県警本部長を歴任すること、あるいは、外務省のキャリア官僚が各国の大使を歴任することに似ています。

内務大臣から任命された官僚が知事として赴くのですから、都道府県の行政は完全に国の管轄の下に置かれていました。現在の「地方自治」という考え方とは異なっていたのです。

戦後の改革によって地方自治法が施行され、1947年以降は選挙によって知事が選ばれるようになりました。

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4、殿様知事といえば細川護熙氏

img05.jpgネットを検索すると・・・都道府県知事は、人事から事業承認にいたるまでほとんどの最終決定権を持っており、まさに現代の「殿様」といえます。志あるものはやはり知事に憧れるものだと思います。さて、殿様(大名)だった人物の子孫が知事になった「殿様知事」は、現行の知事制度において5人います。・・・などと紹介するサイトがありました。

私の記憶の中の「お殿様知事」と言えば頭に浮かぶのは・・「細川護熙さん」その人であります。




細川護熙

第4代熊本県知事 細川護熙(ほそかわ もりひろ 2期就任:1983年2月~1991年2月)東京出身。上智大、朝日新聞、参議院議員。 熊本藩主・細川忠興の末裔で、もっとも有名な殿様知事。

福岡県民の私からすると、日本新党結党(1992年5月22日)記者会見で代表としてテレビ画面に現れたのが細川護熙その人でありました。当時の政界トップは、宮澤喜一総理大臣。宮澤氏はいわゆる55年体制最後の総理の任にあたっていた。

55年体制とは

55年体制(ごじゅうごねんたいせい)は、日本において、与党第1党は自由民主党が占め政権を維持し、野党第1党は日本社会党が占めていた体制。1955年(昭和30年)にこの構図が成立したためこう呼ばれる。細川政権が発足した1993年8月をもって崩壊。

宮澤喜一総理は自民党の徳川慶喜

折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが、自身は必ずしも小選挙区制をはじめとする政治改革に積極的ではなかった。竹下派から分かれた小沢・羽田グループ(改革フォーラム21)は宮澤のそのような姿勢に反発を強め、1993年(平成5年)6月に内閣不信任案が提出されると賛成にまわり同案は可決された。自民党は大量の離党者を出したまま総選挙を行うも新生党、新党さきがけなど自民党から離れた議席を回復することが出来ず日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川護熙に政権を明け渡す。宮澤は自民党長期支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。

政界の構図が音をたてて変わっていく中で、絶妙なタイミングで総理の座をサラっていったのが細川護熙氏でありました。

日本新党と細川護熙氏

日本新党は、熊本県知事(1983年2月11日-1991年2月10日)を務めた細川護熙が1992年05月22日 には正式に党を結成し、代表には細川護熙が就任し、06月には東京都高輪に党本部を設置した。細川護熙が05月09日 、「文藝春秋」に「『自由社会連合』結党宣言」を発表したのが、皮切りとなった。細川護熙は、新党参加者を呼びかけ、松下政経塾関係者、ブレーントラスト、知事時代の秘書、後援者などの人材が集まった。細川護熙は1993年08年09日、8党派連立政権の首相に担ぎ上げられた。だが、細川護熙首相は1994年04月08日、佐川急便グループからの1億円借金問題などでの国会空転で辞意、04月25日総辞職し、退陣した。(263日の短命政権であった)

細川護熙氏について調べてみると、細川氏は、細川家の血筋なのだが一方「極東国際軍事裁判においてA級戦犯に指定された近衛文麿元内閣総理大臣」の孫という一面もあり、総理時代は野党(自民・共産)から敵視された。・・一浪して再び京大を受験するがまたも失敗し、上智大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社。1969年に行われた第32回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で出馬するも落選。1971年の第9回参議院議員通常選挙では全国区から自由民主党公認で出馬し、石原慎太郎などの支援を得て当選するも、所属派閥は金権腐敗と揶揄された田中派で参議院議員を2期。その後、熊本県知事を2期。日本新党を立ち上げ、非自民・非共産の連立内閣の指名により総理大臣に。小選挙区比例代表並立制が可決成立。1998年に政界引退、陶芸を嗜んでいる筈が突如、2014年東京都知事選挙に立候補。当選した舛添要一都知事は政治資金の使用法をめぐりマスコミの追求を受ける事となる。

総理時代も突然夜中に消費税を税率7%の「国民福祉税」(1994年02月)に衣替えする構想を発表。週刊誌の見出しは「殿!ご乱心を」であった。「裏で剛腕小沢一郎が糸を引いている」などという憶測もマスコミを賑わした。

突然の2014年東京都知事立候補とか、細川さんの動きを眺めてみると「殿、思いつきですか?」とお伺いを立てたくなる。

知事に立候補する人は、かなり権力志向な人なのではないでしょうか?

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5、福岡県の公選知事

第二次世界大戦後、占領下における「占領政策」の一環として1946年(昭和21年)9月に府県制および東京都制が改正され(「府県制」は「道府県制」と改称)、従来、いわゆる官選であった地方長官(府県知事・北海道庁長官・東京都長官)を住民の直接投票によって選挙する公選制が導入された。

1945年の終戦の焼け野原から、僅か二年、1947年04月には初の公選知事が誕生する。

ある識者からきいた話だと、福岡県の昔の選挙事情は今と異なっていて、福岡県下に大きな炭鉱があって・・昔は石油ではなく産業振興の根元で石炭がエネルギー源だったのだ。この辺は鉄ちゃん(鉄道マニア)の方が詳しいのだろうが、それこそJRの前身の国鉄だってSL蒸気機関車を走らせていてその燃料は石炭でその昔は石炭=黒いダイヤと呼ばれた時代だってあったのだ。img20.jpgネットで拾った「福岡県の炭鉱探訪マップ」をはっておきます。炭鉱の最盛期が昭和15年頃となっていますので、戦後の公選知事が誕生する時代には既に下火になって行くわけですが・・・。ネットで情報をひろってみると、炭鉱事故は福岡県と北海道が異様に多くて・・・。

福岡県の炭鉱事故の犠牲者数

1899年 豊国炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者210人。
1907年 豊国炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者365人。明治期最悪の事故
1909年 大之浦炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者243人。
1913年 二瀬炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者101人。
1914年 方城炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者687人。日本の近代史上最悪の炭鉱事故とされる。
1918年 大之浦炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者376人。
1958年 福岡県山田市にある池本鉱業大昇炭鉱にて9月25日にガス爆発が発生。死者14人
1960年 中元寺川の増水によって豊州炭鉱(福岡県)で落盤、死者・行方不明者67人。
1961年 上清炭鉱(福岡県)にて坑内火災、死者71人。大辻炭鉱(福岡県)にて坑内火災、救助に入った炭鉱長も巻き込まれ、死者26人。
1963年 三井三池炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者458人を出し、第二次世界大戦後の事故では最多の死者数を出す。
1965年 三井山野炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者237人。
1984年 三井三池炭鉱有明抗(福岡県)にて坑内火災。死者83人。

