少年A神戸連続児童殺傷事件 タイトル画像

1、はじめに

月刊 精神分析では、先月号で「少年A神戸連続児童殺傷事件」を取り上げた。

少年A神戸連続児童殺傷事件

1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の神戸市立友が丘中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものとわかった。耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。


img23.jpg

「酒鬼薔薇聖斗を名乗った元少年Aが、あの事件から18年という長い沈黙を破って2015年6月28日に初版発行した手記『絶歌』が、大きな波紋を広げている」・・・今なのだが、なにせ18年前の事柄だけに考察するにはかなりの時間を要した。

参考文献は以下の2冊

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 1999年04月
「少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子」2004年04月

女性編集者が加害者両親の話をもとに構成した本(上)と元女性刑務官ジャーナリストが書き記した本(下)の二冊だ。

今回更に事件被害者「土師淳」君の父「土師守」さんが著した「淳 Jun(1998年09月)」を入手したので、更なる考察に挑戦する。

書籍:淳の扉を開いた瞬間から淳君の幼児時代からのカラー写真が満載で、その写真を眺めているだけで、淳君が健やかに成長していっている様と、ぞの写真を撮った土師守さんの淳君にそそがれたであろう愛情の深さを感じ、自分の中に嫉妬に近い感情が沸き起こるのを抑えられない。

2015年平成27年07月31日

月刊 精神分析 編集部A

追加参考文献:淳 Jun(新潮社)

img04.jpgimg05.jpegimg06.jpg













尚、各書籍が世に出た順番は以下の通りで、本当は、土師守さんの手記を最初に読むのが妥当だったのかもしれない。
1998年09月「淳 Jun」土師守
1999年04月「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記
2004年04月「少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子」

△TOP

2、事件の舞台 神戸市須磨区友が丘

昨今、Googleのおかげで容易に公開情報にアクセスできる様になった。ニュータウンの小高い丘(公称は竜の山)、山の上の貯水タンクがある事から付近の住民は「タンク山」と呼ばれている山が少年の殺害現場である。少年Aが被害者の土師淳君と偶然であってしまった多井畑小学校。そして、土師さん一家が生活していたマンション(北須磨団地I棟)も、ドローンを飛ばせば一望できる距離にある。

img02.jpg

上の映像は当時の報道番組の空撮映像。殺害現場の「タンク山」、連れ去り現場の「神戸市立多井畑小学校」、土師淳君の自宅の須磨団地I棟は北須磨団地(神戸市バス71系統)のすぐ近くにある。

img03.jpg

GoogleMapsで位置関係をよく確認して欲しい。左上が土師淳君の自宅マンション。右上がタンク山の貯水槽。左下が神戸市立多井畑小学校。右下がチョコレート階段の上り口。

img07.jpg

向って左が北須磨団地I棟、右が北須磨団地D-1棟、中央の道の奥500メートル先の右側に神戸市立多井畑小学校がある。

img08.jpg

チョコレート階段からタンク山を見上げる。右上に白い貯水槽がみえる。

△TOP

3、登場人物

img02.jpg
<少年A>事件の加害者
本名:東慎一郎(あずましんいちろう)・・・未確認

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.132

命名の由来「真実を見極める子に育つように!」(父、母)

中学校時代のあだ名:アズキィ
好物:シューマイ
好きな芸人:ダウンタウン
好きな絵:サルバドール・ダリ「燃えるキリン」
好きな彫刻:ミケランジェロ「ダビデ像」
書籍:「拳児」「三国志」「婆羅門の家族」「ピカソの伝記」
「わが闘争」
映画:「ネバーエンディングストーリー」
漫画:「ヤングマガジン」「少年ジャンプ」「行け!稲中卓球部」「笑ゥせぇるすまん」「珍遊記」「北斗の拳」「特攻(ぶっこみ)の拓」「ジョジョの奇妙な冒険」
音楽:「スメタナの交響曲」「ユーミンの砂の惑星」
お気に入りの俳優:ジム・キャリー、ロバート・デ・ニーロ、ブルース・ウィルス、スティーブン・セガール、アーノルド・シュワルツェネッガー、シルベスター・スタローン
好きな映画:「ケープ・フィアー」「ザ・ファン」「マスク」「ダイ・ハード」「沈黙の要塞」「レオン」「13日の金曜日」「エクソシスト」「オーメン」「エルム街の悪夢」「マイキー」「遠い夜明け」「エレファントマン」
タバコは赤マル箱
犯行時:酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る。
神戸市立友が丘中学校3年生
中学校時代は卓球部に所属
直観像素質者
1982年(昭和57年)07月07日06時15分生まれ(戌年)
1997年(平成09年)06月28日逮捕(犯行逮捕時14歳)
須磨警察署の留置場で15歳の誕生日を迎える。
幼少時は神戸市北区の団地の社宅で育つ。
1989年(平成01年)03月、Aが小学校入学の直前、07歳の時、神戸市須磨区北須磨団地(友が丘)に移転(母方の祖母所有の戸建て)。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.155

それまで母と同居していた私の姉夫婦が、子供たちが大きくなったので近所に越し、まだ子供が小さい私たち一家が、母(母方の母)と暮らすようになったのです。



img07.jpg
これ以降の少年Aの家族構成は
祖母(母方)と、父、母、少年A、弟(次男)、弟(三男)の6人家族となる。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.156

友が丘の家の間取りは、一階が台所と六畳の居間と私たち夫婦の寝室。二階は、十二畳の洋室一間に六畳と二畳の三部屋で、Aは小学校まで次男と一緒に十二畳の部屋を使い、中学に入学してからは六畳の和室の方に一人で移りました。


小学校4年生の02月、同居の祖母が肺炎で入院し、その二ヶ月後に死亡。
蛙やナメクジの解剖を始める。
小学校5年生の夏休みに父の故郷の鹿児島県の離島へ家族旅行へ出かける。
小学校5年生の12月、祖母が飼っていた犬(サスケ)が老衰の為死亡。
Aは小学校の頃から成績は悪く、五段階の通知表は2と3ばかり。

小児喘息を患うが、北須磨の友が丘へ移転の後治る。
中学生になり、拾ってきた亀を飼う。
人見知りが激しかった。
中1の時のIQ:70
少年時の性格は少し気が弱く、内向的。几帳面。妙に神経質。
手先が器用で、絵を描くのが好き。
失敗して恥をかくということには、意外にも無頓着。
実母はAに「アンタは本当にノンビー(のんびり)君やねえ。ちょっとトロイのとちゃう?」と何気なく言っていた。
繊細で食も細い子でしたが、妙なところでは大胆。
少林寺拳法小2から小6通う(母が買い与えた「拳児」全21巻という漫画の影響か?)

2004年03月10日社会復帰。

勉強嫌いで成績には無頓着
父からみると
長所:ひょうきんな面もあり、思いやりのある子
短所:内向的。引っ込み思案で少し神経質な面がある。
直観像素質者

医療少年院時代は「Kiroroのピアノをひく女性」が好みと語る。

編集部Aからみると、私は昭和38年生まれなので、親子ほどの年齢の開きがある事になる。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.40

「僕は病気やと思うから、母さんに全然責任ないから・・・。変な病気や」



「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.41

「母さんには、僕のこと分かってほしかった。間違っているかもしれないけど、分かってほしかった」

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.46

Aは精神鑑定の結果、「普通の知能を有し、(犯行時は)意識も清明である。精神病ではなく、それを疑わせる症状もない。責任能力はあった」と判定されましたが、一方では「(Aに)良心が目覚めてくれば、自己の犯した非行の大きさ、残虐性に直面し、いつでも自殺のおそれがある。また、(今後)精神分裂症、重症の抑鬱等の重篤な精神障害に陥る可能性もある」とも診断されていました。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.54

逮捕当日の家宅捜索が終了した夜、一家は長年住んでいた友が丘の自宅を逃げるように去り、母子は二度と足を踏み入れることはなかった。親戚縁者の家を転々とし、両親そして二人の弟たちまでが、連日連夜、警察の厳しい事情聴取を受け、A少年の事件からその姿を隠すため、両親は一時期、離婚。弟達は姓名うぃ変え、兵庫県から遠く離れたある都市に親と離れて暮らした。

今、この原稿を書いている2015年平成27年07月06日だから、明日、少年Aは33歳の誕生日を迎える筈。

以下少年A加害者家族-----------------

少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子 P.87

両親の養育方針はこういうものである。「人に迷惑をかけず、人から後ろ指をさされないこと。人に優しく、特に小さい子には譲り、いじめないこと。しかし、自分の意見ははっきり言い、いじめられたらやり返すこと」

<少年Aの父>
少年Aの実父

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.135

お父さん家は八人兄弟やけど、子供は女の子ばかりだったので、お父さんはとにかく「男の子がほしい」ということで頭が一杯でした。(Aの父方は女系家族?)

