完全無欠ダイエットタイトル画像

1、はじめに

みなさん、こんにちは、月刊 精神分析 編集部Aです。

さて、今回の月刊 精神分析のテーマは「清原和博 覚せい剤 事件」です。

現在、52歳の私からすれば「清原和博」と言えば、桑田真澄氏とPL学園(1983年)のKKコンビの甲子園(高等学校野球選手権大会)の大活躍。その後、巨人入りを熱望していた清原を袖に大学進学を表明していた桑田をドラフト1位に指名した「巨人ドラフト清原裏切り事件」。埼玉西武ライオンズに入団(1986年)した後のライオンズ黄金時代の活躍、ちなみに当時の現役選手は、3番センター秋山幸二(前福岡ソフトバンク監督)4番ファースト清原和博(覚せい剤所持現行犯逮捕)9番キャッチャー伊東勤(千葉ロッテマーリンズ現監督)ピッチャー工藤公康(現福岡ソフトバンク監督)・・とそうそうたるメンバーが並ぶ。西武の留意を蹴って移籍した東京読売巨人軍(1997年)でのダイヤモンドピアス不振。仰木監督の男の花道オリックス・バファローズでの引退・長渕剛、2008年10月1日など。

長きに渡って、陽のあたる世界で、トップスターで、うん億円プレーヤーで、豪邸(東京都渋谷区広尾2、ラ・シテ広尾216)に住んでいて、綺麗な奥さんがいて、二人の子供がいて、人も羨む何不自由ない生活を送っている筈の清原さんに、なんで唐突に「薬物中毒」「覚せい剤」が出てくるの?って思われる方も多いと思います。バブル経済の絶頂期から失われた20年に日本において、最も世間の関心を集め、ここぞという時に華々しい活躍をして来た清原選手の生き様を精神分析的視点で語ってみましょう。
img09.jpg
ご意見ご感想は

lacan.fukuoka@gmail.com

でお待ちしています。

2016年平成28年02月29日

月刊 精神分析 編集部A

参考文献
完本 清原和博(文春文庫)
男道 清原和博(幻冬舎)

既刊の月刊精神分析シリーズで依存性関連をテーマにしたのは以下の2号です。

2009年08月号 酒井法子覚せい剤所持事件と分析理論
2010年02月号 依存症とは(覚せい剤など)

△TOP

2、ブラックスキャンダルと清原和博

img10.jpg先日「ブラックスキャンダル(原題:Black Mass)」と言う映画(米国)を観た。派手な爆破シーンやアクションシーンがある映画ではなかったが、悪巧みをしてつるんでいる輩が、自分達に都合の悪くなった人々を次々に簡単に殺し、金を稼ぎ、ふてぶてしく過ごしている様が描かれていて精神的に気持ち悪くなった。なんとも嫌な後味の映画であった。実話を元にしているとの事で、腐敗した米国ボストン南部(1970年代)が舞台、FBI捜査官と上院議員と、アイリッシュ・マフィアのボスが結託・腐敗している様子が描かれている(上院議員とマフィアのボスは兄弟)。

時節柄、違法行為をしながら世間を欺き、表の顔と裏の顔を使い分け、何食わぬ顔をして生活している主人公達と、逮捕され警察車両の後部座席で囚われの身となった清原和博容疑者の顔が重なって見えた。

映画の主人公達は、地元の遊び仲間(ホモソーシャル)が、いい大人になっても、社会規範より、ホモソーシャルを優先し、宜しくやっている風情を描写しているわけで、子どもっぽい関係性の継続を描いているとも言えます。

前置きはこの位にして「男道 清原和博」などを資料として彼の精神構造を考察していこう。

△TOP

3、清原和博の養育史

精神分析学では、養育史を重要視する。特に0歳から3歳までの養育環境は、その人の人格形成に多くの影響を及ぼすとされる。

清原和博容疑者の場合、その華々しい経歴からネット検索すると沢山の情報が出てくるのだが、彼の人生=野球人生であり、岸和田リトルリーグ以降の話はフンダンにあるのだが、乳幼児時代の母子関係の話は殆どでてこない。ただ、清原和博容疑者には勉強がよくできる「姉」がいた事、清原和博容疑者と同様にPL学園高等学校に進学した品行方正な「弟」がいた事、清原和博容疑者は4200グラムで誕生で、そもそも体格がよかった、そして、周辺の池や空き地で毎日どろんこになるまでガキ大将として遊んでいた事、仕事で忙しい両親よりも父方の祖父が清原容疑者の養育にあたったと言う事・・その位の情報しかない。

気になる事としては、清原和博容疑者は岸和田リトルリーグ入団以降、厳しい団体生活規範の中で生活しており、常に厳しい上下関係の中にあったことと、いわゆる第二次反抗期的事象がみあたらない事・・・誰かがテレビインタビューの中で清原和博容疑者の事をこう称していた「彼は幼い頃から野球エリートとして生活しており、そもそも"番長"なんて言うキャラは彼の有り様からはまったく違うもの」つまり、自己アイデンティティの分裂だ。

「蝶よ花よ」ではなく、「天才野球少年」「10年に1人の逸材」「プロで通用する」そう言った特別な環境の中で小学校低学年から西武時代まで挫折を知らずに生きてきた清原和博容疑者の心の構造は如何なるものなのだろうか?

清原和博容疑者の「挫折」と言えば、世界の王選手に憧れ、読売巨人軍に憧れ、毎日毎日練習に明け暮れ、一人で電車にも乗った事がなかった若者が、日本野球機構(日本野球連盟)と言う大人社会に読売巨人軍清原和博と言う自己アイデンティティが潰されたあの「運命のドラフト会議」だけではないだろうか?「第1回選択希望選手 読売 桑田真澄 17歳 投手 PL学園高校」 ・・・。

img24.jpg

本来なら、髪を染めるとか、ピアスを付ける、入れ墨を入れる、他者を威嚇するなんて中学校から青年期に自我が芽生えた時にでてくる欲求で、清原和博容疑者の場合、FA宣言して読売個人軍に移籍(1997年:30歳)して自分の努力だけではどうにもならない壁にぶちあたって、本来の反抗期を迎えたかのようだ。もちろん肉体的にはアスリートとしては下り坂に差し掛かるわけで・・現実に巨人に移籍してからの清原和博容疑者は怪我に苦しめられ思うような成績が残せていない。

*ただし、喫煙に関してはPL学園高等学校在学中から始めていたとの事。

△TOP

4、清原和博容疑者の出身地(生活環境)

img03.jpg清原和博容疑者は、大阪府岸和田市の出身。岸和田市は、大阪府泉南地域に位置する市。岸和田藩の城下町を中心に発展してきた人口約20万人の特例市。泉南地域の中心都市でもあり、大阪府の出先機関や企業の支店などが集中している。岸和田だんじり祭で有名。行政の特徴として、永住外国人と国内在住期間が3年を越え満18歳以上で3ヵ月以上市内に住む「定住外国人」に住民投票の投票権(参政権ではない)を認めている。市のキャッチフレーズは「人がいき 地域が輝くまち岸和田」。面積: 72.24 km2。位置的には大阪湾を挟んで神戸市の対岸にあります。
img35.jpg清原和博容疑者の実家は「清原電気商会」(東芝ストアー)。息子(清原和博)は超有名選手でありながら実父は堅実に電気店を営んでおられる様です。実家は府道30号線「小松里(こまつり)交差点」のすぐ傍、阪和線「久米田駅」の至近距離にあります。

Googleストリートビューで周辺を散策しても、住宅と個人商店が点在しているどこにでもある日本の下町の風景。img02.jpg上の写真は、清原和博容疑者の出身小学校の和田市立八木南小学校。緑の多い環境で在校生がグランドで野球をしている。土地が低い為か川(牛滝川)、水路、沢山の池が点在している。img04.jpg上の写真は、清原和博容疑者がPL学園を入学前に毎日母親の自転車の伴走で走った貯水池「久米田池」