*上記の記録だけでも、戦前戦中合わせて1982名。戦後956名。合わせて2938名の炭鉱労働者の方が亡くなっている。

img21.jpg福岡市内に住んでいる私でさえ、志免町の「志免鉱業所竪坑櫓」はすぐ思い浮かべる事ができる。こう言う事実からも「そりゃ組合労働運動が活発になるわな」と思わせる。事実、1989年以前の福岡知事選挙は常に保革一騎打ち状態で、投票率もほぼ70%~80%前後で非常に熱量が高い選挙戦であったらしい。これは良くない数字だが、選挙違反摘発件数も東京、千葉以上で、いかに政治が利権にまみれていたかを伺う材料にもなる。

一般常識では、地方は保守政党の支持基盤、都市部は革新政党の支持基盤と言う住み分けが出来ているのだが、福岡の場合、東京からみると地方都市、しかしながら九州地方の商業発展都市(都市部)と言う位置づけ、更に、労組が強い多くの炭鉱労働者の組合があると言う保革拮抗地域と言う特殊性があり、1990年までの保革一騎打ちの知事選は熾烈を極めたと言っていい。私はその関が原の戦い(1983年)の中、偶然、投票権を獲得した一有権者が私だったのである。

昔、ニュースステーションと言う報道番組で久米宏さんがこう解説していたのを覚えている。1955年所謂55年(政治)体制:自由民主党が与党で、日本社会党が野党第一党の政治体制が崩れた一因は、社会党の支持率が長期低落傾向(懐かしい表現)で、1975年(昭和50年): 3月10日、山陽新幹線全線(大阪-博多)が開通した後、更に人の往来が活発になり、都市部で無党派層が増大した為と・・・。実際、福岡県の選挙管理委員会が残している資料に目を通すと1979年春の知事選の投票率が70%を切った(68.29%)と危機感を露わにしていた。ところが、直近の2015年春の福岡県知事選挙の投票率は38.85%で、もうこれは絶望的な数字である。民主主義終了。

日本国憲法下における福岡県の公選知事

初代~02代02期○杉本勝次1947年04月12日~1955年04月25日
03代~03代01期○土屋香鹿1955年04月26日~1959年04月22日
04代~05代02期○鵜崎多一1959年04月23日~1967年04月22日
06代~09代04期○亀井光 1967年04月23日~1983年04月22日
10代~12代03期○奥田八二1983年04月23日~1995年04月22日
13代~16代04期○麻生渡 1995年04月23日~2011年04月22日
17代~18代02期○小川洋 2011年04月23日~

○杉本勝次(社会党)1947年4月から2期、福岡県知事を務めて石炭政策を推進した。

○土屋香鹿(保守系)1929年内務省に入省し福岡県警察部長を経て杉本勝次(福岡県知事)に請われて福岡県副知事に就任。1955年に保守系に推されて福岡県知事選に出馬、革新系が推し杉本知事の後継だった鵜崎多一と争い当選する。しかし、再選を目指した1959年知事選では鵜崎に敗れて知事を退任。退任後は弁護士に転身し、2000年まで現役として活動した。

○鵜崎多一(全国唯一の社会党公認知事)1959年4月に行われた福岡県知事選に出馬し当選。当時、全国で唯一の社会党公認知事として、日本のエネルギー政策の転換期において産炭地域であった福岡県が直面した問題に取り組んだ。炭鉱閉鎖による失業者救済のための黒い羽募金運動の提唱、産炭地の振興、労働者や住民の福祉の確保などに取り組んだが、3選を目指した1967年の選挙で亀井光に4,000票差で敗れた。また1961年には日中友好協会訪中地方自治友好代表団長として中国を訪問するなど日中友好運動にも尽力した。1971年9月11日、癌性腹膜炎のため66歳で逝去。

○亀井光(保守系)

○奥田八二(革新)社会党・共産党(全国で当選した13人の知事の内ただ一人)

○麻生渡(非共産オール与党)

○小川洋(非共産オール与党)

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6、亀井福岡県政とは

本サイトを作成するにあたって日本共産党福岡県議団控室の歴史生字引のМさんに色々貴重なお話をおききしました。なにせ保守亀井県政から革新奥田県政への移行期の事を知りたいのに、社会党は消滅、かつての自民党も30年も40年も昔の事はわからないと・・今、「亀井光」でGoogle検索しても氏の画像すらでてこない・・。Мさんからご助言をいただいて県立図書館へ資料漁りに出かけました。

亀井さんが知事に初当選したのは昭和42年(1967年)。img06.jpg
当時の<選挙結果>は、

第06回 昭和42年04月15日
亀井光 895690  
鵜崎多一 891711  
1787401  
投票率 74.32%  

昭和34年から2期続いた鵜崎多一社会党知事を僅か3979票差でやぶり、新生亀井福岡保守県政を誕生させた・・亀井さんは保守の新星であったのだ。たぶん。img07.jpg

で、4期16年の長きに渡って亀井県政が続く事になる。当時の福岡県庁は今のアクロスのところにあった。1981年に天神から東公園の新庁舎に引っ越す時は「天神~東公園が大変混雑する事が予想されますので、不要不急の外出は控えて下さい」とラジオで呼びかけがある程、大掛かりな引っ越しだったのを記憶している。

1967年04月23日~1983年04月22日。この期間(在任期間)の日本国の総理大臣の顔ぶれは、佐藤栄作-田中角栄-三木武夫-福田赳夫-大平正芳-鈴木善幸-中曽根康弘・・まさに日本経済が高度成長期からバブル期へ突き進む過程でもありました。特に大きな失策もなく県政を運営したはずだ。img27.jpg

経団連会館で開かれた進出協定の調印式。(左から)亀井光福岡県知事、中山俊彦苅田町長、川又克二日産自動車社長=1973年7月、古賀康夫さん提供。

5期目が視野に入ってきた1982年昭和57年06月日本共産党小沢和秋議員の国会での質問書がネット上に残っている。別項参照。

ここで問題になったのが「福岡県知事公舎問題」である。ウキペディアをのぞいても同記述はでて来ないのだが、ネット上には色々な情報が散見している。

旧聞since2009「亀井光」伝説

日知事選で奥田氏に敗れた大きな要因は、県民の血税を注ぎ込んで建てた豪華知事公舎問題だった。スリッパ一つとってもとんでもない値段だと言われ、県民の猛反発を浴びた。ワンマンと言うより独裁者、まるでフィリピンのマルコス大統領みたいである。県庁舎を巡る都市伝説が生まれたのもこのあたりが遠因ではないだろうか。

img09.jpg

施設名 福岡県知事公舎
電話番号092-531-1053
住所〒810-0012 福岡県福岡市中央区白金2-14-44
電話番号 092-531-1053
最寄駅 西鉄平尾

ちなみに、福岡県庁も1981年に現在の東公園の新築移転している。亀井・奥田の選挙戦は翌々年の1983年。


福岡県庁

福岡県庁は長らく福岡市中央区の天神に置かれていたが、亀井光が知事であった1981年に、現在の東公園地区へ移転した。移転の主だった理由としては、福岡県が九州の中心となり県組織が大きくなる中、特に福岡市の都市化が急速に進み、老朽・狭隘化した県庁を建て替えようにも都心部では十分な土地を確保することが難しかったことが挙げられる。なお、跡地は後年アクロス福岡・天神中央公園として整備された。なお、東公園への移転にあたっては、長く福岡市内で問題となっていた「福岡部」と「博多部」の対立に対する配慮という側面も否定できない。

img08.jpg

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7、国会で知事公舎問題化

第096回国会 質問の一覧

福岡県知事公舎問題に関する質問主意書

1982年昭和57年06月07日提出

質問第14号

img10.jpg福岡県知事公舎問題に関する質問主意書

右の質問主意書を提出する。

1982年昭和57年06月07日
提出者小沢和秋

衆議院議長 福田 一 殿

福岡県知事公舎問題に関する質問主意書

福岡県当局が、総工費5億9千万円に達する豪華な知事公舎を建設し、私邸部分の調度品に至るまで県費で調達していた事実は、亀井知事の政治姿勢を示すものとして、マスコミで全国に報道され、地元では監査を請求する運動が始まつている。