鹿児島県の離島(沖永良部島)出身
趣味は日曜大工
1970年頃中学校を卒業後、就職で神戸へ。
事件(1997年)当時47歳(夫婦共)
1980の結婚は30歳(夫婦友)
20歳で実母を亡くす。
鑑賞するTVプログラムはニュース、ゴルフ、「水戸黄門」「生きもの地球紀行」「裸の大将」
趣味は釣り、ゴルフ、スケート、パチンコ
十年前(32歳位?)から心臓を患う
子煩悩な性格。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.91

Aは勉強はまったくダメ。通知表は2ばかりでした。私も人の事は言えませんが、まああのままでは、Aが高校に行くのはちょっと無理だろうと思っていました。「高校に行かないなら、新聞配達か自衛隊に入ったらどうや」と話したこともありました。Aは内向的な子なので、自衛隊なら私は仕事上付き合いがあり、団体生活で規律面がしっかりしているのを知っていたので、いいのではないかと思っていました。でも、Aはあまり聞いてはいませんでした。




「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.115

Aは自分の息子です。あんな凶悪な事件を起こしても、怖いとも思わないし、憎いとも思えません。見捨てようとも思いません。でも、息子がやった行為を考えると、被害者の方々には死んでお詫びするしか方法がないのではないか、と正直何度も思い悩むこともあります。息子は生きていますが、被害者の方々の掛けがえのない命は永遠に戻ってきません。やり切れない、永遠に変わることのない事実があります。私が死んで被害者の方々の気持ちが少しでも和らぐのであれば、いつでも死にたい。卑怯かもしれません。でも、お子様の命は何をしてでも償って償いきれるものではありません。今でもふっと死にたいと思う瞬間があります。でも、ここで自分が踏ん張って頑張らないと、私が死んだら下の弟達はどうなるのか。誰がご遺族の方々にお詫びをしていくのか。弟達に、これ以上重荷を背負わせる訳にもいきません。私と妻でAの罪を共に背負って、許して貰えなくても生き長らえながら、その間に精一杯のことをやらせて頂くしか道はありません。「我々が死んだら、誰がお詫びすればいいのやろ?」妻とよく話すことがあります。立ち直れるか分からない愚かな息子ですが、やはりAを被害者の方々の家へお詫びに連れて行くまでは、死んでも死にきれないと思います。満足なお詫びもできない不甲斐ない親が戯れ言を言っていると軽蔑されても、私達ができることはそれしかありません。本当に申し訳ありませんでした。ただただご冥福をお祈りさせて頂きます。

<少年Aの母>
少年Aの実母

三姉妹の次女
結婚してからずっと専業主婦
次男のPTA役員を務める
07歳の頃実の父を亡くしたので実父の記憶が殆どない。
姉妹と三人の娘を母が女手ひとつで育てた。
あまり家庭に関心がなく、お酒やパチンコなどにフラリと出かけていた事をかすかに覚えている。
私は「あかんかったら次行こう、失敗したらその時点で次に何か考えよう、」という性格と自己分析。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.103

父親からみた母親の性格:妻は性格的に物事に対し白黒ハッキリとさせないと気が済まないところがあり、曲がったことや間違ったことが嫌いで、正義感が強いというか、「他人を傷つけたり、苛めたりすることなど、自分が嫌でやらないことは、子供たちにもさせてはいけない」という考えがあり、その点では子供に厳しく注意していたと思います。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.36

Aは、親バカかもしれませんが、人に必要以上に気を遣うなど、繊細でやさしいところのある子でした。すぐ人を信じて傷つきやすく、臆病で純粋すぎる。根がバカ正直なので、学校でも先生に思ったことをそのまま言うなど、不器用で心配になる部分があるほどでした。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.37

「Aは厳しく躾けられ、親の愛に飢えていた」とジャーナリストや心理学者、裁判官の方々は、口を揃えて言われましたが、私はむしろ、息子に構いすぎ甘かったために、あの子をあんなにしたのかもしれない、今は正直思っています。あの子にあれ以上、どう接すればよかったのか?親としての子供への愛情とは一体、何なのか?どういう具合に愛情を伝えればよかったのか?私は何もかも分からなくなりました。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.44

「私は物事を白黒どちらかハッキリさせなければ気が済まない性格でしたが、今後は子供については他の方々の意見も聞いて、自分の考え方を変えていきたいと思います。もっとゆとりをもって子供に接せられるようにしたい。いつかAを立ち直らせ、親としてキチンと被害者にお詫びをし、Aに償いをさせたい」


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.239

信じていただけるかどうか分かりませんが、これが私が思い出す限りのAとの会話、生活でした。児童相談所に通っていたときも、逮捕前日も、Aの様子は私の目から見て普段と何ら変わりがありませんでした。 私が母親としてあまりに鈍かったのかもしれません。 それとも、あの子は本当に二重人格の殺人鬼だったのでしょうか。私には分かりません。でも、一瞬でもAに疑いを感じたことはありませんでした。 あれだけ側にいながら、事件を引き起こしているとは、想像もつきませんでした。愚かな親ですが、私はAが逮捕されて会えない間じゅうずっと、最後までAを信じてやりたかった。子供にそんな酷いことが出来るわけがない。いい子ではないけど、百パーセント信頼し、愛していた息子を疑うことは、どうしてもできませんでした。 思春期にモヤモヤした妄想を抱いたとしても、普通の子供であれば、それは空想だけで止まります。 私たちはAを止めることが、なぜできなかったのか。悔やんでも悔やみきれません。 もし、私たち親があの子の中学校生活の中で、何でもいいから、本当に打ち込めることをひとつでも上手に見つけてやれば、Aはあんな事件を起こさなかったかもしれません。 私は息子を自慢にはできませんでしたが、やはり愛情は多く、深く持っていました。 Aは自分が愛されていないと思い込み、犯行へ突っ走って行ったとマスコミなどでよく専門家の方が指摘されています。 あの子に私の気持ち、親としての愛情をどうやって伝えれば、うまく伝わったのでしょうか?私は、あまりにも不器用な母親だったのかもしれません。そしてAも・・。それが最後まで悔やまれてなりません。息子の凶行により、尊い命を失われた土師淳君、山下彩花さんのご冥福を心からお祈りいたします。それとともにご家族の方々にはただただ申し訳なく、お詫びするばかりです。私の至らなさで、取り返しのつかない結果となり、本当にすみませんでした。


<少年Aの祖父>
少年Aの母方の祖父。
08月02日死亡

<少年Aの祖母>
少年Aの母方の祖母
1993年04月16日死亡。
孫:少年Aら兄弟を可愛がる。

<少年Aの弟:次男>
少年Aと年子で生まれる
Aの誕生から一年四ヶ月後に誕生。
サッカーをしている。
1983年(昭和58年)11月生まれ?
事件当時:神戸市立友が丘中学校2年生
事件被害者土師淳君の兄:土師巧(はせさとし)君の同級生。

<少年Aの弟:三男>
少年Aの誕生から三年二ヶ月後に誕生。
1985年(昭和60年)09月生まれ?
小児喘息を患う。北須磨の友が丘へ移転の後治る。
事件当時:神戸市立多井畑小学校6年生
事件被害者土師淳君の同級生(かつて教室で机を並べた)
被害者:土師淳君の友人

以下被害者の土師淳君の家族-----------------
img03.jpg
<土師淳(はせじゅん)>
1986年02月10日早朝、神戸市須磨区の産婦人科医院で、土師守の次男として誕生。
3歳の時、叔母一家が飼っていた柴犬に鼻を噛まれる。
事件の被害者。当時11歳(小学校6年生:多井畑小学校6年2組)。
小学校3年生の時に、当時小学校6年生のAにいじめられる。
1997年05月24日、土曜日、午後1時40分「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」の言葉を残し自宅マンションを出た後、少年Aに「カメをみにいこう」とタンク山に誘い出され絞殺される。17:00から放映される大好きなテレビ番組「日本昔ばなし」を見逃す筈はなく家族は淳君の帰宅を待っていた。
少年Aの弟(三男)の同級生(かつて教室で机を並べた)でもあった。

幼稚園年長組(北須磨保育センター:第一センター)の頃に、言葉の発達の遅れ発生。
神戸市立多井畑小学校2年生の時設立された「なかよし学級」へ。
軽い知的発育障害がある。直
観像素質者でもあった(パズルのピースの置き方で判明)。幼稚園の時からスイミングスクールに通う(小児喘息対策)
週二回のスイミングスクールの後は決まって「山陽ペットガーデン」へ。ミドリガメや熱帯魚が大好き。働く車が大好き。「機関車トーマス」の大ファン。
几帳面な性格で整理整頓ができる。人一倍慎重な性格。知らない人に声をかけられても絶対付いて行ったりしない性格。
一番好きな歌は「翼をください」
松田聖子の「あなたに逢いたくて」
ポケットビスケッツの「Yellow Yellow Happy」
好きなテレビ番組
「日本昔ばなし」「ドラえもん」「サザエさん」「どうぶつ奇想天外!」「世界・ふしぎ発見!」NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」「秀吉」「毛利元就」

特に好きな花は「ひまわり」
img04.jpg
<土師守:土師淳君父(はせまもる)>
土師淳君の実父
事件当時淳君一家ははマンションの4階に住んでいた。
〒654-0142 兵庫県神戸市須磨区友が丘9丁目2603-89 北須磨団地I棟4階

放射線技師

がん集学的治療センター長
1956(昭和31)年、神戸市生まれ。
1968年、昭和43年中学生になったばかりの頃に友が丘に移り住む(父の引っ越し)。
1981年、神戸大学医学部卒。放射線科医師
1982年、結婚。
1986年、兵庫県姫路循環器病センターに勤務。
1987年、神戸大学医学部付属病院勤務。
1994年、神戸市海星病院勤務。

地方独立行政法人 加古川市民病院機構
名称 :加古川西市民病院
所在地 :兵庫県加古川市米田町平津384番地の1
開設年月日:昭和25年10月6日
センター長(兼)院長補佐(兼)診療支援部長(兼)放射線科主任科部長

<土師淳君母>
土師淳君の実母
山口県萩市近郊に実家がある。
加害者:少年Aの母とは卓球クラブの知り合い。
趣味:パッチワーク

<土師巧(はせさとし)>
土師守さんの長男。淳君の兄。
加害者:少年Aと同じ神戸市立友が丘中学校の2年生。同じ卓球部に所属。土師守氏の著書:淳 Jun の中では「敬(仮名)」で登場する。
弟の淳君が行方不明になり、05月26日(月)も心配で登校せず。父に促されて登校。

<土師守の父>
事件当時、71歳。
1968年昭和43年に友が丘に移り住む。
少年Aの家は、土師守氏の実家(土師守の父)のすぐ近くにある。

<土師守姉夫婦>
淳君は3歳の頃、姉一家が飼っていた柴犬に鼻を噛まれた事がある。
和歌山県在住。5月26日淳君行方不明の一報をきき、和歌山から駆けつける。
淳君捜索中に土師宅で留守番中(電話番)の少年Aの母の態度を批判する。
事件発覚時、土師淳君両親と共に、土師守姉が一緒に須磨警察署へ向かう。
土師守姉夫婦には淳君が大好きだった3人の姪(淳君の従妹)がいる。