男道 P.72

母親はさらに僕に毎日20キロのランニングを課した。実家の近所に久米田池という貯水池がある。その周囲の土手を大回りすると約3.7キロ。それを毎日6周した。中学校の授業が終わって帰宅すると、母が待ち構えていて自転車で伴走するのだ。20キロのランニングを終えるまでは、夕食も食べさせてもらえなかった。放っておいたら、僕がどこかへ遊びにいってしまうと思っていたのだろう。シニアのチームは引退していたし、僕は何年も遊びに飢えていたので、その心配は正しかったのだが。秋も深まって日が短くなると、久米田池の周辺は真っ暗になる。最初は母親の自転車の後をついて走っていたのだけど、後ろから何かが追いかけてきそうで怖かった。それで自転車の前を走るようになった。すると、前に何かがいるような気がする。今度は、自転車の横を走るようにした。「あんたは、ほんとに怖がりなんやから」母親に笑われながら走った。あの暗い道を今でも時々思い出す。身長はもう185センチに達していたと思う。カラダは大きくても、母が心配したように、僕はまだほんの子供だった。白状するば、母親と毎日走るのは楽しかった。口ではぶつぶつ文句も言っていたけれど、毎日20キロのランニングを一度も辛いとは思わなかったいのは、母が一緒に走ってくれたからだった。

img05.jpg

上の写真が清原和博容疑者の実家「清原電機ストアー」どこにでもありふれた電気店でスーパースターの実家とは思えない。

男道 P.118-123

自分の両親について、誇りに思うことがひとつある。それは今の話よりも少し後、プロの球団に入団することが決まって大阪を離れるときのことだ。父が、僕にぽつりと言った。「和博、俺はな、一生懸命働いて1日1万円や。それだけは心してプロに入ってくれよ」多くは語らなかったけれだ、何を言いたいかはよくわかった。父は20年もそうやって1日1万円の仕事に汗をしながら、僕や家族を養ってきてくれたのだ。1日1万円のお金を稼ぐことが、どれだけ大変なことか。そういうことを、息子に忘れて欲しくなかったのだと思う。巨額の契約金を提示されたときも、両親は喜ぶよりもむしろ心配した。息子が金に踊らされるような人間になることを、恐れたのだと思う。ちなみにその運命のドラフト会議があった1985年という年は、いわゆるバブル景気が始まった年でもあった。(中略)父は今年、71歳になった。引退してもいい年齢だけど、元気な間は子供の世話になる気はないと言って。今も「清原電気商会」の看板をあげて仕事をしている。「お前はお前、俺は俺や。お前がいくら稼ごうと、俺は俺の仕事をするだけや」なんてカッコいい男なんだろうと思った。

△TOP

5、清原和博容疑者のプロフィール基本情報

<清原和博容疑者の基本情報>

清原和博(1967年昭和42年8月18日生まれ)
誕生時:4200グラム。
小さな頃から体格に恵まれていた。
精神分析的には3500グラムを超えるのは問題。

<少年時の生活の舞台>

596-0821大阪府岸和田市小松里町911
東芝ストアー清原電気商会
電話:072-445-1653
祖父(父方):清原浅治郎(岸和田市山直中町在住)
父:清原洋文78歳(2016年02月現在)主に電気施設の工事をしていて昼間はいない。
祖父が昼間の店番と清原3兄弟の子守りをしていた。
母:清原弘子75歳(2016年02月現在)夫の仕事を手伝いながら家事や祖父母の世話もしていた。

兄弟
姉(長女)本名不詳
□(長男)清原和博
弟(次男)

1974年04月岸和田市立八木南小学校入学

<昭和49年1974年08月18日07歳小1>

小学校1年生の時、車にはねられる。

<昭和50年1975年08月18日08歳小2>
<昭和51年1976年08月18日09歳小3>
img34.jpg1976年05月岸和田リトルリーグ入団テスト(小学校3年生)

<昭和52年1977年08月18日10歳小4>

4年生の2学期からレギュラーに(4年生でただ一人)
岸和田リトルリーグ監督:栄川良秀(故人)

<昭和53年1978年08月18日11歳小5>

1977年09月03日王貞治756号世界記録達成

<昭和54年1979年08月18日12歳小6>

完全試合達成(6年生)

1980年04月岸和田市立久米田中学校入学
(八木小学校・八木北小学校・八木南小学校)

<昭和55年1980年08月18日13歳中1>

1981年岸和田シニアリーグ所属
岸和田シニアリーグ監督:及川宣士
関西シニア大会優勝

<昭和56年1981年08月18日14歳中2>
<昭和57年1982年08月18日15歳中3>

3打席連続ホームラン記録(大阪の藤井寺球場)中学3年の夏

男道 P.62

チーム全員が心をひとつにして敵のチームと戦っているときの、あの頭の中が真っ白になるような純粋な喜びを知らなければ、僕はこんなに長いこと野球を続けられなかった。その喜びをあの2人の監督が教えてくれた。

1983年夏、PL学園の一年生ながら四番を打ち甲子園を沸かせる。5期連続で甲子園に出場し、史上最多の13本の本塁打を放つ。1985年の秋、西武にドラフト一位で指名されて入団する。1986年のシーズン、打率.304、本塁打31本、打点78で最優秀新人賞を獲得。1996年、FA宣言で読売巨人軍に移籍。2005年オフシーズン、故仰木彬前監督からの熱烈な誘いを受けオリックス入団を決意。サヨナラ安打及びサヨナラ本塁打歴代トップに立つ。2008年シーズンをもって現役を引退。

<戦歴>

1983年 PL学園野球部(甲子園通算26試合 打率440 91打数 40安打 13本塁打 29打点)
1986年 西武ライオンズ入団 最優秀新人賞
1988年 最多勝利打点賞、ベストナイン賞、ゴールデングラブ賞
1990年 最高出塁率者賞、ベストナイン賞、ゴールデングラブ賞
1992年 最高出塁率者賞、ベストナイン賞、ゴールデングラブ賞
1993年 ゴールデングラブ賞
1994年 ゴールデングラブ賞
1996年 フリーエージェント宣言により東京読売巨人軍入団
2006年 オリックス・バファローズ入団
2008年 現役を引退

<通算成績>

2338試合出場 525本塁打 1530打点 打率.272 2122安打 1346四球 196死球 オールスター出場 19回

<実績>

テレビCM:入団8年目の1993年オフから解禁
エースコック「スーパーカップ」
常盤薬品工業「ビタシーゴールド」
ナイキ
サントリー「スーパーマグナムドライ」
PlayStation 2用ゲームソフト「GENJI」
ポッカコーヒー
フィールズ パチンコ機・パチスロ機
日清食品「麺の達人」プロ野球引退後初のCM出演。
サッポロビール「Draft☆One」(多部未華子、オードリーと共演)
北海道・東北地域「べガスべガス」(2011年)
スカパー「プロ野球CM」桑田真澄との共演。(2012年~2013)
DMM.com証券 - ローラと共演。(2013年・2015年)

△TOP

6、PL学園高等学校時代

<昭和58年1983年08月18日16歳高1>img06.jpg
1983年04月PL学園高等学校入学
PL学園硬式野球部監督:中村順司

桑田真澄と出会う。桑田氏のピッチングを一目見て「とても敵わない」と思ったと回想。
1983年08月21日
第65回全国高等学校野球選手権大会優勝
甲子園第1号本塁打達成。横浜商との決勝、1年生ながら4番として活躍。投手・桑田真澄とのKKコンビが一躍有名に。
1984年04年04月第56回選抜高等学校野球大会準優勝

<昭和59年1984年08月18日17歳高2>

1984年08月21日第66回全国高等学校野球選手権大会準優勝
享栄(きょうえい)との1回戦で、大会新記録となる1試合3本のホームランを放つ。
1985年04年06日第57年選抜高等学校野球大会ベスト4。