我が党の調査によれば、県当局ははじめからこのように豪華な公舎を建設する予定でいながら、昭和54年12月議会に設計委託料1385万円を計上、次いで55年02月議会に55年度分として1億9189万円、56年度分として9590万円の建設費を計上した。県当局は、これにより公舎の総工費は2億8000万円程度という印象を県民の間に広げた。ところが、その一方では、県有施設緑化推進事業費の中に970万円の公舎植栽事業を潜り込ませていた。さらに56年02月議会に「総合庁舎等建設費」の名目で、行橋・福岡東地区などの総合庁舎建設費を計上した中に公舎建設費の追加分3億4996万円を盛り込んでいながら、関係委員会での予算説明では一切触れず、公舎建設事業の全体計画が6億円近い巨額になることをどの時期にも示さなかつた。このような県民を欺くやり方について、知事本人に政治的、道義的に大きな責任があることは明らかである。

そこで、以下、次の諸点について質問する。

1、福岡県が全国有数の大県であるとしても、類似県と比べてさえあまりに公舎が豪華であることは、ほぼ同時に建設された北海道知事公舎1億2500万円と比較しただけでも否定できない。これに対し、県民生活は不況の長期化などで一層苦しくなつている。戦前に建てられた県立養護施設も老朽化したままに放置されている。このような状況の下での豪華な公舎建設は、地方自治法第2条第13項「地方公共団体は、その事務を処理するに当っては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない。」、地方財政法第四条「地方公共団体の経費は、その目的を達成するための必要且つ最少の限度をこえて、これを支出してはならない。」などに反しており、違法な支出ではないのか。

2、現在、政府は国の財政危機を打開するため、地方に対しても節減を指示していることは、昭和56年01月05日付、各都道府県知事あて自治事務次官通達「地方公共団体における行政改革の推進について」などで明らかである。我が党は、政府の「行政改革」のやり方には厳しい批判を持っているが、国・地方とも財政的に困難な状況にあることはよく認識している。このような時期に、国の指導を無視して豪華な公舎を建設することは、地方財政法第二条「地方公共団体は、その財政の健全な運営に努め、いやしくも国の政策に反し......てはならない。」に違反しているのではないか。

3、この建設費の中には、電気洗たく機、こたつ、食卓など私邸部分の住居備品費926万円が含まれている。これは県民から公私混同として、特に厳しい批判を受けている。国家公務員宿舎法第11条によれば、「公邸には、いす、テーブル等公邸に必要とする備品(もつぱら居住者の私用に供するものを除く。)を備え付け、無料で貸与する。」ことになつており、首相官邸などであっても、私生活に使用するものまで国費で無料提供することを禁止している。県知事公舎についても当然これに準じて措置されるべきではないか。

4、以上述べたように、本問題は県民の厳しい批判を免れ得ない違法・不当な支出であることは明白である。地方自治法第246条の2(事務の違法不当処理に対する内閣総理大臣の監督権)では、「不当に経費を支出し、......著しく事務の適正な執行を欠き、且つ、明らかに公益を害しているものがあると認めるときは、......違反の是正又は改善のため必要な措置を講ずべきことを求めることができる。」と定めている。前項で指摘した私邸部分の住居備品等は明らかに本条に違反しているものであり、是正のため本条に定める監督権限を行使すべきものと考えるが、内閣総理大臣の見解を明らかにされたい。

右質問する。

国政に目をやれば、第096回国会(1982年昭和57年06月)の総理大臣は「鈴木善幸」氏。1982年11月27日から第1次中曽根内閣にバトンタッチする頃の話である。

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8、1983年 私が覚えているあの選挙戦

1983年2月、シングル「秘密の花園」が10曲連続シングルチャート1位 9曲連続のピンク・レディーの記録を破る。松田聖子(福岡県久留米市蒲池一族出身:1962年3月10日生れ)20~21歳の時の出来事であった。

img11.jpg1963年(昭和38年)生まれの私にすれば、第10回統一地方選挙、投票日:1983年(昭和58年)04月10日は記念すべき初めての投票日であった。

地元の大学に通っていた私は、それなりに有権者意識を持ち、投票日を心待ちにしていた。33年前の記憶を思い出してみる。

当時の世界にインターネットは存在せず、候補者の情報源はテレビ、新聞、ラジオ、選挙広報、選挙カー、投函されるビラが主であった。

私が覚えている当時配布されたアンチ亀井ビラ

福岡県知事公舎には、イタリア産の高級家具はあるものの木工家具で有名な福岡県大川市産の家具はない。それどころか、あるのは、1万円のゴミ箱。スリッパも高額すぎ。亀井知事婦人の口出しで何回も工事をやり直しさせる(イラスト付き)ので工事費はかさむ一方。こんな県民の血税を無駄遣いする亀井光をこのまま知事にしておいていいのでしょうか?今度は変えてみませんか?

私が覚えている当時配布されたアンチ奥田ビラ

福岡県知事選挙に立候補している奥田八二。奥田は表向きは九州大学の教授をしているが、その実、バリバリの共産主義者なのだ。県政を共産主義者の奥田に渡してはいけません。福岡県政は実績のある亀井光さんに投票しましょう。

当時の<選挙結果>は、

第10回 昭和58年04月10日
奥田八二 1221622  
亀井光 1171510  
2393132  
投票率 73.20%

現職・亀井光氏は僅か50112票差で落選。5選を目指していながら敗れた亀井光氏はやたらテンションの高い報道関係者のインタビューにこう応えた「すべて私の不徳の致すところです」と。

大学で政治学の講義をされていた徳永先生は選挙結果をふまえ、私達学生にこう言われた「やっぱ、1万円のごみ箱がきいたばいね」と。

新福岡県庁舎が完成して僅か2年後、庁舎には新しい主がやってきた。奥田知事の初登庁の日、都市伝説の福岡県庁舎(別項参照)に「奥田コール」がまきおこった。歓迎祝福の花束を抱え満面の笑みの奥田八二新福岡県知事は県庁のエントランスに消えていった。img12.jpg

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9、奥田八二福岡県政とは

img13.jpg「奥田さん大丈夫かな?」当時、学生であった私でさえそう思った。県政与党の社会党と共産党の議席を合わせても全く過半数に届かない。あれだけ激しい選挙戦を経た後だけに、野党の自民党の出方次第では、議会が機能しないのでは?という危惧を持った。特権を持っている知事といえども議会で多数の賛同を得なければ何も出来ないのでは?