<土師守妻両親>
山口県在住。淳君行方不明の一報をきき、山口県(5月26日)から駆けつける。
5月27日早朝から土師守妻父は自治会の捜査に参加。

<斉藤さん>
斉藤さんの息子ふたりが巧君と淳君の同級生で、同じマンションの住人。
淳君搜索に全面協力する。5月26日土師宅の電話番を少年Aの母親と一緒に担当。

<浜崎さん夫婦>
兵庫県議会議員。淳君捜査に協力

以下学校関係者-----------------
<神戸市立多井畑小学校校長>
橋本厚子さん。
橋本校長は、土師守さんの小学校4年生(舞子小学校)の時の担任
舞子小学校:〒655-0048神戸市垂水区西舞子4ー7-43
5月28日午前8時前「友が丘中学校のところで警察がテープで仕切りをしているという話を聞きました。何かあるかもしれないから、すぐにいってみたらどうですか」と連絡する。淳君の両親が友が丘中学校に向かうと、中学校の周りは警察によって交通規制がかけられていた。
5月27日午前8時前に土師氏へ友が丘中学校へいく様に電話したのは橋本校長だった。

<神戸市立多井畑小学校教頭>
高橋教頭

<なかよし学級担任>
多井畑小学校:担任 森先生

<なかよし学級元担任>
多井畑小学校3年生の時:担任 萩森先生。
愛知県から淳君の通夜に駆けつける。

<なかよし学級担任>
多井畑小学校:親学級の6年2組担任 上野先生

以下被害者の山下彩花ちゃんの家族-----------------
img05.jpg
以下被害者の山下彩花ちゃんの家族-----------------
事件当時10歳
img06.jpg
<山下京子(やましたきょうこ)>
山下彩花の実母
以下被害者の堀川ひとみちゃんの家族-----------------
<堀川ひとみ>
事件当時(9歳)
<堀川耕一郎>
実父










△TOP

4、土師淳君捜索マップ

img18.jpg
5月24日「おじいちゃんとこ行ってくるわ」と言って出かけたまま戻ってこない土師淳君。日が暮れた後、母、父(土師守)は近隣のPTAと共に必死にさがした。

5月27日、友が丘中学校の校門で淳君の頭部が発見されるに至り、事件として警察が捜査に乗り出す事となる。

淳 Jun P.46

私は、淳の人一倍慎重な性格や、これまでの行動パターンから考えて、勝手にバスや電車に乗って遠くまでいき、道に迷って保護されるようなことは、決してないだろうと確信していました。また、たとえ間違って遠くまでいってしまっても、淳が普通の健康状態にあって、しかも、それが歩いて帰れる範囲内であれば、淳は必ず自力で帰ってくる子供でした。とにかく方向感覚が素晴らしい子でした。しかし、内心はそう思っていても、私は教育委員会の人の言葉にすがりつくことにしました。


5月24日土曜日(赤ピン)
土師淳君の自宅
〒654-0142 兵庫県神戸市須磨区友が丘9丁目2603-89 北須磨団地I棟4階
名谷駅(神戸市交通局)神戸市須磨区中落合
神戸市立多井畑(たいはた)小学校:神戸市須磨区友が丘3-106
須磨警察署(すまけいさつ):神戸市須磨区大池町5-1-30
北須磨公園:通称パンダ公園:神戸市須磨区友が丘7丁目(入口にパンダ像がある)
多井畑東町
菅の台
竜が台
白川台
友が丘
名谷駅東公団住宅建設現場
地下鉄妙法寺駅
須磨駅
須磨浦公園駅
奥須磨公園
タンク山
チョコレート階段

5月25日日曜日(青ピン)
福祉センター:神戸市須磨区神の谷5-2-1
神戸市立多井畑幼稚園:神戸市須磨区多井畑岡ノ辻13
多井畑厄神:神戸市須磨区多井畑字宮ノ脇1
神戸市立多井畑(たいはた)小学校:神戸市須磨区友が丘3-106
須磨離宮公園
須磨離宮公園植物園
神戸市須磨区高倉山;通称「おらが山」:高倉台

5月26日月曜日(緑ピン)
須磨離宮公園
神戸市中央区ハーバーランド
須磨警察署:淳君の写真提供の要請
湊川神社
大倉山駅
垂水区のみどり電化:神戸市垂水区舞多聞東2丁目1-45
寿司のにしかわ:神戸市垂水区名谷町3425
奥須磨公園
神戸市立友が丘中学校
須磨警察署



img17.jpg

△TOP

5、土師淳君のお葬式

淳君の自宅:654-0142 神戸市須磨区友が丘9丁目2603-89 北須磨団地I棟
神戸大学医学部:〒650-0017 兵庫県神戸市中央区楠町7-5-2
西神平安祭典:651-2277 神戸市西区美賀多台9丁目2番1号
西神斎場:651-2312 兵庫県神戸市西区神出町南600

マスコミ陣に自宅マンションを取り囲まれ、「淳君を家に連れて帰りたい」と言うささやかな願いも叶わぬ中、父親の土師守さんは、沢山の方が参列する事が予想されたので、淳君のお葬式を西神平安祭典で執り行う事を決める。土師守さんは多くのマスコミから隠れるように警察の車で、司法解剖された淳君の亡骸を神戸大学医学部へ迎えに行き、西神平安祭典へ向かう。土師さんは医師であり、神戸大学医学部の卒業生でもある。自分の息子を殺された父として「我が子の亡骸」を自分の出身校に迎えにいく心中はどうだっただろうか?土師守さんは著書の中でこう綴っている。

淳 Jun P.81

私は妻の状態を考え、私ひとりで淳の遺体を引き取りにいくことにしました。私は警察の車で神戸大学まで送ってもらい、さらに平安祭典まで送ってもらうことになりました。

5月29日木曜日通夜 午後06時
5月30日金曜日告別式午後01時30分

△TOP

6、マスコミ

img16.jpg
事件当時、土師さん一家が住んでいたマンション。世間の興味を引く事件であった為、マンション前の道路にマスコミが押し寄せて交通渋滞を引き起こす程だった。
5月27日朝、神戸市立友が丘中学校の校門で淳君の生首が発見される。須磨警察署で変わり果てた淳君を対面した直後の土師淳君両親に対して、速攻でマスコミの取材攻勢が始まる。自宅マンションへ帰宅する際にエレベーターに乗り込んできて悲しみに暮れる遺族の写真を撮り、無神経な質問を繰り返す。警察の勧めもあって、マンションドアに以下の張り紙をする。

淳 Jun P.79

マスコミの方々へ 取材等には一切応じかねます。私どもの心情を察して下さい

その後も、ひっきりなしに電話やインターホンが鳴る。

淳君の通夜、告別式の最中もマスコミの取材は続く。

淳 Jun P.90

(1997/5/30)その後、私たち家族は、警察の車で家まで送ってもらいました。 マンションに着くと、数人のマスコミ関係者が待ち構えており、私たち三人の写真を撮っていきました。 私たちは、それぞれお骨や位牌、遺影を持っていたので、顔を隠すこともできませんでした。私たちは、淳のお骨と一緒に家に入りました。淳がどれほど家に帰ってきたかっただろうかと思うと、切なさで胸が張り裂けそうそうでした。 私たちは、淳の遺影に向って、 「お帰りなさい。やっと帰ってこれたね」 と、話しかけるのが精一杯でした。

土師守氏の職場復帰の日

淳 Jun P.103

06月16日、月曜日。私自身もこの日から職場に復帰することになりました。その日の朝のことでした。駐車場から車に乗って出口に向かうと、私をずっと待ち構えていたらしいカメラマンの一人が、サッと車の前に飛び出してきました。フロントガラス越しに私の顔写真を撮ろうとするのです。驚いて急ブレーキを踏みましたが、私はそこまでするマスコミの人間に、激しい怒りを覚えました。その時は幸い、こんなこともあろうかと心配して見張ってくれていた山元刑事さんがカメラマンを横に押しやってくれました。私は車を無事に発進させることができましたが、久しぶりに出勤する日なのにいやな気分になってしまいました。

6月28日少年A逮捕の日、ドアには土師淳君の家のドアには以下の張り紙を掲示した。

淳 Jun P.117

報道関係者の皆様へ
事件のことに関しましては、連絡を受けて知りました。いろいろと有り難うございました。ただ、現在の私共の心境はとてもコメントさせていただく状態ではございません。どうぞお察しの上、そっとしておいて欲しいと思いますので、宜しくお願い致します。 土師

そして土師守さんのマンションの周りの様子は・・・

淳 Jun P.119

警察では、とりあえず被疑者を逮捕することができた(1997/6/28)ことで、ひとまずホッとしている様子でした。 深夜近くになって、マンションの南側を窓越しにそっと覗くと、そこにはたくさんの報道陣の車と、野次馬としか思えない人達が大勢たむろしていました。そのため、マンション前の道路は大変な交通渋滞を起こしていました。 私の影が映ったのでしょうか。それともただ単にマンションを撮影しようとしているのでしょうか。四階自宅の窓のカーテン越しに、カメラのフラッシュが何回も焚かれました。この騒ぎぶりには怖い感じすらしました。 後で知ったのですが、この夜は私たちの家の玄関前に二、三十人の報道陣が詰めかけていました。そのうちの何人かは、廊下などで徹夜をし、私たちの動きに備えて張り込みをしていたというのですから、とても信じられませんでした。

警察の勧めもあって、インターホンをTVモニター型のものに交換しました。以後は訪問の相手の顔を確認できるようになったので、かなり精神的負担が軽減されました。

淳 Jun P.163

一切の取材をお断りしていましたので、各社、あの手この手で私たちのコメントや写真・映像を撮ろうと近づいてきました。 「淳君の供養をさせて下さい。小学校のところでも拝んできました」 とインターホン越しにいってきた人がいました。その時点では、私の家もTVモニター型のインターホンに交換していましたので、玄関前にはお寺の僧侶のような格好をした人がいるのがわかりました。様子をよくよく注意して窺っていますと、その人の背後にカメラを持った人が隠れているのが分かりました。 「お気持ちだけで結構ですので、お引き取り下さい」 と伝えると、その僧侶は、 「私だけでも入れてください」 といって思わず、背後のカメラマンの存在を示唆していました。 ここまでする社はまれですが、執拗にインターホンから離れずに取材しようとする記者のはかなりの数に上りました。

以前、バックトゥザフューチャー(映画)でハリウッドスターになった、マイケル・J・フォックスの事を月刊 精神分析で取り上げた事がありました。その時目を通した彼の自叙伝の中に「マイケルの結婚式の写真を撮影しようとマスコミがおしかけ、中には動物のぬいぐるみでカモフラージュして接近しようとしたカメラマンがいて大変だった」と書いてあったのを思い出しました。