<昭和60年1985年08月18日18歳高3>

1985年08月21日第67回全国高等学校野球選手権大会優勝
春夏合わせて5度目の出場となるこの大会、宇部商との決勝戦で2打席連続ホームランを放つなど活躍。甲子園2度目の全国制覇を果たす。

男道 P.113

リトルリーグ時代から、野球に関して挫折というものを知らなかった。

清原和博容疑者は、本来なら疾風怒濤の反抗期を通り過ぎる時に、挫折知らずで過ごしたと言う。

男道 P.117

驕った言い方なのはわかっている。けれど、あの頃の僕はそう思っていた。ただ、王監督だけはそれがわかるはずだ、と。王監督とお会いしたことはないけれど、監督はきっと僕のことを誰よりも深く理解してくれているに違いない。勝手にそう思い込んでいたのだ。

自己承認欲求は「王貞治監督」ただ一人に向けられていたのだ。
1985年11月20日ドラフト会議6球団から1位指名を受け、森祇晶(もりまさあき)監督率いる西武が交渉権を獲得。清原和博容疑者が希望していた巨人はPL学園同級生の桑田真澄を1位指名。記者会見で涙を流す「いまは何もいえません」。

男道 P.132

「巨人が桑田選手を指名したことをどう思いますか」だって?そんなこと言えるわけないじゃないか。そう思ったら、涙が止まらなくなった。記者会見はそれで終わった。

△TOP

7、埼玉西武ライオンズ時代

<昭和61年1986年08月18日19歳プロ1年目>img08.jpg1985年12月12日西武ライオンズ入団

1986年04月05日プロ初安打、初本塁打。南海戦での2打席目、藤本修二の初球を打ち、プロ初安打をホームランで決める。

1986年10月27日日本シリーズ初優勝。広島を4勝3敗で破り、自分初の日本一に輝く。「苦しかったけど、その分、うれしさも格別です」新人王獲得、シーズン成績:打率.304、本塁打31本。高校からプロ入りのルーキーとして歴代最高記録。

1987年07月28日KK対決実現。甲子園球場でのオールスターゲームにて、巨人・桑田との対決が実現。初回に桑田からホームランを放つなど、3安打の猛打賞でMVPを獲得。

<昭和62年1987年08月18日20歳プロ2年目>

1987年11月01日日本シリーズ優勝。巨人を4勝2敗で破り、自身2度目の日本一に輝く。9回2死の場面で涙ぐみ、辻発彦(つじはつひこ)になだめられる。img07.jpg

<昭和63年1988年08月18日21歳プロ3年目>

1988年ゴールデングラブ賞初受賞。

1988年10月<山田久志、現役引退>

1988年10月<福本豊、現役引退>

1988年10月27日日本シリーズ優勝。中日を4賞1敗で破り、3年連続の日本一に輝く
1989年06月04日100号本塁打達成(最年少、21歳9ヵ月)この日、レフトとライト方向に2本のホームランを放つなど活躍。会場に呼んでいたファッションモデルの彼女に記念の花束をプレゼント。

<平成元年1989年08月18日22歳プロ4年目>

1989年09月23日乱闘初退場・出場停止処分。死球を投げたロッテ・平沼定晴に暴行を加え、初退場、2日間の出場停止処分を受ける。清原の連続試合出場は490で途切れた。
1990年08月05日150号本塁打達成(最年少、22歳11ヵ月)近鉄の野茂英雄から放ったレフトスタンドへのホームラン

img14.jpg<平成02年1990年08月18日23歳プロ5年目>

1990年12月12日年俸1億円突破。日本プロ野球史上、最年少で到達。契約の席にて「自分の心は一つです。よろしくお願いします」と発言。

<平成03年1991年08月18日24歳プロ6年目>

1992年06月26日200号本塁打達成(最年少、24歳10ヵ月)王貞治の持っていた記録を抜く。「王さんの記録を塗り替えられたことがうれしい」。

<平成04年1992年08月18日25歳プロ7年目>
<平成05年1993年08月18日26歳プロ8年目>

1993年10月13日1000本安打達成。リーグV4をかけた一戦、ロッテの伊良部が投げた148キロのストレートをレフト前ヒット。

<平成06年1994年08月18日27歳プロ9年目>

1995年02月<野茂英雄、メジャー移籍。ロサンゼルス・ドジャース入団>

1995年頃 暴力団関係者と一緒にエクスタシーという合成麻薬を覚える

1995年06月13日オリックス戦で三塁に滑り込んだ際に右肩を痛打。右肩関節の亜脱きゅうで2週間の安静が必要とされた。

<平成07年1995年08月18日28歳プロ10年目>

女性セブン

「キヨさんは西武時代から東京・吉原にある高級ソープランドに通うようになりました。そこで、ある暴力団関係者と親しくなり、彼と一緒に覚えたのがエクスタシーと呼ばれる、性行為のときに使うと何倍も気持ちよくなるという合成麻薬だったんです。95年頃だったでしょうか」(清原の旧知の知人)

1996年04月10日300号本塁打達成(28歳07ヵ月)。日本ハム・西崎幸広から放つ。この記録は、王貞治の27歳03ヵ月に次ぐもの。

1996年06月02日横浜戦。三塁走者としてタッチアップ。本塁へ激走し生還も左太ももに異変を訴え交代。古傷の左足大たい四頭筋肉離れ。

<平成08年1996年08月18日29歳プロ11年目>

△TOP

8、東京読売ジャイアンツ時代

img12.jpg

男道 P.176

そしてそのこと(ドラフトの問題)は、最終的には巨人軍オーナーの渡辺恒雄さんが見事に解決して下さった。渡辺さんが、僕と両親に面会を求め、「ドラフトの件は、お父さんお母さんにまで悲しい思いをさせて申し訳なかった」と深々を頭を下げられたのだ。これは余談だけれど、母はその謝罪よりも、渡辺さんの人柄に動かされた。「あの方は、世間が言うような人やない。温かい心のある人や。私好きやな」その後も、僕がジャイアンツで逆転ホームランを打ったりするたびに、渡辺さんは両親のところに「感動的なホームランをありがとう」と、感謝の手紙を送って下さっていたらしい。成績不振のときに渡辺さんの発言が新聞に乗ることがあって、単純な僕は腹を立てたりもしたのだけど、いつもは僕の味方の母が、その時だけは逆のことを言った。「あんたの成績が悪いのは事実やし、人間やからはずみでそういうことを言ってしまうこともあるよ。それを、記者の人が大袈裟に書き立ててるだけや、お母さんな、渡辺さんは個人的にはずっとお前のファンでいてくれてると思うよ、それと、大組織のリーダーとしての立場はまた別のことや」今にして思えば、母の言うことは正しかったのだ。

1996年10月27日FA宣言。阪神からの誘いもあるなか、憧れであった読売ジャイアンツに5年契約で移籍。「命がけでやります」。FA宣言した清原を長嶋監督は「俺の胸に飛び込んで来い」と巨人入りを決断させた。

色んな番組でドラマ仕立てで、官僚的な読売のフロントの対応、阪神からの熱烈勧誘、さすがに巨人への思いがぐらついた清原和博容疑者を描写しているのだが、ここでも最終的に「あの時の夢を忘れたんか?あの時の悔しさを忘れたんか?」と巨人入りを勧めたのは実母・清原弘子さんであった。この時、清原和博容疑者が冷静に自分の強い意思で西武に残るなり、阪神に移籍するなりしておけば、もっと自然な形で野球選手としてのキャリアを重ねていけたのではないのだろうか?と思ったりもする。巨人軍でホームランバッターと言う少年の夢は、不幸な巡り合わせで、巨人と王貞治と桑田真澄に対してのコンプレックスを形成し、野球選手としての清原和博に道を誤らせたと思えなくもない。恵まれた資質と豊富な練習量、優秀な監督コーチの指導の元、PLから西武と順調に歩みを重ね、西武生え抜きの指導者としてチームを率いるのも選択肢の一つであった筈だ。ただ、野村克也さんは「清原が道を誤ったのは、社会人としての大一歩の教育を誤ったからだ」と清原容疑者入団当時の西武の森監督を批判されている。