当時、福岡の地方新聞の政治面の見出しはこうだった「奥田いじめ」。マスコミは紛糾する議会の状態をこう揶揄した。「大人気ない」大方の有権者はこう言った反応だった様に記憶している。ただ、奥田県政にも全く問題が無かったわけではない。知事夫人がお寺さんをお布施で買収したとして逮捕(公選法違反容疑)「お布施事件」、入居しないと公約した「豪華知事公舎」入居問題で議会が紛糾した。

奥田さんは3期福岡県知事を担ったのだが、私が覚えているフレーズに「奥田八ニ、八つの約束、二つの誓い」と言うのがあった。「上手い事いうじゃん」って私の記憶に残っていたのだが、ネット検索してもまったくヒットしない。地方政治家の昔の言動は、それこそ県立図書館に出向いて選管が作っている資料をめくるしかないんだなと思った。ただ、逆に選管が残している資料には「選挙公報」や各種の数字も拾えるので、私の中では図書館見直し感が強まった。みなさん調べ物は図書館に行ってみましょう。

まぁそれでも古い話なのでGoogle検索しても「奥田いじめ」はヒットしない。

当時の奥田知事の日記にはこうある。「県議会は発言のあげ足取りに等しいことを平気でやる。こちらはワニの川に落ちた人間に等しく、あらゆる手段を尽くして脱出せねばならない。新聞・テレビはそれを面白おかしく書く」(1983年5月19日)。都道府県で7番目となった情報公開条例制定には、窓口の開所式に出席したことに触れ「いよいよ情報公開の時代が始まった」(1986年9月1日)と、こだわりを見せている。

奥田知事は、福岡県で他県よりも多かった生活保護費の不正受給問題にてをつけた(ネット上の記述)。あと、私が関係者から聞いた話によると亀井知事時代は考えらなかった県庁内役職への女性職員の登用、あと、県立の学校の創立が進んだと言う話を伺った。まぁ学校創立効果はあったのかもしれないが、「男女雇用機会均等法」が1985年制定、翌86年より施行される状況であったので、女性登用に関してはたまたま奥田さんが知事を担当した時の世の中の流れがそうなっただけなのでは?と言う気がしないでもないが、まぁ知事は絶対権力者と言う事なので、時代の要請が奥田さんを知事にしたのかもしれない。

逆に言えば、亀井県政時代は福岡県庁は男の職場で、女性の役職登用はまずありえなかったらしい。・・・もし事実と違うなら誰か教えて下さい。

私は未成年時代、福岡中央郵便局で年賀状配達のアルバイトをした事がある。当時、公的なアルバイト募集でも、男性は外勤:郵便配達。女性は内勤:年賀状の仕分業務。・・と職種が性差で明確に区分けされていた。今、当たり前の様に日本郵便株式会社の郵便配達員の方は男性もいれば女性もいる。昔、ナースは看護婦(女性)と決まっていたが、今は看護士は、当然のことながら男性も女性もいる。時代は変わっているのだなぁと今更ながら感慨にふけるのであった。

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10、福岡県知事奥田八ニ伝説

ネット上に、信憑性の高い記述を見つけましたので、資料として転載しておきます。

読売オンラインへの投稿 六本松(福岡市中央区)昭和39年

img23.jpg昭和46年に九大に入学し、六本松の教養部に通い始めました。でも当時は学費値上げ反対(半年六千円!を三倍化)や沖縄返還阻止闘争などで、ストがあったり休講などで、「休養部」などと揶揄していました。卒業後は福岡を離れてしまいましたが、当時の教養部長だった奥田八二さんが後年、県知事になったのにはちょっと驚きました。写真では教養部の五階建ての本館はまだ建てられていませんが、西側の古い図書館は私の入学当時はまだありました。また、グラウンドの奥には、これまた古い木造の体育館があり、高い天井には鳩がたくさん住みついていて、鳩小屋と呼ばれていました。先月(2009年12月)、久しぶりに六本松に行ったら、周りはすっかりこぎれいになり、数軒あったパチンコ屋はなくなり、マンションばかり多くなって、教養部は閉鎖され、中に入れず残念でした。私は自宅通学であったが、六本松、別府、輝国あたりの友人の下宿によく泊まりがけで押しかけて、酒を飲んだり、議論したり、徹夜マージャンにふけったりで、勉強していた記憶はなぜか残っていません。学生さんがいなくなると、街の性格も変わるのでしょうね。(おやじさん)

九大生からみると奥田さんは「大学の教授」であったのだ。

旧聞since2009

写真は、福岡市中央区にある九州大六本松キャンパスの跡地。教養部跡と言った方がわかりやすい人も多いだろう。九州大は現在、福岡市西区の伊都キャンパスに統合移転を進めており、六本松キャンパスは昨秋、88年の歴史に幕を閉じた。今は閉鎖され、本館をはじめとする校舎群はすべて空き家の状態だ。もう40年ぐらい前になるだろうか。初めてこの本館を目にした時は、まだ学園紛争の爪跡が残っていた。校舎のガラス窓はほとんど割れ、学生たちの主張を書いた紙がべたべたと貼ってあり、子供心に「大学とは何やら怖い場所」という印象を持ったものだ。後から知ったことだが、学園紛争時の九大教養部長は、後に福岡県知事を3期務めた奥田八二氏。学内に機動隊を呼び込んだ人物として、民青などにはずいぶん嫌われていた。革新統一候補として知事選に打って出た時、自民党が「奥田はアカだ、共産党だ」とネガティブ・キャンペーンを繰り広げたが、奥田氏の教養部長時代を知る人は「奥田がアカであるものか」とあざ笑っていたらしい。「共産党だ」と断じることがネガティブ・キャンペーンになると信じた、当時の自民党の時代錯誤にもあきれはてたが。奥田氏は、三池闘争を指導した向坂逸郎の弟子でもあり、社会主義教会の一員でもあった。社会主義者であったのは間違いないだろうが、懐が深いのか、現実的なのか、わかりにくいところも多い人だった。彼の知事時代、こんなエピソードを聞いたことがある。福岡県を訪問された両陛下を、空港でお見送りした際の話だ。お二人が乗った飛行機が見えなくなるまで、誰よりも長く深々と頭を下げていたのが奥田氏だったという。個人的には奥田氏の人柄を物語る、いい話だと思う。それはともかく、六本松キャンパスの跡地は都市再生機構(UR)が取得し、住宅開発を行う予定だ。また、跡地の一部には裁判所や検察庁などの司法機関が移転することも決まっているようだが、住宅街と裁判所が共存できるものなのか。URが主催していた「六本松キャンパス跡地コンセプト委員会」でも若干の疑問が出されていたようだが、結局は目をつぶったようだ。右寄りの人たちの街宣や左寄りの人たちのデモで、変に"にぎやかな街"にならないと良いが。URはキャンパス跡地に新たにつくる街を「青陵の街」と名付けている。青陵とは「希望にあふれた若者を育てる緑豊かな丘」との意味だという。教養部の前身、旧制福岡高校の同窓会が「青陵会」と名乗っていることにちなむ。下の写真のブロンズ像は、現在も跡地に残る「青陵の泉」像で、旧福高OBらの寄付により1968年に完成した。青陵会、九大は像の現地保存をURに働きかけているが、「青陵の街」と名付けたぐらいだから、恐らくきちんと保存され、新しい街でもシンボルになることだろう。街づくりの取りかかりがどうにも遅れ気味に思えるのが、少し気にかかるところだ。
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医療法人ひまわり会 つるはらクリニック 鶴原由一医院長も学生時代お世話になったとの事