古今東西、人々の興味関心を持つ事件や話題を商売にし、興味本位で掻き立て、持ち上げ、旬が過ぎれば、今度はスキャンダルを掻き立てるマスコミの報道姿勢は野次馬のそれを投影したものに過ぎません。

悲惨な目に遭っている事件の遺族の情報は、門外漢にすれば「他人の不幸は蜜の味」と言う事なのでしょう。

△TOP

7、警察

犯罪被害者の警護をテーマとした映画があった。マルタイの女(1997年)伊丹十三監督作品である。踊る大捜査線では警察内部の不祥事をもみ消そうとする悪態が描かれたり、警察への市民感情も多様化している昨今である。ストーカー規制法(平成12年)が成立する・・振り込め詐欺の多発、危険運転の頻発。一般市民の平穏な日常をある日突然不幸のどん底に陥れる犯罪が身近に存在する。

淳 Jun P.109

先にも触れましたが、私たちの家には、県警捜査本部から派遣されてきた電話逆探知グループの方々が、淳が発見された日からすっと昼夜三交代制で滞在されていました。この人達は本来の逆探知の仕事に携わる傍ら、外出できないでいた私たちの相談役であったり、話し相手であったり、時には、食料品などの買い出しを肩代わりしてくれる便利屋さんであったりしてくれました。

そして、横暴な取材を敢行しようとするマスコミ関係者と称する人間たちからも、身を挺して私たちを保護してくれたのは、この刑事さんたちでした。

警察のお世話になる様な面倒な事に関わりあいたくはないと思いながらも、なぜか自分から事件や事故を招き寄せているとしか思えない人々が存在する。

仏教の世界に因果応報と言う言葉ある、原因結果の法則とも言う。今、こういう結果を招いたのは、そうなる理由があなたにある。・・だから宗教に帰依しなさいと言うカルト宗教の勧誘のフレーズに転用されやすい言葉であるが、精神分析や心理学の世界では、因の部分を無意識やコンプレックスと考える。

自分では意識できない複合観念体(コンプレックス)が、ある事象をきっかけにスイッチが入り、人々を意識してないのに、問題行動に駆り立てたり、病気の症状として表象化すると言う事がある。

土師淳君がなぜこんな目にあわなければならなかったのか?あなりにも理不尽で分析する気にもなれないし、悲しすぎる。

△TOP

8、淳 Junを読んで生じた少年Aの母への疑問

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記・・・に目を通した限り、少年Aの養育環境に特に著しい問題がある様に読み取れなかった。もちろん、本は構成:森下香枝(ジャーナリスト)と記述されていて、Aの父母の生声がそのまま記載されたインタビュー記事の掲載本ではない。

森下香枝

森下香枝1970年生まれ。文芸春秋社の記者を経て朝日新聞社に入社、支局周りの後に週刊朝日に配転。退屈な殺人者 森下香枝 (2002/5)。史上最大の銀行強盗―5億4000万円強奪事件 森下香枝 (2003/9)。グリコ・森永事件「最終報告」 真犯人 (朝日文庫) 森下香枝 (2010/6/4)。

ネットを検索していると。森下さんに関する情報は乏しく、一部「この子を生んで」の中に捏造された部分がある、この本は「ゴーストライター森下香枝の作品である」と揶揄している記事を見かけた。・・・このネットの記事もどこまで信憑性があるのかわからないが、少年Aの父母の思いや考えがこの本にどこまで表れているか相当怪しい様な気もする。

私は「少年A」この子を生んで・・・の記述にひっかかる事があったのを思い出した。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.123

5月26日 十時頃また私は三男と二人で、今度は自転車で奥須磨公園まで探しに行きました。 三男は次男の自転車に乗り、私はAのグレーの自転車に乗っていました。 妻はその後、美容院に行ったと思います。

地域の人々が行方不明になった児童(土師淳君)を探している最中に「美容院」である。かなり不用意な行動ではないだろうか?昨今、地域のつながりもメール連絡からLINE連絡に変わるなど、SNSを利用したつながりを「縛り」とネガティブに受け取る人々も沢山いる。ママ友付き合いが苦手な人もいるときく。

更に、事件の被害者である土師淳君の実父である土師守さんが著された「淳 Jun(新潮社)」に目を通すと「ん?」と引っかかるところが多々あった。

淳 Jun P.153

A少年の母親と私の妻が特に親しかったわけではありません。 先にも触れましたが、小学校3年の時にも、淳はあのA少年にひどいイジメにあいました。当時はまだ小学6年生だったA少年は、知的発育障害を持った淳の弱みにつけ込んで、陰で殴ったり蹴ったりしていたそうです。 3年生だった淳は、もちろん6年生になった頃より言葉の発達は遅れていました。 淳には、そういうイジメにあっても、 「○○にやられた」 「○○にイジメられている」 といった訴えを先生にすることもできませんでした。 それをいいことに、A少年は淳を殴ったり、蹴ったりしていたのです。 そんなイジメが怖かったのか、小学校3年生の淳は、本当は学校が好きなのに、何度か学校にいくのを嫌がったことがあったそうです。 しかし、そのイジメもやがて発覚し、A少年は、それを知った当時の担任にひどく叱られることになりました。 淳の頭にはたんこぶができていました。相当きつくA少年に殴られたのだと思います。 「その時は、担任の先生がわざわざA少年を連れて、家に謝りにきたの。シクシク泣きながら"ごめんなさい"と素直に謝ったので許してあげたの」 妻はそういいました。妻はその後、学校から母親のAさんにこの件についての話があったかを確認するためもあり、念のためにA少年の家に電話をかけました。 学校からは連絡がなかったようで、妻は母親のAさんに事情を説明したそうです。 ところが彼女は、 「あの子は、六年生になってから仲の良かった友だちとクラスが別々になって、きっと寂しかったんやわ」 と、そんないい訳ばかりしたそうです。 最後まで"ごめんね"という謝罪の言葉は口から出なかったそうです。

A少年の母親には、私たちは不信感を抱いていました。
淳が行方不明になった5月24日、妻は淳がよく行っていたAさんの家にすぐに、電話で問い合わせをしています。
するとAさんからの返事は、
「最近は、ずっと来たことがないわね」
というものだったそうです。
しかし、Aさん宅のすぐ近所には私の両親の家があります。
ですから、淳は、まず両親の家に立ち寄ってから、Aさん宅に行くことが多かったようです。
「私はあの前日の5月23日にも、Aさんのところにいったと、淳から直接聞いてたけど・・・」
私の母はそういっていました。
「淳は、どこにいってきたん?」
と母がきくと、
「A君のとこ、いってきた」
こう淳は答えたそうです。

上記は、少年Aの狡猾さと少年Aの母のピントのズレ感を伝えるエピソードである。

淳 Jun P.60

5月26日そういう姉も家に入ってすぐに、電話番を引き受けてくれていたのでした。 その姉が、留守中のそういった出来事を私たちに話しおわった後、 「いったい、あのAさん(少年Aの母)いう人は何んやのん?みんなが心配して淳君を捜しにいっているというのに、その家の留守番をしながら、たまごっちをふたつも持ち込んでたんよ」 「それを一生懸命に面倒みて、その上、口を利けば自分のことの子供の自慢話ばっかりして。何んていう人や。あんまり腹が立ったから、姉の私がきましたから、もう結構ですというて、すぐ帰ってもらったわ」 と姉は怒っていました。 しかし、そんなことよりも、当時の私には淳の行方を案じるほうが先でした。

その後、少年Aの母は一緒に電話番をしていた方から傘を借りて家に戻った(午後2時半頃)。

たまごっち

たまごっちは1996年11月23日にバンダイから発売されたキーチェーンゲームであり、登場するキャラクターのことでもある。名称の由来は「たまご(Tamago)」と「ウオッチ(Watch、腕時計)」。画面の中に登場する「たまごっち」と呼ばれるキャラクターにえさを与えたり、糞の掃除をしたり「たまごっち」と遊んだりしながら育てていく。こまめにコミュニケーションをとっていれば機嫌がいいが、えさをやり忘れたり、糞の掃除が滞ったりすると機嫌が悪くなり最悪の場合には死ぬこともある。

少年Aの母にしてみれば、子どもから頼まれた(あてがわれた?)たまごっちの世話をしていただけかもしれないが、大事な家族が行方不明になっている最中になんとも失礼な近所のおばちゃんだったのかもしれない。今風に言えば少年Aの母は「空気を読めない人」だったのだろう。

淳 Jun P.155

また、事件発生後も、代わりに買い物をしてあげるといっては、Aさんが何度かうちにやってきましたが、妻に警察のことを尋ねていったことなども、いまから考えると奇妙な言動でした、なぜ、それまで大した付き合いもなかった私たちのために、自分から進んで買い物の手伝いをしなければならなかったのでしょうか。 本当に、ただの親切心からだったのでしょうか。 そんな疑問さえ解明できる術を私たちは持つことができませんでした。

次は、淳君の葬儀での少年Aの母の振る舞いである。父の土師守さんは以下の様に認めている。

淳 Jun P.86

そのあとで、Aさん(少年Aの母)がやってきました。(1997/5/30) 「難儀なことやなぁ。子供の顔ぐらい見たりいな」 Aさんは、妻がまた淳の顔を見ていないことを聞いて、妻に向って、そんなことをいったようでした。 淳の遺体の状態、妻の精神状態を考えれば、絶対に口からは出ないはずの言葉でした。

・・・あまりに無神経な発言である。更に、少年Aの両親のコメントを引用する。

淳 Jun P.156

A少年の両親は、家庭裁判所から審判の決定が出たとき(1997/10/17)に、こうコメントしています。

<私たちにできることは、子供が治療を受けている間、いろいろな先生方のお力をお借りして、勉強しながら子供を受け入れる態勢をつくり、息子を立ち直らせることだと考えています。それが私たちにできる償いだと思い、どんな困難があっても、何年かかっても、やり通したいと思っております>

A少年の両親が、自分たちの息子を立ち直らせること・・・それは先にも触れた通り、A少年の両親が自らおこなってきた過ちに対しての、A少年への償いでしかありません。
「償い」とは、一般的に加害者側が被害者に対して使う言葉ではないでしょうか。
「子どもへの償い」
それは、私たち被害者へのものとは明らかに違います。私たちの存在についての意識がAさんには見受けられないように感じました。私たちは、A少年の両親は、自分たち家族のことを中心に考えすぎているように思えて仕方がありませんでした。
私たち被害者側の人間に対する謝罪の気持ちがあまり伝わってこないように感じました。