1996年11月24日入団会見。

1997年ごろ シャブ初体験
1997年 田辺大作氏(薬物仲間:仮名)とつき合い始める。この時点で清原は薬物使用経験あり。

週刊新潮

「シャブ初体験は、巨人軍に入団したばかりの1997年頃」(清原復帰を企図した山岡氏:仮名)「接点を持つようになったのは1997年。キヨが巨人に入団した年の宮崎キャンプです。知り合いの会社社長に誘われ、ゴルフをしたのが始まりでした」(田辺氏) 田辺氏によれば、清原はその時点で既に覚醒剤の使用経験があった。以下解説:田辺氏というのは清原容疑者のタニマチとも報じられた実業家、山岡氏は清原容疑者を大手芸能事務所ケイダッシュに紹介した人物だとか。この、清原容疑者が薬物に手を染めはじめた時期は雑誌によって多少ブレがあり、週刊文春は巨人へ移籍してから2年目の98年ごろと書いています。

img36.jpg1997年04月06日巨人移籍後初本塁打。桑田復帰戦でもあるヤクルト戦で、巨人移籍後初となるホームランを放ち勝利に貢献。
1997年05月<伊良部秀輝、メジャー移籍。ニューヨークヤンキース入団>

<平成09年1997年08月18日30歳プロ12年目>

1997年10月08日シーズン152三振を記録。当時、セ・リーグ史上最多となる三振数。

男道 P.192

1997年の僕の成績は、ホームラン32本、打点95、打率2割4分9厘。シーズン前にかかげていた40本、100打点、3割の目標を達成することができなかった。何よりもチーム成績は、日本一どころかリーグ4位に沈んだ。弁解の余地はない。僕はファンの期待に応えられなかった。そして、その結果は想像を超えていた。味方の応援にヤジが交じるようになり、ジャイアンツが負けを重ねるたびにその割合が増えていった。マスコミの論調も手の平を返したように厳しくなった。スポーツニュースは、ホームランを打ったシーンより、三振した映像を選んで流すようになった。成功よりは、失敗が圧倒的に多いのがバッティングなのだ。3割3分のバッターも3回に2回はアウトに倒れる、まして僕はその年の三振王だった。三振の名シーンなら、絶好の映像素材がいくらでもあった。そして、ここぞという場面で打てなくなっていたのは、紛れもない事実だった。負け試合を引っ繰り返し、勝つためにダメ押しすべき打席で、無様な三線が増えていた。ホームランの数や打点の記録は西武時代よりもむしろ良くなっていたけれど、チャンスとピンチにこそ強いと言われた僕の本来の強さ発揮できなかった。球場を出ようとすると、ファンから罵声を浴びせられるようになった。いや、それはいい。それくらいは、されても仕方がない。応援と罵声は、裏返しなのだ。仕事帰りの疲れたカラダで、球場に来ている人も少なくないはずだ。声をからし、力の限りに応援してくれている人たちなのだ。我慢するしかなかった。垂れ幕でクルマを囲まれ、タイヤを蹴られた。ボンネットやドアを遠慮なく叩かれ、火のついたタバコをフロントガラスに投げつけられた。それでもハンドルを握りしめ、必死で耐えた。顔を伏せた。無念だった。最後には、試合中の応援までがやんだ。前の打席の松井秀喜まで、応援団は盛大に応援をしていた。僕がバッターボックスに入ると、声援がピタリと止まった。笛も太鼓も静まりかえった。清原は応援しない。ジャイアンツの応援団がそう決めたのだ。足がすくんだ。腹の底から、冷たいものが湧いてくる。目の前が真っ暗になりそうで、頭を振った。

スポーツジャーナリスト・菅谷 齊

「後楽園球場時代は、移籍してきた外様選手と譜代選手はロッカールームが別れていた。表向きの華やかさは裏ではなかった」・・・ベテラン記者の話である。成績が降下してくると、大きな期待のリバウンドで冷ややかな視線を浴びることになる。チームが負ければ責任を押しつけられることもある。神経過敏な選手はまともな精神状態を保てなくなる。清原は繊細だし、期待に応えられないと悩むタイプである。マスコミの批判も厳しい。清原の言葉を借りれば「ボロクソにたたかれる」のである。巨人時代のチームメートが、清原にクスリを譲った、と話しているのが真実としたら、衰えとの闘いに苦しみ、逆転の刺激剤を欲したのかも、と想像したくなる。巨人の外様は期待も大きければ、酷評も半端ではない。その中に清原がいたということは事実である。

1998年05月23日1500本安打達成。広島・紀藤真琴から、東京ドーム・レフトスタンド看板直撃の特大ホームランで決める。

<平成10年1998年08月18日31歳プロ13年目>

1998年09月01日13年連続本塁打20本以上を達成。横浜・斎藤隆からホームランを放ち、原辰徳の持つ12年連続20ホームランを抜いて、新人の'86年からこの年'98年まで13年連続でホームラン20本以上という新記録を達成。
1998年 左太もも肉離れで戦線離脱

1998年 モデルの木村亜希さんと交際開始

1998年 巨人で野村貴仁氏と出会う 薬物を始める

他サイトから引用

清原和博・野村貴仁】1998年野村貴仁氏がオリックスから巨人に移籍して2人はチームメイトになる。清原和博氏はこの頃から薬物「グリーニー」の使用を始めている

1998年10月<落合博満、現役引退>
1998年10月「黒い交際」疑惑報道。警察からの事情聴取を受け、裁判に証人出廷して一言「何言うてんねん、という感じ」

<平成11年1999年08月18日32歳プロ14年目>

1999年05月05日左手甲亀裂骨折:阪神戦で死球。左手甲の小菱形骨(しょうりょうけいこつ)という細かい骨を亀裂骨折した。
1999年06月25日右足内側側副じん帯損傷、広島11回戦(広島)の8回表、高橋の二塁打で本塁へ滑り込んだ際、捕手と交錯して右ヒザを強打して退場。検査の結果は「右足内側側副じん帯損傷」。リハビリに取り組むなか、突如金髪にイメージチェンジ。戦列に戻ったのは08月末、プロ入り13年間続けた20本塁打の記録もこの年で途絶えた。

2000年03月08日左太もも痛:阪神とのオープン戦(岐阜)で左足を痛めて自宅静養。左太もも裏の肉離れで全治3週間の診断。同年05月23日の試合前の練習で再び同個所を痛め、全治3週間の診断で登録抹消。
2000年5月 二軍落ち
2000年の開幕は、オープン戦での肉離れで、プロ生活15年で初めての2軍スタートを経験した。リハビリを続けながら04月半ばに1軍に復帰。05月末肉離れ再発。
2000年07月07日一軍に復帰し、中日の中山裕章から代打で3ランを放つ
2000年07月11日400号本塁打達成。札幌円山球場。広島・山崎健から放ったレフト場外弾

<平成12年2000年08月18日33歳プロ15年目>

男道 P.201

20世紀最後のその年、2000年の日本シリーズで長嶋監督は、王監督率いる福岡ダイエーホークスと戦い日本一の座に輝いた。ONの対決で20世紀は幕を閉じたのだった。僕とっては、それが西武時代から数えて、7回目の日本一だった。

2000年11月<イチロー、メジャー移籍。シアトル。マリナーズ入団>
2000年12月<新庄剛志、メジャー移籍。ニューヨーク・メッツ入団>

img37.jpg2000年12月08日 亜希婦人と挙式。また、この頃ようやく禁煙に踏み切ったと言う資料があるが、本人記述の自叙伝によると、「泥水」発言をした時点で長渕剛に禁煙を迫られている。
img29.jpg