出がけに投票

- 2015/04/12(Sun) -

統一地方選挙の投票日。昨年の衆院選の時の早朝投票で味をしめたので、今日も出がけに投票です。7時前に行っても待たされることは経験済み。なので今朝は、7時ちょうどに自宅を出ました。なにしろ投票所は、わが家から車で15秒なのです。私は4番目でした。残念ながら、投票箱の中身チェックは終わっていたようです。入場券のハガキを渡して受付し、投票用紙を受け取り、記名して、投票箱に入れ、立会人に会釈して退室。自宅を出ておよそ1分後には、投票を済ませていたことになります。選挙権の行使はとても大事なことですが、学生時代に投票したことは、ほとんどありませんでした。例外は、83年の福岡県知事選。現職の亀井光氏の5選を阻止して、奥田八二氏が初当選したときでした。選挙ポスターの「奥田はちじ」が、「奥田は知事」とも読める。知事になる星のもとに生まれたのでしょう。奥田氏は、私が学生時代に学んだ一般教養選択科目のひとつ、社会思想史の教授でした。単位が取れるかどうかは、試験直後に、授業のノートを提出できるかどうかにかかっていました。わずかに猶予は数時間。コピーは不可。手書きノートを提出できれば合格です。コピーしか持っていない多くの者が、単位取得を諦めました。しかし私は、下宿の友人と手分けしてコピーを書き写し、ノートを作成。無事単位を取ることができました。そういうわけで、のちに知事選に出馬した奥田先生に、お礼の一票を投じたのでした。

福岡県福岡市出身で「ライターKen」(神奈川県在住の大学生)さんは、ご自身の祖父が奥田八ニ氏へ出馬をふったとの事。

福岡県知事選における社民党の存在感

福岡市出身。都内の大学に通学しています。社会人になるまであと...大学生になり最後の学生生活を過ごしています。社会人線直通です。本当の大人になるべく、自分を磨いている"つもり"です。

2015-04-03 18:18:07

3日、福岡県議会議員選挙,福岡市議会議員選挙が告示された。福岡県知事選挙は一足先の先月26日に告示されている。

今回の福岡県知事選挙は、自民,民主,公明などが推薦,支持する「相乗り」現職候補と、いずれの政党からも公認,推薦を受けないものの共産党が支援する新人候補が立候補する一騎打ちとなった。小生はこの構図をたいへん情けなく思う。

現職の小川洋氏は自民,公明,民主,維新の真ん中から右の政党の推薦だけではなく、社民党県連からの支持も受けている。1期目に特段の失点もなく、左右広く堅い組織票が見込まれることから、何か問題が起きない限り当選は堅いといえる。

小生は社民党が小川氏を支持したことに納得いかない。小川氏はこの4年間全方位外交を敷いてきた。しかし、だからと言って「相乗り」する理由にはならない。現職候補への「相乗り」はローリスク・ローリターンの安全な選択と言える。とはいえ、「相乗り」をしているようでは社民党の存在感は失われるばかりである。社民党は国政においても風前の灯火ともいえる存在感ではあるが、かつての最大野党であり西欧にみられる保守勢力と社会民主主義の二大政党政治が期待されたこともあった。ところが、90年代前半にそれまでの安保条約反対や自衛隊違憲など方針を180度転換するなど迷走し、党勢は衰退。96年に社会党は現在の社会民主党に改称した。県政においても同じである。1983年の福岡知事選挙では同党が推薦する奥田八二氏が当選した。当時、福岡県議会では社共共闘体制が敷かれており、労組系の票を堅く集めて自民党が推薦する亀井光氏の5選を阻止した。

亀井氏は4期知事を務めた大変な実力者である。風に乗ったとはいえ、福岡県の不動の権力者ともいえる亀井氏の当選を阻止した当時の社会党の底力には感心する。しかし、今やその社会党の流れをくむ社民党は「相乗り」で逃げの一手である。共産党との共闘もしない。奥田氏も実力はあった。奥田氏は初当選から1995年までの3期12年知事を務め、北九州空港建設や情報公開条例制定などを実現し、福岡県政の革新に貢献した。もう一度、社民党には力を見せてほしい。

小生は社民党を支持しないが、野党第1党は社民党であるべきである。最大野党の座は民主党などというポピュリズム政党にあるべきではないはずである。社会党よもっと「激サイティング」になれ!

余談ではあるが、奥田氏が当選した1983年の福岡知事選挙であるが、社民党が当初に出馬を打診した相手は小生の祖父であった。当時、祖父は九州大学で教鞭をとる傍ら情報公開条例や政治倫理条例の作成などの地方自治関連の市民運動にも携わっており、県費乱用が問題化していた大物亀井を撃ち落とすには最良の弾だった。小生の母によると、祖父が出馬を打診された際、当初本人は前向きな姿勢だった。しかし、家族全員が反対したため、自らの出馬は断念しざるを得なかった。その代わりとして祖父が推薦したのが同じく九州大学の教授であった奥田氏である。結果には前述のとおり、奥田氏は当選し3期に渡って知事を務めた。思うことがある。もし、小生の祖父が当時の知事選挙に出馬していたならば、小生の人生も大きく変わっていたであろう。自分は知事の家に生まれた孫だったのだろうか。いや、生まれていなかったかもしれない。そう思うのである。小生と知事選挙の不思議な縁の話である。

12日に迫る統一地方選挙の投票日、報道では無風や熱さを欠くなど言われているが、それが故に有権者が各候補の政策をしっかりと見つめ意義ある選挙にしてほしい。

なかなかしっかりした政治意識をお持ちのご様子・・。

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11、知事公舎に負けず福岡県庁舎・議事堂も豪華絢爛

img14.jpg運命の選挙戦昭和58年(1983年)の前々年、昭和56年(1981年)福岡県庁舎も福岡市中央区天神から博多区東公園に新築移転した。

日本経済が順調だった頃の建造物らしく,議事堂は、大理石をふんだんに使用し、高級絨毯を敷き詰め、冷暖房費用は大丈夫?と心配になる吹き抜け構造。おまけに知事執務室への知事専用のエレベーター(現在は稼働していない)まで完備しているとのこと。今となっては時代錯誤な感じもするが・・・。

これも蛇足であるが、福岡県運転免許センターも超贅沢な施設と報道されていた。雇用対策、景気対策の意味もあるのかもしれないが・・・img15.jpg

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12、福岡県庁舎の「亀井光」都市伝説

img16.jpg実家が福岡県庁舎の近くだったので自分の中では当然の事としていたのですが・・・ネット上の都市伝説としてブログで取り上げられたり、記事のコメントとしての記述が散見されますので書き留めておきます。

「亀井光」伝説

img26.jpg福岡県庁舎を巡って都市伝説じみた噂話が今も語り伝えられている。福岡の人はご存じの人も多いだろう。庁舎を構成する三つの建物を上空から見ると「亀井光」と読めるという、あの話だ。