少年Aの母の真実の姿がどういったものであるか真相はわからないが、ひょっとしたら、「かなり世間ずれした子どもみたいな人」だったのかもしれない。そんな母の養育が少年Aにいかなる影響があったのか?少年Aの人格、自我の形成にどのような影響があったのか?知りたいと思う。

以下は先月号にも記述した件だが、改めて再掲する。

少年A 矯正2500日 全記録 解説-「少年A」の叫びが聞こえるか P.244

わたしも「少年A」の精神鑑定を行った医師から話を伺ったことがある。そのとき驚いたことは事件から数年後に「これまで話せなかったことですが」と断った母親がおずおずと語ったと内容であった。何と生後半年ぐらいのときから体罰を加えていたというのだ。

ひょっとしたら少年Aの養育史には、まだ認知されていない黒歴史が存在するのかもしれない。もしかしたら元少年Aが出版した「絶歌」にそういう記述がありはしないか?僅かに期待するものの、今のところそう言った情報は漏れ聞こえてこない。

事件発生(1997/5/27)後約3ヶ月後の(1997/8/16)

淳 Jun P.145

この日の午後、玄関先の郵便受けを見にいくと、新聞の夕刊と一緒に、差出人の書いてない一通の手紙が入っていました。私にはそれがA少年の両親からの手紙だと、すぐに分かりました。(中略)私と妻は、いまにいたって、なぜ、Aさんがこのような行動をとるのか理解に苦しみました。 A少年の母親には、私たちに本当に心から謝罪するという気持ちがあるのか、疑問に思いました。 私たち夫婦は、受け取った手紙に一応は目を通しました。 文面は紋切り型で、いかにも誰かに言われて書いたという感じがしました。私たちはその手紙を見ているだけで不愉快になってしまいました。思わずその場で破り捨ててしまおうかと感じたほどでした。 後日、女児殺傷事件の被害者宅に届いたという、A少年の両親からの手紙が一部の週刊誌上に紹介されましたが、私が予想したとおり、それは私たちの家にきた手紙と一字一句、同じものでした。違っていたのは、被害に遭った子どもの名前と封筒に書かれた宛て名だけでした。

A少年の両親の不誠実な対応が、後の損害賠償訴訟へと繋がっていく。

△TOP

9、少年A逮捕時の地元の様子

YouTubeを検索していると事件当時(少年A逮捕時)の生々しい混乱ぶりを伝える報道現場の様子が伝わってくる動画をみることができる。

事件の対策本部が置かれた兵庫県警須磨警察署(すまけいさつ:神戸市須磨区大池町5丁目1番30号)の前からの生中継の様子だ。天下のNHKの報道番組であるのにもかかわらず、生放送中の事件記者を群衆(野次馬)が取り囲み収拾がつかない状況になっている。当時、人気歌番組の「ベストテン」の生中継などでもこういった事はよくあったのだが、非常にショッキングな事件の報道番組中の野次馬行為は不謹慎の謗りを免れない。当時、20前後の若者であった彼らももう40近いおじさん(地域の中核)の世代、親の立場になっている筈だ。よろしければ近況報告でもしていただきたい。
img11.jpg
アナウンサーの武田涼介さんはチーフアナウンサーとして活躍中。
img12.jpg
レポーターの鴨志田郷さんは NHKニュース7(NHK総合)でキャストとして出演。
img13.jpg
最後はもうもみくちゃ。
img15.jpg

少年A 矯正2500日 全記録 第7章 退院 草薙厚子 P.45

神戸市須磨区大池町、須磨署の三階にある八畳の「少年室」(保護室)に、無表情で、抜け殻のようにぐったりした少年Aの姿があった。

△TOP

10、少年法

未成年者が凶悪犯罪の加害者になる。きれる17歳・・・と言う言葉が流行した2000年。この年に未成年者がひきおこした事件が続発した。

その度に問題になるのが「少年法」だ。

少年法

犯罪を犯した時に18歳未満であった少年の量刑に関して、51条1項は、死刑をもって処断すべき場合は無期刑にしなければ「ならない」とする。そして、同条2項は、無期刑をもって処断すべき場合でも、10年以上15年以下の有期刑することが「できる」とする。2014年の改正で無期懲役に代わって言い渡せる有期懲役の上限が20年以下に、不定期刑も「10年~15年」に引き上げとなった。(第186回国会、可決日2014年4月11日、公布日2014年4月18日、施行日2014年5月7日)

未成年者でも19歳、18歳に達した少年には「死刑」が科せられるケースがあるという事だ。

淳 Jun P.100

そうだとすれば、淳は顔をよく知っている誰かに連れ去られ、こんな目にあったものしか、私たちには考えられませんでした。私たちは、こうつけ加えました。 「だから、その犯人が大人であるとは思えません。淳は相手が顔見知りでも、それが大人だったら、誘われても決してついていかない子でしたから・・・」 妻は、その時はハッキリいいませんでしたが、犯人は高校生以下の子供の可能性もあると、強く感じていたようでした。 しかし、一方で私は、 「淳を殺害した犯人は、せめて二十歳以上の人間であって欲しい」 と、心から願っていました。なぜなら、犯人が子供であれば、罪に相当する罰を受けることがないと分かっていたからでした。

自分の子どもを残忍な手口で殺された父親の偽らざる心境の吐露であろう。

淳 Jun P.120

私たちは、犯人逮捕についてはホッとしましたが、犯人が十四歳の未成年だったこと、そしてなによりA少年だったことで、なんとも表現のしようのない感覚になっていました。 怒りと虚しさ・・・これで犯人が死刑になることはない、いやそれどころか通常の裁判すら受ける事がない、そう思うとどうしようもなくやりきれない感情がこみ上げてきました。 もちろん、少年法について、その時、詳細を知っていたわけではありません。しかし、常識として、 「この国ではA少年が罪に応じた罰を受けることはない」 それぐらいのことはわかりました。

何しろ、刑事罰を科せられる事がないどころか、刑事裁判もなく、家庭裁判所の審判それも非公開で加害少年の処遇が決定されるのだから被害者の遺族はまったくの「蚊帳の外」甚だ理不尽な扱いとなる。

淳 Jun P.169

この国では被疑者・被告人の権利は法律により保障されており、被疑者・被告人の人権及びプライバシーは法律によって極めて手厚く保護されています。 特に被疑者が少年の場合、少年法によりされに手厚く保護されています。すなわち、

家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴に提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が該当事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない
とされれています。

それに対し、この国では被害者やその家族の人権やプライバシーは全く保護されていないといえます。私にはそうとしか思えません。

このページの締めとして土師守さんが事件発生後一年経った時に認めた簡単な手記を掲載する。

淳 Jun P.177

淳が亡くなって一年が経過した1998年05月24日、私は新聞社の求めに応じて簡単な手記を代理人の井関弁護士、乗鞍弁護士を通して発表しました。以下はその全文です。

<「淳」が亡くなってからはや一年という時間が過ぎてしまいました。1997年05月24日という日を、私たちは一生忘れることができないと思います。
あの日、午後01時40分頃、「淳」は、「お爺ちゃんとこ行ってくる」の言葉を残して、私達家族の前から永遠に姿を消してしまいました。
一年が過ぎたこの時点で、私達家族の生活は一見はかなり落ち着いてきたように見えるかと思います。しかし、実際には、少しは良くなってくると思っていました。しかし、「淳」をあのような状況で失ったことに対して、私達家族の悲しみは治まるどころか、増大してきています。
少年法の基本的な精神には私も賛同しています。非行を犯した少年の保護、更正を考えることは重要なことだと思います。しかしながら、被害者が存在するような非行、特に傷害、傷害致死や殺人などの重大な非行と、他の軽微な非行とを同列に扱うことは許されることでないと思います。非行少年に人権がある以上に、被害者には守られるべき人権があると思います。

憲法では、裁判は公開が原則です。被害者がいないような非行の場合は、状況も加味して非公開でも良いと思いますが、当然のことながら被害者の存在するような非行の場合は、少なくとも被害者側には公開すべきだと思いますし、被害者側は知る権利があると思います。
少年も一つの人格を持っています。人格を持っているということは、成人と同じではないにしても、自分の行動に対しても社会的に責任を持たなくてはいけないということです。成人の犯罪の場合よりは軽減されるにしても、非行の重大さに応じた罰や保護処分があって当然だと思います。非行少年を、甘やかすことと保護とは同義語ではないと思います。
あの忌まわしい事件が起きてから、一年が経ちました。私達にとりましてはあっと言う間に過ぎてしまったように思います。季節が変わり、周囲が華やいだ雰囲気になっても、私達のこの深い悲しみは一生消えることは有りません。
この悲惨な事件を教訓にして、私達のように悲嘆にくれる者が出なくなるように、この国が変わっていくよう心より願いたいと思います。平成10年05月24日>

NHKクローズアップ現代 2004年4月27日(火)放送

神戸小学生連続殺傷事件を起こした元少年の仮退院に際し、法務省は遺族の土師守さんの訴えに応じて初めて仮退院の時期と居住先を知らせた。異例の対応を実現させたのは犯罪被害者の権利がほとんど認められていない少年司法制度の問題を訴え続けた土師さん自身だった。

神戸連続児童殺傷事件が発生した1997年(平成9年)。酒鬼薔薇聖斗は家庭裁判所での5回の審判で医療少年院送致が決定した。裁判もなければ、刑事罰(死刑や懲役)もない。それから矯正教育を受けた7年後、21歳の2004年(平成16年)Aは仮退院し、市井の人となった・・・筈だった。

改正少年法

改正少年法は、2000年11月末に成立。2001年04月より、刑事処分適用年齢の16歳から14歳への引き下げ、家裁が被害者に事件の意見聴取、審判結果の通知を行い、記録の開示等を認めること、16歳以上の故意犯による死亡事件は検察官送致され、刑事裁判を受けること(保護処分が適当な場合を除き)等が改正された。