清原亜希

福井県福井市出身。1984年ミス・セブンティーンコンテスト応募総数史上最高18万325人の中から全国大会でスカウトされ芸能界入り。10代で伝説のアイドルユニット「セブンティーンクラブ」を結成。ファッション誌を中心にモデルとして活躍。結婚前は旧姓の「木村亜希」の名前で活動していた。

2000年ごろ 亜希夫人、清原のスーツポケットから怪しいレシート発見

週刊新潮

清原の異変を前妻が察知したのは2000年ごろ。それはこんなことがきっかけだった。「亜希さんが、当時巨人に所属していた清原のスーツを片付けていたところ、ポケットからレシートが出てきた。それは東京ドームホテル近くのコンビニのもので、明細はポカリスエットの1.5リットルボトルを3本、アルミホイル、ストローとライターを各5個という内容だったのです」(芸能関係者)。以下解説:アルミホイル、ストロー、ライターは覚醒剤をあぶりで吸うため、ポカリスエットは、覚醒剤を服用すると汗が出て喉が渇くため飲用に買ったのではないかと新潮には書かれています。

2000年 ケガを頻発して結果が残せなくなり薬にのめり込む
2000年 清原"コーク"30グラムを100万円ほどで購入

女性セブン

「ちょうど清原が結婚した年でしたね。2000年のシーズンが終わってオフに入ったとき。清原がいつもつるんでたワルの遊び仲間から、"清原さんがオフに入ったんで、コークをわけてほしい"って連絡が知人に入った。"コーク"っていうのは、コカインのことです。清原といえば当時の大スター。カネもあるし、断る必要もない。ブツを用意して待ってたら、真夜中に清原本人が受けとりにきて、コーク30グラムを100万円しないぐらいで買って"いつもお世話になってます"とニコニコ挨拶していたらしいです」(事情を知る関係者)「2000年ぐらいから肉離れを頻発して結果が残せなくなるとコカインや、さらに強力なシャブ(覚せい剤)を使うようになった」(清原の旧知の知人)

男道 P.202-203

その飛距離をさらに伸ばすために、肉体改造を始めた。カラダを大きくするという発送は、直接的には大リーグの選手の影響だった。(中略)若い時代なら時間をかけても取り組むメリットはあるけれど、僕はもう30歳を過ぎていた。筋力アップによる肉体改造は、短期間で大きな効果を上げるはずだと考えたのだ。そして、それは上手くいった。少なくとも、最初の何年間かは。本格的に肉体改造を始めたのは、2000年のシーズンオフからだった。専属トレーナーのケビン山崎さんと相談して、トレーニングや食事のメニューを組み立てた。2001年には早くもその効果が現れた。この年、僕は過去最高の121打点を上げた。ホームランの飛距離も確実に伸びた。東京ドームのスタンド最上段や、看板を直撃するホームランが増えていた。

2001年 田辺氏コカイン所持で逮捕
2001年 移籍後キャリアハイ(過去最高)の成績を残し4年契約をする。
2001年04月17日ヤクルト戦でファウルの打球を追い、一塁側カメラマン席に左ひざを痛打。
2001年06月09日3イニング連続本塁打達成。阪神戦で3回ライト方向、4回センター方向、5回レフト方向へと打ち分けての3イニング連続でのホームラン。史上7人目。

<平成13年2001年08月18日34歳プロ16年目>

2002年03月31日444号本塁打達成。444号の記録を持つ長島茂雄前巨人監督が見守るなか、阪神・ムーアのチェンジアップを東京ドーム・レフトスタンドへ運ぶ


<平成14年2002年08月18日35歳プロ17年目>

2002年08月23日第一子となる長男(清原正吾)誕生

2002年10月26日日本シリーズ優勝。第1戦、西武の松坂太輔から看板を直撃するホームランを放つなど活躍。西武を4勝0敗で破り、日本一に輝く
2002年 左足肉離れでわずか55試合出場に終わる
2003年01月<松井秀喜、メジャー移籍。ニューヨーク・ヤンキース入団>
2003年03月 膝手術

<平成15年2003年08月18日36歳プロ18年目>

2003年シーズンは早々と原監督より4番に指名され、故障に悩まされながらも打率.290、26本塁打と好成績を記録。
img51.jpg

2003年10月07日阪神-巨人戦(甲子園)。最終戦 アウェーの甲子園球場で、星野監督から原監督へ花束を贈る名場面がファンの間で記憶に残る試合で、巨人軍4番の重責を果たした。

2003年10月16日都内の病院で「右ひざ半月板」の手術を受ける。内視鏡のレーザー手術

2004年 堀内恒夫監督就任、清原問題行動を頻発するようになる。

ネット上の情報を色々漁っていて以下の記述をみつけた。そう言えばいつの頃からか、プロ野球の試合の生中継をテレビで見かけなくなった。あのジャイアンツの試合でさえ。テレビ中継を観ながら一喜一憂しているお父さんの姿も過去のモノとなったのが、清原選手不具の時代と重なるのも象徴的な感じがする。

日本のプロ野球中継の歴史

2015年9月現在、2004年5月2日の試合(対広島戦)が、視聴率20%を超えた「巨人の公式戦中継」最後の試合となっているという。

2004年06月04日2000本安打達成。ヤクルト戦でジェイソン・べバリンから達成。史上31人目。「頭の中が真っ白で何も覚えてないです」

<平成16年2004年08月18日37歳プロ19年目>

2004年08月デッドボールを受け右指を骨折、戦列を離れる。
2004年09月<大阪近鉄バッファーローズとオリックス・ブルーウェーブが合併。オリックス・バッファローズとなる>
2004年11月<新球団 東北楽天ゴールデンイーグルス参入決定>
2004年シーズンオフフロントとの確執

男道 P.209

2004年11月23日、東京ドームでジャイアンツのファン感謝祭が開催された。5万人のファンが集まっていた。どんな大きなホームランを打ったときよりも、大きな歓声だった。「清原、やめるな!巨人で戦ってくれ」歓声の大きさよりも、口々に叫ぶ言葉に胸が熱くなった。この人たちのために、俺は戦うのだと思った。

2004年11月30日謝罪会見に臨む。「泥水を飲む覚悟で戦う」

img50.jpg

2004年クリスマス:名球会の仕事でハワイにいた清原和博容疑者は衛星中継でTV出演

男道 P.217

ものすごい勢いで、怒鳴られたこともある。スポーツ選手として恥ずかしい話だが、僕は長い間、タバコを吸っていた。そのことを知って、長渕さんは怒り出したのだ。「何が泥水を飲む覚悟だ。このやろう。お前、死ぬつもりでやってるんだろ。なのになんでタバコなんか吸ってんだ、バカ野郎。俺は桜島の7万人コンサート(2004年08月21日)死ぬ気でやったぞ。今度はお前の番だ。なのに何やってんだ、お前は」烈火のごとく怒っていた。それで、僕はタバコをやめた。

男道 P.23

悔しかった。悔しくて悔しくて、この悔しさを自分のカラダに刻みつけておきたかった。どんな悔しさも、人はいつか忘れてしまう。その忘れることさえ、悔しくてたまらなかったのだ。だから自分のカラダに傷をつけて、入れ墨でも入れて、いつもそれを見るたびに悔しさを思い出したかった。だけど、その話を母にしたら、泣かれた。それで、入れ墨のかわりに、耳に穴をあけてピアスをした。みんな唖然としていたから「バリー・ボンズにあやかって」なんて冗談を言ったが、本当はあのダイヤのピアスは僕の悔しさの結晶だった。

2005年開幕前、ピアスと無精ひげが波紋を呼ぶ
2005年04月14日200投手からの本塁打を記録。阪神戦で、福原忍からホームランを放ち、史上初めて200投手から本塁打を打つという記録を達成。
2005年04月29日500号本塁打達成。広島・広池浩司から放つ。日本プロ野球史上8人目「歴代の偉大な先輩の影が少しだが見えてきたのが、信じられないです」