亀井光とは、庁舎が出来た1981年当時に知事を務めていた人だ。一応説明すると、「亀」に当たるのが六角形の県議会棟(写真上)で、カメの甲羅のように見えなくもない。「井」は県庁本体に当たる行政棟(写真下の左側)。細長い長方形の建物2棟が平行に建っており、その上ご丁寧にも平行する2本の渡り廊下で結ばれている。最後は県警本部棟(写真下の右側)。建物自体は何の変哲もないが、屋上に太陽「光」パネルが設置されている。

単なるこじつけのようでもあるが、偶然にしては出来すぎた話でもある。冒頭に都市伝説と書いたのは「県庁舎=亀井光」説を真実と証言する人がいないからだが、私自身は面白いので信じている。ついでに「行政棟の地下深くには玄室があるらしい。県庁は実は亀井氏のピラミッドとして設計されたんだ」という冗談を言いふらしている。もちろん、まったく受けないが。

亀井氏の5選を阻んだ奥田八二県政の時代、知り合いになった県庁マンに亀井氏の人となりを聞いたことがある。あらかじめ断っておくと、この県庁マンは亀井シンパで、「亀井県政のころは県庁に緊張感があった」と懐かしんでいた人だ。ただ、物凄いワンマンではあったという。自分を支える与党県議の実力者さえ、気に入らなければ怒鳴り上げていたらしい。知事選で奥田氏に敗れた大きな要因は、県民の血税を注ぎ込んで建てた豪華知事公舎問題だった。スリッパ一つとってもとんでもない値段だと言われ、県民の猛反発を浴びた。ワンマンと言うより独裁者、まるでフィリピンのマルコス大統領みたいである。県庁舎を巡る都市伝説が生まれたのもこのあたりが遠因ではないだろうか。

問題の県庁舎群を設計したのは黒川紀章氏の設計事務所や日建設計なのだが、両事務所のHPを見て面白いことに気付いた。両事務所とも過去に設計を手掛けた建物を多数紹介しているのだが、福岡県庁舎についてはどちらも掲載していないのである。単なる偶然かも知れないが、他の県庁舎などは堂々とPRしているのにである。

1981年当時としては結構大規模な建築物だったと思うが、それでも両事務所にとって福岡県庁舎は誇れる仕事ではなかったのだろうか。意に沿わない仕事だったのではと邪推したくもなる。やっぱりあれは「亀井光」なのではないだろうか。

img18.jpg

建設中の福岡県庁舎(完成予想図)を間近で見ていた私(当時、未成年者)は、既にこの事に気がついており「公的な建築物が個人の名前を模していいのか?」と戸惑いと憤りを感じていた。ちなみに、この件は公的な場で真偽が確認された事もなく「亀井光」伝説はまさしく都市伝説化しているのである。

<生き証人は全て故人>
亀井光  1909年01月01日 - 1986年09月26日
奥田八二 1920年11月01日 - 2001年01月21日
黒川紀章 1934年04月08日 - 2007年10月12日

国破れて山河在り
後は野となれ山となれ
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

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13、福岡県庁の裏金問題

私の記憶の中にある「裏金問題」と言えば宮崎県知事に東国原英夫氏が就任する時(2006年)に口を酸っぱくして「もう有りませんね」と念を押していた姿が思い出される。

宮崎県の裏金問題

裏金、新たに46部署。宮崎県の裏金問題で県は31日、新たに46部署から裏金作りの自主申告があり、2006年04月01日現在で残高のあった25部署の合計が計約2540万円に上ったことを発表した。現在残っている金額は413万円(17部署)だった。すべて出先機関で、警察署や保健所も含まれていた。私的流用は確認されていないという。物品を架空発注して支払った代金や、購入した物品の値引き後の差額を文具販売業者などにプールさせる方法を利用していた。最初に発覚した県立児童自立支援施設も合わせると、裏金総額は少なくとも約2975万円になった。県によると、裏金作りを自主申告した部署は県の全部署292の16%を占めた。【中尾祐児】毎日新聞 2007年6月1日 東京朝刊

なんと福岡県警(2004年)を含む県庁組織でも「裏金問題」が発覚し大問題となった。昔はどこの自治体にもあったらしいが、福岡県の場合は他県と比べてその桁が違っていたという。

所謂、お役所の裏金作りは昔から常態化していたという。

奥田八二のウィキペディア

在任中に旅費など県公費の不正支出が全国最高額に達していたことが退任後に発覚し、協力金名目で1600万円を福岡県に支払っている。皮肉にも発覚のきっかけは、自ら制定した情報公開条例によりカラ出張の証拠となる書類が開示請求されたことであった。当時奥田は西日本新聞のインタビューに「わかってはいたが色々事情があってやむをえなかった」と答えて「革新知事でありながら県民感情とかけ離れた姿勢」と西日本新聞紙上で批判されている。

クリーンなイメージの革新知事の奥田氏でさえ、この様である。16年の長きに渡って知事の座にあった保守知事の亀井氏の帝王ぶりが目に浮かぶ。

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14、福岡県知事奥田八ニの献灯が残る置塩神社(姫路)

img30.jpg 「不借身命」-福岡県庁舎の「亀」「井」「光」に比べれば超かわいい献灯が残っている。それも福岡県内ではなく、遠く離れた兵庫県姫路市夢前町塩田に。ネット上の情報を繋ぎ合わせると、どうも、奥田さんの出身地がこのあたりで、郷土の神社に祀られている百姓一揆の犠牲者の供養に献灯したと言う事らしい。奥田八ニウィキペディアには奥田さんの出身中学校は龍野中学校となっているのだが、姫路市夢前町から現在のたつの市までは20kmの距離があり、当時の奥田さんの生活環境がよく分からない。まぁ戦前の話なので・・・。1920年大正9年生れ奥田さんの幼年時代は忘却の彼方。2020年は東京オリンピック開催と奥田八ニ生誕100年祭が執り行われる記念すべき年なのだ。

選挙時のアンチビラにバリバリの共産主義者であるとか誹謗されたり、社会主義者だとか揶揄された奥田さんだが、イデオロギーオタクではなく、奥さんもお寺さんへのお布施で逮捕されたり・・・。宗教関係には大らかな人であったのではなかろうか?

靖国神社に参拝するか否かが国際問題になる様な面倒な世の中になってしまったが、遠く離れてしまった郷土の神社に献灯する奥田さんは結構義理堅い人だったのかもしれない。

置塩神社

神社は昭和29年の創建と新しい。寛延年間、姫路藩内で起こった大一揆の首謀者として極刑に処された古知之庄の住人、滑甚兵衛命・塩田利兵衛命、又坂与次右衛門命の三柱を祭神として祀る。この当時、松平家は何度も国替えがあった結果、窮乏し、白河から姫路へ移る際も、引越し費用がなく、江戸の商人から引越し費用を借金する有様だった。寛延元年、九代将軍家重の就任祝いとして朝鮮国から使節が来朝し、姫路領の室津に寄港することとなったため、 幕府はその接待を姫路領主・松平明矩に命じた。藩財政に苦しんでいた姫路藩は、領内から金二万両の御用金を徴収し、領民たちを苦しめていた。その年の09月、猛台風が播州一帯を襲い、農作物は甚大な被害を被った。さらに11月には領主松平明矩が急逝し、代わる藩主は幼いため所替は必定となり移封費用の捻出が必要となった。このような状態で11月末の年貢の納期には厳しい取り立てが行われ、領内各地で一揆が発生。二か月にわたって 約一万人の百姓が蜂起した。 大坂町奉行が一揆の鎮圧にのりだし、総計345人の領民が捕えられ、1年半余りの取調べの後、二人が磔、二人が獄門、三人が死罪となり、磔獄門の四名 のうち3名が古知之庄近辺の百姓であった。極刑に処せられた滑甚兵衛と塩田利兵衛は、死後何年も墓が作られなかったが、村人たちは33回忌にあたる安永10年(1781)、経塚を作って霊を慰めた。 その170年後の昭和24年、滑甚兵衛と塩田利兵衛の200年祭が行われたのを機に、置塩神社が建設された。