△TOP

11、民事訴訟

淳 Jun P.136

少なくとも、真っ先に私たちの前に両親はやってくるべきだったと思います。それが、人間として、最初にやるべきだったと思います。
私は、A少年とA少年の両親に対して民事訴訟を起こすことにしました。
それは私たちが
事件の背景や少年審判の中身を知るためでもあり、そして責任の所在を明確にするためでもありました。
もちろん少年は医療少年院に入所しており、事件としては一応の終了となっています。
しかし、被害者側の立場からすると、事件は何も終わっていないのです。
本当の意味でいったい誰に責任があるのか、またどのようにこの事件の責任をとるのか、そういう肝心なことがうやむやになったままなのです。
少年の両親が少年を立ち直らせるということは、あくまで彼らが少年に対してその育成過程において、自らがおこなってきたことに対する「償い」でしかないのです。
「少年だから仕方ない」
「少年の更生のためには、被害者にも事実を知らせてはならない」
これでは、被害者は、犯罪被害を受けたうえに、法律のうえでも虐待されているという二重の被害を受けていることになります。
この少年がなぜにかくも凶悪な犯罪を犯すに至ったのか、それに関して、少年の両親の関与は実際にはどのようなものであったのか。
また、犯行時の少年、および両親の状況は漏れ伝わっているようなことが事実なのかなど、実際にはほとんど何もわかっていないのです。
私は弁護士の井関先生と乗鞍先生に相談したうえで、民事訴訟でその真実を知ることにしました。
淳が命を絶たれなければならなかった理由を親として、きちんと把握し、そのあとで淳に報告しようと思っています。

ウィキペディア 神戸連続児童殺傷事件

1998年(平成10年)8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年(平成11年)3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。 このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで...父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、内容が少年Aを終始擁護する記述であったため、被害者側は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

△TOP

12、おわりに

今月号の月刊 精神分析は、神戸連続児童殺傷事件の被害者、土師淳君の父親、土師守さんの手記「淳Jun」を資料として構成しました。

被害者遺族側からみた少年法の理不尽さと深い深い悲しみが痛いほど伝わってくる内容でした。

少年A一家と土師さん一家は同じ地域(神戸市須磨区友が丘)で子どもを育てる住民同士であったのですが、その関係性は一夜にして「加害者家族」と「被害者家族」に変わり、日本中がその動向に関心を向ける対象となりました。

結局、少年Aの両親からは紋切り型の謝罪の手紙(内容は他の被害者と一言一句全く同じ)が一通来ただけで、土師守氏は謝罪を受け容れる事ができず、後に民事訴訟を起こす事になります。肝心の「なぜこの様な事件が起こってしまったのか?両親の子育て方法や少年Aの育成環境に問題がなかったのか?」と言う疑問について明解な答えがでるわけでもなく、「淳 Jun」の出版後、半年して1999年04月「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 の出版となります。結局、上記の本に関しては少年A側の自己弁護的な記述が多く、土師守さんは不快感を顕にします。おまけに、本の印税は民事訴訟の賠償金になるわけで、土師守さんにしてみれば「踏んだり蹴ったり」の心情であったと思います。

興味関心の対象としての大事件も、時が経てば、だんだん忘れさられていく筈だったのですが、少年A、いや元少年Aが18年の沈黙を破り「絶歌」を出版する事により、今再び世間の注目を集める事となりました。

18年も経って気持ち的に「一区切り」的心情であった土師守さん。しかし、唐突に、事件被害者になんの断りもなく、いきなり「絶歌」の出版。出版元の太田出版に対し、出版中止を求める事となりました。
img24.jpg

「淳 Jun」と「絶歌」を並べると、本の印象もそっくりな感じで、被害者側と加害者側の出版物が似たような装丁なのは・・いいのかなぁ・・と無関係の私が心配になる程。
18年前は「少年法」、今回は「出版、表現の自由」と言うやらかし得の法律を盾に好き放題にされているち言う印象。

子供の殺人ゲームを催し、医療少年院で7年にも及ぶ去勢教育を受けて、世間に放たれた元少年Aが何を言いたいのか?

次号で再び考察します。

ご意見ご感想は
lacan.fukuoka@gmail.com
でお待ちしています。

平成27年07月31日

月刊 精神分析 編集部A

△TOP

13、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



より大きな地図で インテグレーターマップ を表示

 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

△TOP

付録0、淳君お葬式マップ

淳君の自宅:654-0142 神戸市須磨区友が丘9丁目2603-89 北須磨団地I棟
須磨警察署:654-0026 神戸市須磨区大池町5丁目1番30号
西神平安祭典:651-2277 神戸市西区美賀多台9丁目2番1号

△TOP

付録1、少年Aの挑戦状

カクカクとした書体と赤文字が奇異な雰囲気を醸し出す少年Aの挑戦状。私が初めてこの文面を目を通した時に「ん?」と思ったのは「夜空を見るたびに思い出すがいい」フレーズ。たしか、カーバイオレンス映画の「マッドマックス(1979年公開)」の劇中で悪役のボス:トゥーカッターがナイトライダーの亡骸の前で発するセリフだった筈。

この文章を書いた人物は、かなりサブカルチャーの影響を受けていると思った。

ベータ対VSHのビデオテープ規格戦争で火花を散らしていたのが1980年代で、レンタルビデオ屋の棚に人気タイトルとして並んでいたのが1979年公開のマッドマックスシリーズ。
「さぁゲームの始まりです」も探偵漫画のセリフ。

少年Aの両親が見合い結婚したのが1980年。従って、少年Aが誕生した世界は、バイオレンスだのホラーだの、おどろおどろしい映像文化が街に溢れている世界だったのだ。

少年Aは直観像素質者であったと言う報道もあった。少年Aは、かつて自分が観た映画や漫画、テレビの中から、印象に残ったフレーズを並べてツギハギの挑戦状を作ったのであろう。これも彼の作品の一つであって、自己顕示と事件捜査のかく乱と両方を成立させる「意味」があったのだと推測できる。

img20.jpg
・第一の挑戦状 1997.5.26?(中3)

<封筒>

酒鬼薔薇 聖斗 

ボクの名は酒鬼薔薇聖斗
夜空を見るたびに思い出すがいい

<淳君の口に挟まれていたという感熱紙の封筒の中に入っていたもの>

さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを

-----------------------------------------------
・第二の挑戦状 1997.6.2(中3)

(1枚目)

神戸新聞社へ

この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名前を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

最後に一言

この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名前が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね。ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今度一度でもボクの名前を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

――――ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている――――

(2枚目)

P.S 頭部の口に銜えさせた手紙の文字が、雨かなにかで滲んで読み取りにくかったようなのでそれと全く同じ内容の手紙も一緒に送る事にしました。

△TOP

付録2、医療少年院送致決定時の土師守氏コメント。

1997年平成09年10月17日

淳 Jun P.148

この度、犯人の少年に対する保護処分が決定されました。形の上では、一応最終的な判断が示されましたので、この事件の社会的反響も考えますと、この機会に私共も何らかのコメントをした方がよいのではないかと思い、弁護士とも相談の上、筆をとりました。 まず最初に今回の決定に対してですが、私達被害者の心情というものを除いて、現在の少年法に照らして考えた場合、妥当な決定であり、公表された内容を見ますと井垣裁判官の誠意にあふれた対応や、また苦労されたであろうことは非常によく理解できました。しかしながら、それは現在の法律に沿って理性的に判断した場合のことです。私たち被害者の本当にやりきれない心情を想像して下さい。犯人の少年は、純粋で疑うことを知らない私達の子供を殺害しただけでは足らず、さらに酷いことをしたのです。 そのように残酷な犯罪を犯しながら、犯人が十四歳の少年という理由だけで、犯した罪に見合う罰を受けることもなく、医療少年院に暫くの間入所した後、前科がつくこともなく、また一般社会に平然と戻ってくるのです。 この事件に相前後して、同様の残酷な事件が発生していますが、これらの事件の犯人は精神的には幼稚でも、ただ実年齢が二十歳を超えているということで実名も出ますし、また例え犯人に人格的な障害が存在しても責任能力があると判断されれば、それなりの罰も受けるだろうと思われます。 私は少年法の精神は尊重すべきであると考えています。しかし事件によっては、加害者ばかりを優先した審判ではなく、被害者の心情をより考慮した審判がなされてもよいのではないかと思います。 以前から思っていたのですが、法律により犯人がその人権およびプライバシーを極めて手厚く保護されているのに対し、被害者およびその家族の人権やプライバシーは全く保護されていません。今回の事件においても、報道の名のもとに、悲しみのどん底に突き落とされた私たち家族の人権やプライバシーは蹂躙され、通常の生活さえもままならない状況が長く続きました。その上に、私たちの心に受けた深い傷を、さらに広げようとでもするかのような心ない報道も多数みられました。 私たち家族は、最近やっと少し落ち着きを取り戻してきてはいますが、子供を失った深い悲しみからはいまだに立ち直ることができない状態です。マスコミの方々には、私たち家族の心情を察して頂き、そっとしておいてほしいと、切にお願い致します。

 平成九年十月十七日 土師 守

△TOP

付録3、少年A仮退院時の父と兄へのインタビュー記事

神戸連続児童殺傷事件の被害者家族インタビュー

「大切なこと」

酒鬼薔薇聖斗の被害者家族神戸連続児童殺傷事件の7年後、2004年(平成16年)に関西テレビで放送された『ザ・ドキュメント』は少年Aの仮退院と被害者家族の7年間が綴られていました。

罪の意味 -少年A仮退院と被害者家族の7年-

1本の電話が医師・土師守さんのところにかかってきました。息子を殺した少年が医療少年院から仮退院したことを告げる電話でした。

神戸市須磨区友が丘、7年前の5月24日、タンク山と呼ばれる山で小学6年生の男の子が14歳の中学生に命を奪われました。殺された男の子は土師淳くん。淳くんには2つ年上の13歳の兄がいました。

【兄・巧さんのインタビュー】

「どうしても寝る時に思い出したりするので・・・まぁ多少寝つきが悪くなった程度ですね。部屋の電気を消したら、ふと出てくるっていうか・・・夢でも出てくることが、まぁ結構あるから、なるべく夜遅くまで起きて・・・」

「だから睡眠はすごい嫌いなことのひとつですね」

兄の名前は土師巧(はせさとし)今、20歳です。5月24日土曜日、あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気でした。祖父のところに行くと出た弟が帰って来ず5時頃になり、心配になってきた自分は自転車で探しに行きました。2~3時間探して、ふと「戻っているのでは」と思って家に帰りましたが、弟は帰っていませんでした。父たちが探しに行っている間、家で「なんでこんなに遅いんやろう」そう思いながら待っていました。事故とか嫌なことは考えないようにしていました。

5月27日火曜日、学校に行こうとマンションの下まで降りたところで父が厳しい表情で「今日は学校に行かなくていい」と呼びに来ました。その時の表情を見て「何かあった」と感じました。でも、それ以上のことは考えたくありませんでした。

弟の行方がわからなくなった3日後、兄の通う中学校の校門で首を切られた弟の頭部が見つかりました。その後、弟の体はタンク山のアンテナ施設で見つかりました。顔は傷つけられ、口には酒鬼薔薇聖斗と書かれた挑戦状が残されていました。

【当時の兵庫県警捜査一課強行班係長・武田秀一警部のインタビュー】
・事情聴取されている時のご家族の様子っていうのはどんな感じでしたか?