2005年05月01日第二子となる次男(清原勝児)誕生。この日、祝砲となるホームラン501号を放つ。

2005年05月11日危険球騒動、オリックス戦で山口和男から頭に死球を受け激高。騒動に発展。
2005年07月22日球宴本塁打13号を記録。オールスター第1戦、西武の西口文也からホームランを放ち、王貞治の持つ球宴本塁打記録に並ぶ。
2005年08月09日佐々木主浩(ささきかづひろ)引退試合に号泣。横浜の守護神、佐々木投手の引退試合。涙の対決はフォークボールを空振り三振。
2005年08月13日出場選手登録を抹消され2軍降格となった。ジャイアンツから事実上の解雇を言い渡される(堀内監督より)。

<平成17年2005年08月18日38歳プロ20年目>

男道 P.212-214(一部抜粋)

2005年08月29日都内のホテルに球団幹部から呼び出され「来季、君とは契約しないから。で、なんかある?」神宮外苑の並木道にクルマを停めて、ハンドルにつっぷして泣いた。僕だって覚悟はしていたのだ。それを、こそこそと隠れるようにホテルに呼び出して、1分で切り捨てるのか。この9年の苦闘は何だったのか。泣きながら、長渕剛さんの「トンボ」を聴いていた。

2005年10月01日戦力外通告。巨人から戦力外通告を受け、自由契約となる。
2005年オリックスの仰木監督は清原和博容疑者の実家を訪ね「息子さんを、私に預けて下さい」と訴える。
2005年11月大阪の料亭で仰木監督と会食。
2005年12月15日<仰木彬氏、死去>オリックスへの口説き文句は「お前の花道は俺がつくってやる。大阪に帰ってこい」。この時、清原容疑者は名球会の仕事でハワイへ。

△TOP

9、オリックス・バファローズ時代

img13.jpg2005年12月20日オリックス・バファローズに移籍発表。「亡くなった仰木さんから熱心な誘いを受けた。大阪へ行ってプレーすることを天国へご報告したい」すべてを忘れたいと、巨人時代の愛車を売却、ピアスも外す。

2006年05月21日1500打点達成。阪神・江草仁貴から史上8人目となる記録を作る。
2006年05月26日4000塁打達成。横浜・三浦大輔から史上12人目となる記録を作る。
2006年05月27日横浜ベイスターズ戦、クルーンから逆転満塁サヨナラホームラン。

<平成18年2006年08月18日39歳プロ21年目>

2006年08月29日西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。それまでの記録保持者は野村克也氏。
img38.jpg

2006年9月2日のロッテ戦で初回に清水直行から11号3ラン本塁打を放つが、2007年は1軍出場できず、2008年は現役最終年で2年ぶりに1軍出場したがホームランを打てなかったため、これが現役最後の本塁打となった。

各サイトから引用

2006年10月31日野村貴仁 高知市内で、覚醒剤取締法違反で逮捕される。12月26日に懲役1年6月・執行猶予3年の判決がくだされた。また、警察の取り調べに対して、常習者に「清原和博」の名前を挙げたので警察は今から10年前のこの頃、清原和博氏も捜査対象になったが行動確認をしたものの覚醒剤の使用が確認されなかったので逮捕されなかった

TV番組の報道

だが、引退の2年前、巨人から自由契約とされオリックスに移籍した現役時代の2006年には、既に薬物使用が疑われ捜査線上に上がった事がある。親しかった同僚の選手が、覚せい剤で逮捕された時だ。この時は行動確認などで使用が認められず、逮捕には至らなかったが、その後も使用疑惑が出ては消えを繰り返した。

2007年02月28日左ひざの関節を手術
2007年06月下旬に渡米。ロサンゼルス市内の病院で精密検査を受けた。
2007年07月04日記者会見で左ひざ再手術を発表。全治に6カ月程度かかる見込みで今季中の復帰は絶望となった。手術、リハビリのため1、2軍での試合なし。

2007年頃自宅で大暴れ

スポーツ報知

離婚する前に家族と住んでいた都内の自宅マンションの壁をバットなどで殴り、穴をあけていた。オリックス移籍2年目に左ひざを2回手術したが、リハビリに苦しみ、復帰できないいらだちを家族にぶつけていた。左ひざは腫れ上がり、痛みで身動きできず「俺はこのまま歩けなくなる」。テレビ番組では、前妻の亜希さんが壁の穴を子供たちの絵を飾って隠していると明かしていた。

2007年清原和博氏が野村貴仁氏に電話で薬物のやりとり・・・のちに週刊文春の薬物疑惑報道で証拠として使われる。
img39.jpg

男道 P.244-246

何もかもが、嫌になった。何もかもが、信じられなかった。怒り、悔しさ、焦り、無念さ・・・様々な感情が抑えきれなくなって、酒を浴びるように飲んでいた。飲めば飲むほど、自分の中のどす黒い嫌な感情が湧いて止まらなくなって。何もかも、ぶち壊したかった。その暴力的な感情に、身を任せていた--。翌日、目が覚めて自分がしたことに愕然とした。バットで部屋の壁をぶち抜いていた。壁を壊せば、道が見えるとでも思ったのか、めちゃくちゃに穴をあけていた。道は見えなかったのだろう。その証拠に、穴は部屋中のいたるところにあいていた。壁に穴をあけたことよりも、それを自分のバットでしたことに衝撃を受けた。床にポツンと傷ついたバットが転がっていた。(中略)壁にあいた穴は、そのままにしておいた。自分への戒めのつもりだった。ある日、部屋に戻るとその穴がふさがっていた。妻が来ていた。彼女はすべての穴を、画用紙でふさいでいた。子供たちが描いてくれた絵だった。


img40.jpg<平成19年2007年08月18日40歳プロ22年目>

2007年09月19日<古田敦也、現役引退>
2007年09月29・30日長渕剛COME ON STAND UP! 2007 ARENA TOUR

男道 P.247

まだ松葉杖をついていた頃、長渕さんがツアーで大阪に来ていて、大阪城ホールでのリハーサルに呼んでくれた。リハビリが苦しい時期だったし、僕はあまり乗り気ではなかった。けれど、「いいからちょっと来い」。長渕剛さんはしつこかった。松葉杖をついて出かけて行くと、長渕さんがステージに僕をひっぱり上げてくれた。大阪城ホールのど真ん中のステージに、ぽつんとマイクスタンドが1本立っていた。視界の続く限り無人の客席が並んでいた。この人はこんなにたくさんの席を人で埋めようとしているのだと思った。長渕さんの不安を孤独に圧倒される気がした。「俺はここに立ってるんだよ」長渕さんが言った。「お前も立て。もう一回お前のステージに立て」心が震えた。楽屋には何十本ものギターが並んでいた。一本だけ、離れた場所に大切そうにスタンドに立てたギターがあった。使い込んで、塗装がハゲていた。いちばん長いこと使っているギターだと教えてくれた。帰り際に、長渕さんがそのギターを手に取った。「持ってけ。お前にやるよ」

2008年03月26日桑田真澄、現役引退を表明「心にぽっかり穴が空いた状態」
img15.jpg2008年07月29日桑田真澄氏スカイマークスタジアムで清原和博容疑者のバッティングピッチャーを務める。
2008年08月02日引退示唆。「こんな状態なので来年はグランドに立てないと思う」と今シーズン限りでの引退を示唆。
2008年08月03日一軍復帰。ソフトバンク戦で手術から695日ぶりに一軍に復帰。代打で出場するも三振に終わる。

△TOP

10、清原和博プロ引退 2008年08月18日 表明

<平成20年2008年08月18日41歳プロ23年目>

2008年08月18日引退表明。41歳の誕生日であるこの日の西武戦後、今シーズン限りでの引退を表明。

img28.jpg2008年10月01日現役引退。京セラドームにて、ソフトバンク最終戦に出場。多くのファンが見守る中、現役を引退。最終打席は杉内俊哉の高めのストレートを豪快に三振。福岡ソフトバンクの最終戦。試合前のセレモニーで王監督から花束贈呈。その際、王監督は清原に「生まれ変わったら、必ず同じチームでホームラン競争しような」と耳元でささいた。長渕剛が「トンボ」を歌う。
2008年10月01日引退試合に山口組弘道会系稲葉地一家の幹部・企業舎弟を招待