置塩神社を紹介したブログ上で奥田さんの灯籠を以下のように解説されていた。

こちらは、福岡県知事・奥田八二による灯籠

奥田は兵庫県のこのあたりの出身で、姫路の旧制高校を出て、九州大学へ進み、社会学者となった。社会学者といってなにをやったかというと、炭鉱が閉山となって失業した労働者のための活動を行ったり、同和問題などに関わった。当時の社会党・共産党の推薦で福岡知事選に出馬し、1983年(昭和58年)から3期12年にわたって福岡県知事を務めた。


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15、ビックリの福岡知事選挙投票率の下落

img02.jpg本サイトを作成する上で福岡知事選の有権者数と投票率のグラフを作成した。

有権者数推移については、2000年代からほぼ400万人余で安定。2016年夏の参院選挙から18歳から選挙権が与えられるとの事。選挙管理委員会(代表窓口Tel:092-643-3077)の見立てではプラス9万人。まぁ殆ど大勢に影響ない数字。

有権者数も団塊の世代が老衰で亡くなる時期を迎えると自然減の局面を迎えるのだが、年齢の高い人達の人口構成比が増えていくので自治体の福祉政策も高齢者向けに寄っていくのは致し方ないところ。「若者が生き辛い世の中」が継続する。

18歳プラスで有権者数は自動的に増えるものの問題は「投票率」である。東西冷戦終焉、ベルリンの壁崩壊1989年11月9日以降の投票率の下落は目を覆うばかり。現職の小川洋福岡県知事なんか10人の県民の内、3人からしか信任を受けていない。投票率も4割を切っている。10人のうち6人は「どうでもいい」と思っているのである。

小川福岡知事に「裏金管理人」の過去 懲戒処分後に特許庁長官を退任

2011年12月 2日 08:20 小川洋福岡県知事が、特許庁長官時代に経済産業省内部の裏金をめぐる事件で懲戒処分(戒告)を受けていたことが、経済産業省に情報公開請求して入手した公文書によって確認された。処分は、小川知事が平成8年から9年にかけて大臣官房企画室長の立場にあった間、同室の裏金を銀行口座に入れて管理していた責任を問われてのもの。「裏金管理人」として認定され、懲戒処分を受けた形だ。知事は処分を受けた翌月に特許庁長官を退任していた。かつて裏金問題が県政を揺るがした福岡県で「裏金管理人」を知事に据えていたことになる。

裏金が問題化した組織の長が、元裏金管理人とはなんともブラックジョークだが、それくらい「知事の価値」そのものが下落したと言う事。非共産のオール与党体制でも、それくらいの人物しかなり手がない。そんな選挙に誰が足を運ぼうか?このサイトを作成する上で知ってしまった残念な事実である。img19.jpg

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16、世の中が変わったのだ

50を過ぎると「老い先短い」状況を目の当たりにする。現実に、今まで生きてきた年月より長い時間を今まで以上に気力体力が充実した時として過ごす事は不可能なのである。先を見るより、過去を振り返る事が多くなっている。

私は1963年昭和38年生れである。鉄腕アトムが日本で最初の本格的な1話30分の連続テレビアニメとして放送されている最中の誕生で、日本のアブカルチャー、日本経済高度成長期と共にすくすくと成長し(石油ショックはあった)、学歴偏重世代と揶揄されたものの社会人としてのスタートは1985年(男女雇用機会均等法施行)、就職は引く手数多で、大学4年の春には有名企業から内定をもらって夏には卒業記念旅行。翌年春には意気揚々と社会人生活を始める。世の中は好景気(実はバブル景気だったのだが)で、無金利長期ローンで高額商品(高級車にブランド品や35年ローンでマンション)を簡単に入手できた。流行り言葉は「財テク」で、株や土地投資ブーム。今では考えられない好景気でインフレ状態。中にはおかしな業者もいて、豊田商事事件(1985年)など悲惨な事もあった。普通の会社組織に属していれば普通に毎年給料が上がって生活に事欠かない日々が過ごせたのだ・・・。

ところが、1990年(平成2年)バブル経済崩壊。ざっくり言って平成に入ってから、日本経済はずーと低成長時代で失われた10年とか20年と言う言葉がありましたが、その実、平成に入ってから「世の中がデフレに変わった」のでした。

引く手数多世代の私達。有名企業に入社すれば「一生安泰」と思いきや、いつの間にか「人材の不良債権」と揶揄されリストラ対象者。パナソニック、東芝、シャープ、ソニー・・新製品のお知らせよりリストラ報道が耳につく。

第二次世界大戦を経験した多くの世代が老衰し、古き良き高度成長期に青春を過ごした世代が中年世代になり、その子ども達、ずっと低成長時代を生きてきた世代が親になる時代がやってきた。

ずーと低成長で、ずーとデフレで、ずーと借金がのしかかっている世代の感覚はなかなか理解するのが難しい。バブル世代が戦争中の人の話をきいても「?」っとなるように。

前半と後半でガラリと変わった私の人生。

前半:1963~1990:27年間平和でインフレでバブル狂乱。
後半:1990~2016:26年間バブルの後始末を終えた後もデフレ対応。

1995年:阪神・淡路大震災 地下鉄サリン事件
2011年:東北地方太平洋沖地震
2016年:熊本地震

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17、希望を持って2020東京オリンピックを開催できますか?

僕達世代が、インフレ期の戦後民主主義教育を受けた時の日本はどうだったか?学校でこう教わった。日本は「加工貿易立国」である。資源がない日本は、海外から安い原料を仕入れて、安い人件費で加工して、輸出して利潤をあげないと国が成り立たない。だから僕たちは安い人件費で長時間労働に甘んじなくてはならない不幸な国の労働者なのだと・・。

日本の景気の調整は「公定歩合」と言う金利制度があって、日本銀行が民間銀行へ貸し付けを行う時、適用される基準金利の上下によって景気の調整をしているのだと。

日本の農業政策には「米価審議会」と言うがあって、コメを作ってくれる農家を守る為に、政府がが一旦、農家からコメを買い上げて、その後、政府が卸売に売り渡すしくみがあった。この仕組によって安定してコメが生産され、消費者が安定してコメを購入する事ができるのだと。

極東の島国である日本国が冷戦時代の最中に、アメリカの安全保障の仕組みの中で、軍事大国でなく、非共産主義化、非社会主義化、自由主義圏の国として経済的に安定する事に注力できたのはただただ幸運でありました。