「奥さん、これについては約2週間ほとんど話も聞けない状態。お兄ちゃんの巧くん、これについても閉じこもり状態で話を聞けない。だから先生(父・守さん)が代表して、しばらく落ち着くまでは私が話すから、女房・子どもには色々話を聞かないでくれと」

「事件後、確か約2週間ぐらい経ったころと思います。状況的にも捜査は・・・これがおかしいとか色々ありましたんでね、その中でどうしても・・・巧くんが知ってる中で淳くんをこのような被害にあわせる犯人、そういうの心当たりはないかという形で話を聞いておりますが・・・どういう状況かといいますと、まだ正常な状況じゃないですね。本当に話がぽつんぽつんと単語的に話すくらいで、なかなか向こうから文章的に言葉が返ってくるようなことはなかったですね」

【父・守さんのインタビュー】

「はっきりいって現実のこととは思えないような状況だったですね。まぁほんと映画の中のワンシーンといいますか、なんか夢を見ているような状況で・・・足が地についてるとはいえない状況だったっと思います。まぁそれは現実なんだろうなというふうに理解しつつも、それを違うと思うような別の自分がいて・・・そんな感じの状況ではなかったかと思います」

【1ヶ月後の6月28日の警察会見】

「被疑者は神戸市須磨区居住の中学3年生A少年・男性・14歳です」

「顔見知りと承知しております」

過去に例のない凶悪な罪を犯した14歳の少年は少年法の精神に則り、一般社会から隔離されます。その一方で被害者の家族はクローズアップされていきました。

【父・守さんのインタビュー】

「あの日、須磨警察から帰ってきて、当然、前の道も全部渋滞してる状況ですけども、帰ってきた時点でマスコミ関係者も待ち構えてたわけですよね。その前のマンションからはカメラで狙われているのが一目瞭然でしたんで・・・ずっと、こうカーテンを閉め切ったままの状況が、結局7月半ばくらいまで続きました」

・その状況をどういうふうに思ってはりましたか?

「なぜ被害者がここまでされなければいけないのかっていうのは非常に疑問に思いましたけども、本当に異常な状態ですから・・・」

【当時の兵庫県警捜査一課強行班係長・武田秀一警部のインタビュー】

・巧さんの印象というのはどういうふうにご覧になりましたか?

「部屋が(淳くんと)一緒でしたからね。一緒の部屋で寝て、一緒の部屋で勉強してましたのでね。そういう弟が突然いなくなるわけですからね。寂しいということと、常になんせ外に出ていく時は一緒に出て行ったような状況ですからね。寂しいと・・・」

兄弟が机を並べていた子ども部屋。言葉の遅れていた弟は、努めて声をかけてくれる兄のことを「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と慕っていました。

【兄・巧さんのインタビュー】

・淳くんがいなくなって、どういうふうな思いで過ごしてたんですか?

「・・・・・・何も頭がすごく考えようとしなかったし、それと同時にごちゃごちゃとしていて、まぁただ、すごい気分悪くて、何をしていいんか分からなかったし、いまだに思い出せないくらい・・・なんか・・・まぁ感情が渦巻いてたっていうか・・・・・・ただ、つらかっただけとしか言いようがないです」

少年Aが奪ったものは弟の命だけではありませんでした。どんなに心許せる友人にも、これまで事件について話したことはありません。通りかかった漫才(ストリート漫才に遭遇)は偶然にも相次ぐ少年犯罪の匿名報道についてでした。

【兄・巧さんのインタビュー】

「まぁギャグはギャグなんて割り切り方ができるので楽しめましたけど、たぶん昔に見ていたら、やはり、そう軽々しく扱うなと怒っていたと思いますね」

「まぁ言うなれば自分から壁を作ってたと思うんですけど、やはり何も理解してもらえないというすごい壁を感じたんで・・・まぁ世間はすごく冷たいものだというのが分かりましたし、もう友だちを同じ目で見ることも出来なくなったし、同じ目で見てもらえることもなかったとは思いますし・・・やはり耐えられないものってやっぱりできてきたんで。まぁもともと相手も通っていた学校だし、すごく嫌だなあって・・・」

弟を殺した少年は同じ中学の上級生。しかも、同じ卓球部に籍を置いていました。

【神戸大学付属病院精神科・田中究医師のインタビュー】※事件後かけつけた精神科医師(児童精神医学が専門)

「はにかんだような・・・少し、こう・・・笑みを浮かべて来られたんだけど、でもこれは、すごく気をつかってらっしゃるんだなぁということが分かりました。それは、そんな状況の中でそういった大きな事件を被った中で、笑みを浮かべるというのはすごく大変なことだと思いますし、そのために随分なエネルギーを使っているんだろうというふうに、その時は思いました」

・当時はもうすでに学校には行けてなかった?

「それが事件の現場でしょ?そこに行けるということの方が不思議ですよね」

 事件後、兄は学校に行きにくくなりました。担任教師が気づかい、頻繁に様子を見に来てくれましたが、3年生になってからは、ほとんど行くことができませんでした。「高校には行った方がいい」そう考えた父は、せめて家で勉強ができるよう家庭教師を頼みました。

【兄が通っていた学校の岩田信義校長(当時)のインタビュー】

・学校としてできることっていうのはないんですか?

「家に行って教えるとかね。まぁある意味では善意、極端な言い方をすると先生が勤務時間は学校で仕事をせないかん、あるいは部活の指導もせないかんし、翌日の教材研究もせないかん、たいがい夜になってから行くことが多いですけどね。まぁ家庭訪問してなんとか頑張って無理に出席日数をかせがせる場合もあるし、相手次第では勉強を具体的に・・・数学だけでもちょっとやってみようかとか、そういう場合もありますけど、実際に今の学校のシステムの中でそういうことを必ずやれということになると、ものすごく先生がしんどい、負担ですね」

【神戸大学付属病院精神科・田中究医師のインタビュー】

「支えになれるようなことができないだろうかというふうに思った人たちは少なくないと思うんですね。ところが、そう思ってもなかなか行けないということ。それで、実際に私のことを覚えて下さってるとすれば・・・(溜息)そういったサポートがとても足りなかったんだろうというふうに思うわけですね」

事件は家庭裁判所での非公開の審判に移されました。父は審判に出席して意見を述べたいと要望しました。しかし聞き入れられず、家族は蚊帳の外に置かれたままでした。さらに当時の少年法では16歳未満は刑事処分とはなりませんでした。そのため、少年犯罪史上もっとも凶悪な事件を起こしたこの少年も保護処分となり、医療少年院に送られることになったのです。

【当時の兵庫県警捜査一課強行班係長・武田秀一警部のインタビュー】

「色々くやしい思いはされていたみたいですね。名前が出ない、色んなことで質問にも答えてくれないと。で、それについては私の方から少年法とか色んなことがあるから、私の方が色んなことを教えてやりたくてもできないことはできないんやということを最初言いましたら、それ以後、そういう少年法の問題とかですね、自分のくやしい思いとか、それについては私にはもう、問いかけてくる質問してくるようなことはありませんでしたね」
父が審判への立会を求めたのは、少年と直接向き合い、事件がなぜ起きたか知りたっかったからでした。現実を受け止めるためにも必要なことでした。しかしその希望は叶えられず、父の心から少年に会う意思は失われました。そして少年Aもまた、被害者の苦しみを正面から受け止める機会を失ったのでした。

一方、国会では事件をきっかけに刑事罰を科す年齢を引き下げる動きをみせていました。父も参考人として出席しました。

【父・守さん】

「犯人が14歳、まともな裁判もないし、まともな罰も当然受けないし、殺された上に犯人に対する罰もろくにない。それで私たち被害者遺族が納得できるはずもない。そしてこの悲しみってのは絶対に1年やそこらで収まるもんでもないですし、こういう犯罪で失くした遺族っていうのは、まず一生この気持ちからは逃れられないというふうに思っております」

【父・守さんのインタビュー】

「たぶん大人であればね、2人の人間殺して1人は大怪我負わせて、それ以外の軽傷を負わせている人もおるわけですから、当然これに対する罰っていうのは非常に厳しいものになると思うんですけど・・・」

「それから比較すると納得するわけがないですから。一応日本は法治国家ですから、その法の中でやっていくしかない。で、問題があるところは皆で変えていく方向に持ってかなければいけないというふうに思いますね」

反社会的価値観や性的サディズムがあるとされた少年A。少年院ではその治療と矯正教育が始まりました。少年Aのために精神科医や法務教官らが特別処遇チームを作り、赤ちゃんを包み込むような対応に努めました。次第に少年は「死にたい」一辺倒から「社会であたたかい人間に囲まれて生きたい」と思うまでに変化したといいます。

【神戸大学付属病院精神科・田中究医師のインタビュー】

「私が見ていた少年たち、患者さんたちの中で少年院に行った人たちっていうのを何人か見てるんですね。で、彼らは少年院の中でとってもいい体験して帰ってくる。自分の感情を初めて話すことができたとかいうふうにすごくポジティブに捉えてる人たちだったんですね」

少年Aの更生が公費で取り組まれる一方で、兄には一切の公的支援はありませんでした。出席日数も足りず、公立高校への進学は絶望的でした。心に重い傷を負った兄を3年間、父が遠くの高校まで毎日車で送る日々でした。家族の力しか頼るもののない日々でした。
【兄・巧さんのインタビュー】