週刊文春

「2008年10月、清原は京セラドーム大阪で引退試合を行いましたが、この晴れ舞台に、彼は山口組弘道会系の稲葉地一家の幹部や企業舎弟を招待していました。この企業舎弟は清原とは親友と言っていい関係で、都内でインターネットカジノなどを経営し、稲葉地一家の重要な資金源となっています」(山口組関係者)

img19.jpg

△TOP

11、セカンドキャリア(引退後)

img22.jpg2008年オフ引退してから「入れ墨」を入れる。41歳でで引退。野球で燃え尽きて・・・

ヤフー知恵袋から

なぜ清原は刺青を入れたのですか?
私が聞いたのは「巨人への恨みを忘れないために」でした。もう、その、、それを体に刻もうと言う思想が...普通ならドン引きですよ。「わかるわ~!」て言う人なんて誰も回りにいません。当時相談されたオカンは「そんな事するんやったら、お前を殺して私も死ぬ」と言ったそう。そんなオカンの言葉をもう忘れ去ってしまったのか、色んなアカがつき過ぎてわからなくなってしまったのか。野球ファンはそんな清原を見たくなかったんです。なのにTVでもチャラチャラした番組にしか出ない、講演会とか地味な活動はすっぽかす、はたまた薬物使用疑惑などギャングじゃ無いんですから。もうテレビ局も出入り禁止の様ですがね

男道 P.217

僕が入れ墨を入れると言い出したときは、長渕さんがでっかい檜の切り株に、不動明王の絵を描いて送ってくれた。「これが、お前だ。お前は不動明王なんだ」と。不動明王のように、怒って、怒って、心の底から怒って、前に進めと、励ましてくれた。

2008年家族ぐるみで親交のあって和田アキ子と絶縁。和田はピアスをヤメるよう進言したが、代わりに入れ墨をすると言い出した清原容疑者に「もう連絡してくるな!」と激高した。

スポーツ報知

現役引退後の2008年オフ、右ふくらはぎの全体を覆うような龍の入れ墨を入れた。その後、左胸から背中にかけて巨大な昇り龍の入れ墨を入れたとされる。短パン姿で自宅周辺をウォーキングする際は、ふくらはぎを覆うようにサポーターを巻いていた。前妻の亜希さんが入れ墨を消すよう助言したものの、拒否したという。テレビ番組では「昔から入れ墨を入れたかった」などと語っていた。

2008年10月21日 パ・リーグ会長特別表彰・功労賞受賞
2009年01月15日 男道 幻冬舎 発行

TVのインタビューに応えて

2009年01月 当時41歳。(引退して)なんか魂ごと抜かれたような気になって。もー、なんて言うんでしょう、精神のバランスをとるのがすごく、はっきり言って崩しましたよね。精神のバランスを。

2009年 週刊文春が清原容疑者と銀座の高級クラブとのモナコへの不倫旅行を報道。
2009年3月 2009ワールドベースボールクラシックTV中継解説者(TBS)ドタキャン

編集部チェック

当時のYoutube動画を何本かチェックしたが、清原容疑者が解説している試合もあり、どの試合の解説をドタキャンしたのか確認できなかった。

2009年6月 銀座の高級クラブ『R』のKママと不倫旅行報じられる→ 清原が不倫?海外へ連れだった女性の正体とは!

<平成21年2009年08月18日42歳引退1年目>

2009年9月 地方から帰京して帰宅せず都内のホテルへ、ろれつが回らず全身が痙攣。

週刊文春

「同じ年の9月、清原は地方から帰京すると自宅には直行せず、都内のホテルで深夜まで滞在してから帰宅したことがありました。清原は呂律も回らず、全身が痙攣を起こしているような感じでホテルスタッフも心配して声を掛けていました」(当時清原を追いかけていた写真誌カメラマン)


2009年12月 重度の薬物中毒に陥り数週間入院

週刊文春

「その年の12月、清原が重度の薬物中毒に陥ってしまい、日常生活にも支障を来すようになり、周囲に事情を話して助けを求めたのです。清原は覚醒剤を注射器で太股の付け根に打っていたそうです。愛人のKママも薬物にどっぷりとハマり、もはや二人して治療が必要なレベルに達していた。清原は数週間の入院でクスリを抜いてもらったそうです」(清原の相談相手でもある友人の一人)

<平成22年2010年08月18日43歳引退2年目>

2010年 清原亜希、夫の悪い噂によるイメージダウンで「STORY」の表紙モデルを降板。

<平成23年2011年08月18日44歳引退3年目>

2011年 文化放送ナイター解説者をドタキャン

スポーツ報知

文化放送は2011年、「ライオンズナイター」30周年を記念して、清原容疑者を目玉の解説者に起用した。ところが試合時間が長くなると機嫌が悪くなり、口数が少なくなるなど、清原容疑者が解説の際は現場もピリピリムードに。「ひざの痛み止め薬を服用した影響からか、ボーッとすることもあった」と同局関係者。さらには2度のドタキャン事件があり、急きょ西武OBに代役を頼んだりと、対応に追われた。「生放送で穴をあける人には任せられない」(関係者)と1年限りで契約を打ち切った。

2011年6月 薬物の大量摂取で急性中毒を起こし緊急入院

週刊文春

六本木のホテルで意識が混濁し、口から泡を吹いて倒れ、緊急入院という形で病院に運び込まれたのです。清原の母親も駆け付け、「息子を助けるためならいくらでもお金を出します」と号泣したそうです。その病院は有名人やその子息などVIPを極秘に入院させる体制が整っていると聞きましたが、母親は同じ病院に持病を理由に入院して世話を焼いてくれたそうです。危険な状態でしたが、電気ショックなど、あらゆる治療が施され、なんとか一命は取り留めた。退院するときには母親から「もしお前がまた覚せい剤をやったら、私はお前を殺す。そして私も自殺する」と泣きながら叱られ、清原も大泣きし、「これ以上、オフクロを悲しませたくない。もう絶対にクスリに手を出さない」と誓ったと話していたのですが......(別の友人)

2011年夏 以降 清原が家の中で暴れて手が付けられなくなる

週刊文春

「彼女が『夫が家の中で暴れて、どうにもならない』と困り切って嘆いていたこともあります。清原さんは彼女がモデルなので、顔などに傷をつけることはない。でも、モノを投げつけてきたり家具を破壊したり、大声で怒鳴ったりするので、『家にいるときはひと時も気が休まらない』と彼女は言うんです」(亜希の友人)

2011年8月17日 家族全員で焼肉店へ誕生日を祝う

アサヒ芸能

オリックス時代の2006年、清原氏はパチンコ、パチスロ機の開発企業「フィールズ」のCMキャラクターに起用された縁で、引退後はフィールズの関連会社JMSに所属した。ところが2011年、清原氏は仕事として出演するはずだったパチンコ店のイベントを当日になってドタキャン。理由は「体調不良」だった。さらには青年会議所のイベント、講演会、JRAのイベント‥‥と、次々キャンセルを繰り返し、補償問題に発展。所属事務所は頭を抱えたものだ。


img18.jpg

2011年11月 所属事務所JMSオーナーの山本英俊会長との間に隙間風が吹き独立
2011年12月下旬 六本木のサパークラブ『N』を貸し切ってクリスマス会

2012年春 精神科医を中心にサポートチーム結成
2012年 清原亜希、「Marisol」で不定期に表紙を飾る。
2012年07月 週刊新潮により、清原和博氏が少年野球に愛車フェラーリでやってきた際に、足に入った「昇り龍」の刺青の画像が報じられる。