-----1989年、バブル経済崩壊と東西冷戦終焉ですべて変わった-----

しかし、その幸運も永遠に続くものではなく、東西冷戦が終わった(1989-1990年)途端、日本のポジションが変わってしまって、韓国も中国もタイもシンガポールもインドも経済発展をなしとげ、日本の工場で働く人の人件費も、他国で働く人の人件費と同等に比べられる様になったわけです。

日本の労働者の人件費は高い(日本の労働者は高給取りである)。世界視点でみれば。とてもボーナスを払えない、正社員は無理、契約派遣社員でないととても生産工場は成り立たない。

バブル期、あれだけ隆盛を極めた日本のバイクメーカー(4大メーカー:ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ)の内、現在、日本国内でバイクを生産しているのはホンダの熊本工場のみ(最後の砦)。経済効率を追求すれば地産地消。バイク界はすでに、生産者も消費者も日本国内では空洞状態で、ただメーカー本社所在地が日本に登記されているだけになってしまった。若者は既にレンタルバイク利用者。

クルマはどうだ?日産マーチ。みんな知ってる日産のベストセラー大衆車。生産工場はタイ。日産マーチはタイ工場で生産し日本に輸入する立派な輸入車である。ただ、メーカーの本社の登記地が日本国というだけ。img28.jpgそう言えば、一世を風靡した日産シルビア(1982年)の生産工場は亀井光知事が誘致した日産自動車九州工場(1975年:福岡県京都郡苅田町)であった。シルビアは車愛好者に惜しまれながら2002年8月生産終了。

*三菱ミラージュもタイ工場から日本国に輸入。一旦、海外に出て行った生産工場が、そんなに簡単に国内回帰するとは思えない。img29.jpg

ちなみに、トヨタのプリウス、アクアは日本国内の工場で生産販売。コンパクトカーと言うカテゴリーでみると、ガラパゴス市場としての軽自動車が存在するので、リッターカーとか立場が微妙なのである。

現在の日本国首相の安倍さんはアベノミクスによって、デフレ状態から脱して、経済をインフレ化する(アベノミクス3本の矢)と主張している。日本国だけの経済政策で劇的にデフレがインフレ化するだろうか?昨今(2016年06月初旬)あれほど確約していた消費税10%への増税延期2017年04月を更に延期2019年10月(1年半)する事を表明した。2019年って東京オリンピック2020の前年ですけど大丈夫ですか?だましだましですか?と言う感が拭えない。さて、日本国はもはや加工貿易立国でもなし、家電もコンピューターもダメで電子立国でもない・・となったらどういう産業で国家を成り立たせるのだろうか?日本の売り物はなに?成長産業はなに?

若者は労働に興味を持てず、知恵を絞るのは「おれおれ詐欺」に「振り込め詐欺」「ATM詐欺」「高齢者詐欺」。

2018年中に日本国民の誰もが「最近、景気よくなったねぇ、みんな忙しそうだし、バイトやパートの時給もウナギ登りで何処も人手不足。株も土地も目に見えて上がっているし、タンス預金も目減りする一方だから何かに投資しないと」なんて言う状況になりえるのだろうか?

それこそ、隣国で戦費を湯水の様に使う戦争でも起こらいないと、国内経済政策だけで2018年に好景気なんて事はあり得ないのではないだろうか?

誰か経済に詳しい人。教えて下さい。

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18、おわりに

今月の月刊 精神分析では、編集部Aが書き留めておきたかった「福岡県知事選挙」に関して綴ってみました。福岡県知事が東京都知事みたいにならない事を望みます。

東京都知事がマスコミの前で話す言葉が「お金の使いみち」「釈明」「説明」「言い訳」・・・東京都知事が悪いのか、在京のマスコミが知事をいじめているだけなのか?よくわかりません。ただ「政治資金規正法」はザル法である事がよくわかりました。

そう考えると大阪府知事・大阪市長を歴任された橋下さんは偉かったですねぇ。少なくとも政治の話をする府知事であったし、市長であったし、何も落ち度がなくても自ら報酬カットし、議員定数削減したし、政治資金の使いみちが不適切だとマスコミから追求される事もなかった。女性問題は有りましたけど、現実に着実に「改革」を推し進めましたからね。そう言う意味においては大阪府民・大阪市民は「よい知事」「よい市長」を選択したし、こんな不適切な政治資金の使い方をする様な都知事を選んだ東京都民がおバカさんだったんでしょう。もちろん推薦した都議会:自由民主党・公明党は赤っ恥。

img22.jpg「舛添要一」と「橋下徹」の精神構造の違いがわかるようになればいいのですが・・・。

1989年平成元年を境に激変した世の中。好むと好まざるとにかかわらず、これからも世の中は変わり続けるでしょう。

ある日、突然大切な人を失ったり、立場を失ったり、対象喪失状態になる事は誰にでも有り得る事です。周りの景色はあれよあれよと言うまに変わってしまい自分一人がとり残された様に感じてしまう。そんな時、心の病に罹ってしまう事があるようです。昨今、うつ病が「こころの風邪」と言われるような時代です。

こころが大きく傷つく前にご自身の心と向かい合われる事をオススメします。

2016年平成28年06月08日 月刊 精神分析 編集部A

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ではまた来月お会いしましょう。

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19、選挙結果 第1回~第13回


第14回以降はウィキペディアを参照して下さい。
第01回 1947年昭和22年04月05日
杉本勝次 576259 日本社会党
滝野喜一郎 385742  
高橋権六 86218  
1048219  
投票率 74.61%  
第02回 1951年昭和26年04月30日
杉本勝次 736528  
剣木享弘 653336  
星野力 20594 日本共産党
1410458  
投票率 79.56%  
第03回 1955年昭和30年04月23日
鵜崎多一 706603  
土屋香鹿 732620  
1439223  
投票率 74.17%  
第04回 1959年昭和34年04月23日
鵜崎多一 958131 日本社会党
土屋香鹿 710317  
川野孔明 31712  
1700160  
投票率 80.59%  
第05回 1963年昭和38年04月17日
鵜崎多一 958334  
鬼丸勝之 727748  
1686082  
投票率 75.12%  
第06回 1967年昭和42年04月15日
亀井光 895690  
鵜崎多一 891711  
1787401  
投票率 74.32%  
第07回 1971年昭和46年04月11日
亀井光 1151622  
多賀谷真稔 875320  
2026942  
投票率 76.71%  
第08回 1975年昭和50年04月13日
亀井光 1293351  
内田しげお 751946  
2045297  
投票率 73.06%  
第09回 1979年昭和54年04月8日
亀井光 1350943  
坪沼寿義 682467  
2033410  
投票率 68.29%  
第10回 1983年昭和58年04月10日
奥田八二 1221622  
亀井光 1171510  
2393132  
投票率 73.20%  
第11回 1987年昭和62年04月12日
奥田八二 1263123  
田中健蔵 1129196  
2398319  
投票率 73.20%  
第12回 1991年平成03年04月07日
奥田八二 969038  
重富吉之助 537644  
山崎広太郎 361440  
1868122  
投票率 54.87%  
第13回 1995年平成07年04月09日
麻生渡 778297  
重富吉之助 526745  
平川二男 132068  
中村哲郎 71007  
徳川高人 27486  
1535603  
投票率 44.44%  

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20、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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