「更生してくれるようなら結構なことだとは思いますけど・・・・・・まぁ内心は、まぁどうして・・・弟はあんな目にあわされたのに相手側はのうのうと生きれて、社会的に保護されていて、まともな生活ができるのかなと思いますけど」

「もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、しょせん言い逃れに過ぎないと思ってますね」

「被害者には何の権利もなくて加害者に対してはすごく守ってくれるっていう・・・まぁ法律ではそうなってるのは分かってるんですけど、やはり法律は正義じゃないと思いました」

なぜ被害者が救われないのか、被害者自身が声を上げ始めました。全国犯罪被害者の会では被害者自身が刑事裁判に参加できるよう署名活動をしています。父は大人の裁判が変わらなければ少年審判も変わらないと考えて、署名活動に参加しました。

加害者が法で守られているのに、なんの手助けもない被害者。犯罪被害者の会の定例会では講師の弁護士に率直な質問が相次ぎます。

Aさん「刑務所で真面目にやりはったとかどうのこうのいうて出所させますわね。でも我々被害者にとっては全く分かれへんやんか。その中身っちゅーのは我々知ろうと思ったら知れるわけ?」弁護士「どういう判断でもって出所させたのかについては情報公開で出てくるのかどうかっていってもかなり難しいと思いますよ」A「情報公開はしてほしいな。被害者としては」弁「ただ、今言われている問題点については我々も全然議論してませんのでね」Bさん「満期になる前に出してあげくに、まぁ仮出所期間中に何かをすればどうなるんでしょうか?」弁「あのね、今の日本の社会が持ってるね、処罰の枠組みというは基本的には個人責任です」B「個人の責任は当然分かるんですけど、国家の権力として仮出所させてるわけですよね?」Cさん「そこらの責任感、わしらにとってはみんな何もない、日本社会のこういう、加害者に対するあれがあるからみんな怒ってるんですよ。出所状況も分からない、更生しても報告がないし、裁判にも関われないし、ということが全部溜まっていくから、無責任社会やっていうねん」

【父・守さんのインタビュー】

「自分が犯したことの酷さ、残忍さにしろ、被害者にどのような思いをさせたかということをきちんと、まぁ理解させるっていうことだと思うんですけどね。その上で理解した上で反省しなければ更生の「こ」の字にもならないと思うんですけど。ところてん方式で今までの少年っていうのは出してきたわけですから。そこは教育をしたってことが重要であって矯正教育を行ったっていうことが重要であって、実際にそれは更生されたかどうかっていうことは重要ではないというのが、今までの状況だと思いますから」

そんな父の姿を見ながら兄にはまだ迷いがあります。「法律を変えても意味がない」と当初、父親の活動にも反対していました。進むべき道も見つからず、高校卒業後、しばらくは専門学校に通ったものの惑い続けていたのでした。

【兄・巧さんのインタビュー】

「漠然と・・・何をしていいのか、その当時も全然分からなかったし、日々もしたいことだけするみたいな、先のことは全然考えてなかったですね。まぁ勉強っていうのは必要なものだったとは思ってたんですけど、人の人生っていうのはすぐころころ変わるものですし、それに気付かされたんで、勉強しても意味がないみたいな・・・」

兄が悩み続けている時、少年Aは東北少年院に行き、溶接技術を習い、危険物取扱者など4つの資格を取得していました。社会復帰に向けた準備が着実に進められていました。

母は弟のための場所に花を絶やしません。両親は弟の墓参りを毎週続けています。ひまわりは弟の好きな花でした。

今、少年Aの周辺では少年の更生のために被害者に向き合わせたいと考えています。しかし父が向き合いたかった時期と、少年の周辺が適当と思う時期とはあまりにかけ離れていました。

両親にとってお墓は慈しんできた弟と向き合う大切な場所なのです。兄はお墓を見ると怒りで気分が悪くなります。「そもそも石の塊がなんなのか分からない」と言います。だから、週末のお墓参りには一緒に行きません。

【兄・巧さんのインタビュー】

・罪を償うっていうことの意味っていうのはどういうことですか?

「自分はあの時何もできなくて、これまで何もしてこなかったので、何もできなかったので、まぁ正直なところ、一生償えないとは思います。罪の意識があった方が弟の思い出は消えないので・・・自分でも罪は償えないと思います」

・巧くん自身にそういう気持ちがあるってこと?

「も、ありますね」

・どうして?

「やはりあの時祖父の・・・いまさらなんですけど、まぁ、あの時やはり一緒に出かけていれば・・・もしもという、自分がちゃんとしていればっていうのは、どうしても思ってしまうので。自分が守ってやることができなかったので・・・まぁそこが自分の罪だと思っています」

・そんなふうに思っていることを家族に話したことってありますか?

「(沈黙)・・・話したことはないと思いますけど、家族全員がそう思ってると思います」

5月24日あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気でした。「おじいちゃんとこ行ってくるわ」と出かけようとした弟に、自分は親との会話を中断して玄関まで見送りに行きました。弟は「行ってくるわ」といつものように笑顔で言い、自分は一瞬「一緒に行こうかな」と思いました。しかし中間テスト前だったため行くのをやめ、そのまま見送りました。これが弟を見た最後でした。

少年のプライバシー保護をうたう国は被害者にも少年の情報を伝えていません。しかし、事件の重大性と父の強い求めに応じて、法務省は仮退院前に少年Aの更生の状況を説明してきました。そして仮退院に関しては、当日電話で通知するという異例の約束をしたのでした。

事件から7年、治療成果を見るために少年Aと面会した外部の医師はハキハキとした礼儀正しさに作り直された人工的な印象を覚え、壊れやすい温室の花を想像したといいます。
【ナレーションにて会話再現】

・遺体を傷つけたことについては?

露悪的なことを言っていました。事実を曲げて言ったところもあります。血を飲んだ話は作り話です。でも頭部を切断したのは事実です。

・新聞社への手紙は?

異常な殺人者であることを定着させたかったんです。引くに引けませんでした。どこにも持っていけない怒り、社会や学校に対する・・・それを吐き出したいと思いました。

・死んでおわびするしかないと思ったことはありますか?

そう考えたこと・・・あります。淳くんのお父さんの書いた手記を読んで、自分は生きていて良いのかと思いました。

・淳くんへのつぐないは?

まずはお手紙を、お父さんに書こうと思います。会ってくれるのであれば会ってみたいと思います。

・あなたはずいぶん変わったけど、どういうことで自分が変わったと思いますか?

まず一番は、この少年院で話ができる精神科医の先生がいて、その先生と話をしていて心を開いて、色んなことを学ばせてもらったと思います。

【父・守さんのインタビュー】

「矯正教育が進んで改善してるっていうことの説明を受けました。何をもって更生という判断をしてるんかっていうのを一応質問したんですけども・・・難しいね」

この春、およそ70万人の若者が大学や短大に進学しました。新たなスタートとなる4月です。高校卒業から2年経ったこの春、兄は大学生になりました。そしてもう一つ新しいことに踏み出そうとしています。全国犯罪被害者の会の活動に参加するのです。東京の幹事会に出席する父について行くことにしたのです。

【兄・巧さんのインタビュー】

「自分は正直、力がない人間ですから何も。だからもしこういうのに入って、自分がそういうのの一端でも担うことができるならと思って。まぁ二十歳になりましたし」

【父・守さんのインタビュー】

「そういうことが考えることができる心の余裕ができたのかなと。まぁ上の子は僕より背高なったし、10cmほど低かったのが10cmほど高くなっちゃったんかな。時間は確かに経った。でも亡くなった子どものことを考えた場合、そんなに経ったって感じはほんとにしない」

【兄・巧さんのインタビュー】

「将来したいこととか多少見えてきたんじゃないですかね。それまでは全然分からなくて、こう自分・・・なんていうのかな、流されるままの人生だったような気がしたので、やはり変えたいなと」

【父・守さんのインタビュー】

「まぁ私たちのやってることを見て何も感じない、何も思わないということはそれはそれでいいと思いますし、それを見て自分なりに考えて行動を起こすというのも重要なことだと思いますので」

【少年Aの仮退院を告げる電話】

「あ、もしもし。あ、土師ですけども。はい、どうも」

「本日、先ほど関東庁拘置所の委員会の田中課長から連絡がありまして、本日関東医療少年院を仮退院をしたと午前9時5分に仮退院をしたという連絡が入りました。移住先は近畿地方ではないということで」

「それ以外のことは特に?」

「それ以外のことは、ご要望があれば仮退院のいきさつ等については、後日ご説明をしたいと。すべてを説明できるかどうかは分からないけども、説明をしたいと。時期、場所等についてはまだ未定ですと」

【会見】

「本日午前中、いわゆる神戸連続児童殺傷事件の加害男性について、関東地方更生法委員会において仮退院許可の決定を行い、これに基づき本人は仮退院しました」

父は一度も記者会見を開いたことがありませんでした。息子の命を奪った少年が社会に戻ってきたこの日、父は初めての記者会見にのぞみました。

【父・守さんの記者会見】

「特に私たちの事件っていうのは非常に、まぁ特異な事件であったということもありまして○○*1も含め開示していただきましたけれども、少年事件でも、まぁ成人の事件と同じように○○情報、まぁ居住地情報ですね、少なくともその手の開示は、やはりしてほしいと思います。ですから私たち子どもの事件だけではなくって、他の少年事件全般に対してそういう制度を早急に作って欲しいというふうに思っています」

【兄・巧さんのインタビュー】

・お父さんっていうのはね、納得しているように見えましたか?

「納得してたら、ああいうことはそもそもしてないですし、まぁとてもやりきれない思いっていうのをすごい抱えているんだな・・・十分に伝わりますし。よくまぁあそこまでできる人だなぁと自分の父ながらすごい思います」

「ずっと気持ちを踏みにじられて続けてて、耐えに耐えた上でようやくとれた小さな成果だと思います。まぁ小さいけど、すごく大きい一歩だと思ってます」

少年Aは今年12月31日、正式に少年院を退院。自由の身となる予定です。家族にとって新しい苦悩のはじまりでもあります。

*1:聞き取り不能

△TOP