<平成24年2012年08月18日45歳引退4年目>

img46.jpg2012年09月11日 岐阜県恵那市で開催される予定であった清原和博氏の講演会「感謝。それが僕が野球人生で学んだこと」(主催:岐阜県恵那市)が、本人のドタキャンで急遽中止

以下、ヤフー知恵袋からの引用

タイトル:講演会をドタキャンした清原氏に、どうやったら・・・
ID非公開さん 2012/9/1120:24:48

講演会をドタキャンした清原氏に、どうやったら謝罪してもらえるでしょうか?今日岐阜県恵那市で開催される予定であった清原和博氏の講演会が、本人のドタキャンで急遽中止されました。会場にはユニフォーム姿の少年たちや、遠方から来られた方がたくさん集まっており、満員御礼状態でした。主催した恵那市青年会議所の方々が平謝りされていましたが、彼らに責任はありません。おそらくは、ただ必死に準備を重ねてこられたことでしょう。ドタキャンを目の前で見た一般人として、清原氏には必ず恵那市を訪問していただき、謝罪講演を無償でやる等のことをしてほしいと思っていますが、この通りのことは難しくても、何か彼に謝罪の気持ちを持ってもらえる方法はないでしょうか?マスメディアのサイトに投稿する等、なんでも結構です。一般人の力で、わずかなことでも出来ることがあれば教えてください。補足:皆さまご回答及びご賛同ありがとうございます。同じ気持ちでいる方がたくさんいらっしゃることが、とても嬉しいです。

2012年09月22日 「株式会社オフィスキヨハラ設立」現役引退してから知り合いのつてから運転手を雇うが清原和博氏のわがままやドタキャンについていけず辞めていく。西武時代の後輩も運転手をしたが、やはり辞めている。。http://officekiyohara.com/

2013年 再び覚醒剤に手をだし精神科病院に緊急搬送、電気ショック療法で薬を抜く・・・・この頃の清原さんは、1週間も家に帰らず、帰って来たと思ったら事実に閉じこもって隅っこで三角座りしてボーっとしているなど、明らかに行動がおかしかったとか。
そこで、亜希さんが頼みとする実業家に相談して、精神科医を中心としたサポートチームが結成されたそうなのですが...。

週刊新潮

「医者に話を聞いてもらうようになって1年くらい経ってからなんで、2013年のことです。キヨさんはまたクスリに手を出してしまった。ホテルに何人かで集まって覚醒剤を打っていたら、変な風にキマってしまいましてね。見回りに来たマネージャーが慌てて奥さんに電話したんです」(別の関係者)亜希さんはチームに緊急連絡し、医師の判断で足立区の精神科病院へ緊急搬送されることとなった。シャブを抜くことでは名の知られたこの病院の関係者は、「覚醒剤の急性中毒のせいで、かなり昂ぶっていて錯乱した状態でした。したがって、電気ショック療法を行い、それを緩和しようとしたのです」

<平成25年2013年08月18日46歳引退5年目>

2013年ごろ 亜希夫人親しい友人に離婚の相談

2014年01月 頃警察が清原和博氏の捜査を始める。
2014年01月05日 ろれつがまわらない

スポーツ報知

東京ドームで行われた芸能人らとのイベントで打席に入った。一般人の100キロそこそこのボールを何度も空振りするなど、明らかに様子がおかしかった。投手を務めたタレントとのガチンコ勝負では、変化球を多投され、鋭い眼光を飛ばし、いらだちを露わに。イベント終了後、ステージ上でインタビューを受けたが、全くろれつが回っていない状況だった。意識が朦朧(もうろう)としているのか、膝の状態が悪いのか、動きもゆっくりとしていた。肌は黒ずみ、目は据わっていた。

2014年01月28日 珍回答

スポーツ報知

F1を題材にした米映画「ラッシュ/プライドと友情」の監督と出演者の来日会見にゲスト参加。司会者から「映画の内容を踏まえてひと言皆さんにごあいさついただけますでしょうか」と振られたが、司会者とは反対側の方を向いて「何をですか?」と返答した。現役時代の秘話を聞かれ「二日酔いでホームランを打てた」などと回答。酒に酔ったまま立っているかのようだった。

2014年02月21日 白ずくめimg11.jpg

スポーツ報知

「なんなんだ、あの格好は!?」。巨人のキャンプ地・セルラースタジアム那覇が騒然となった。2014年02月21日、巨人のキャンプ地を突然、訪問したのだ。VネックのTシャツに上下白スーツ姿+サングラス。キャンプ地を訪問する球界OBとはおよそほど遠い、Vシネマの登場人物のようなコワモテの衣装に、誰もが度肝を抜かれた。それでも当時の原監督は打撃ケージ裏の「原タワー」に招き、ともに打撃練習を見守った。奇抜な服装はチーム内や報道陣の間でも「さすがにヤバいんじゃないか」と話題になった。「週刊文春」が「薬物使用疑惑」を報じたのは、それから約2週間後のことだった

2014年02月27日 大学病院から出てくる清原和博容疑者を週刊文春の記者が突撃取材。

2014年03月 名古屋の風俗業者名義の携帯契約 山口組6代目体制トップ5の最高幹部の名前あり

img20.jpg

2014年3月6日 発売週刊文春2014年3月13日号「清原和博緊急入院 薬物でボロボロ」清原薬物疑惑を報じる。

img21.jpg

ベースボールキング

・・・また、週刊誌報道にあったように、ちょうどそのころ「清原が薬をやっているらしい」「売人を探している」などの噂が飛び交った。バラエティ番組のプロデューサーらも、あくまで「噂」のレベルだが薬物疑惑のかかった清原氏の出演を見合わせる形となり、その後テレビから清原氏の姿は消えることになった。

2014年03月 文春報道を受けて亜希夫人が家を飛び出す
2014年07月末 銀行口座残高がわずか9000円弱
img43.jpg2014年09月 読売巨人軍へ移籍する時に購入した高級マンション(東京都渋谷区広尾2-6-27、ラ・シテ広尾216)が住民税未納の為、差し押さえとの報道・噂が流れる。「巨人に移籍する時に購入し17年間住んだマンションからウィークリーマンションに引っ貸す時はさすがに寂しかった」と語る。」(2015年4月03日 TBS系「中居正広の金曜日のスマたちへ」)

<平成26年2014年08月18日47歳引退6年目>

2014年8月 薬物仲間田辺(仮名)と6年ぶりに付き合い再開

週刊新潮

「キヨと6年ぶりに関係が戻ったのは、2014年8月。"ナベちゃん、久しぶり"といきなり電話がかかってきて、会うとやっぱりクスリの話。それからはほぼ毎日一緒にキメていましたね」

img48.jpg

2014年9月22日 妻・亜希さんとの離婚を発表。愛してやまなかった愛息2人とも別れることになる。
img42.jpg2014年12月2日 佐々木主浩氏(46)の野球殿堂入りを祝うパーティーに約8か月ぶりに姿を現す。佐々木主浩氏に「刺青を全部消して出なおせよ」と言われる。
2014年12月02日 佐々木主浩の野球殿堂入り祝賀パーティー参加・・・これについては、文春、新潮ともに同じことが書かれていました。このパーティの3日前からずっと薬漬けだった、というものです。新潮はその時一緒にいたという本人から証言を取っていますのでそちらを引用します。→ 清原和博の激ヤセは糖尿病悪化のサイン!?「最近手足が痺れるんや」と周囲に漏らしていた...

週刊新潮

「実は、キヨはあの3日くらい前から、毎日ガンガン入れまくっていて、私が"行くな!"と止めたくらい。見る人が見れば、すぐにわかってしまう状態でした」

2015年02月 田辺氏と群馬の密売人が清原の芸能事務所から関係を断つように迫られる。
2015年02月 田辺氏逮捕されマスコミに情報を流し始めるimg33.jpg2015年03月 四国お遍路(徳島県吉野川市)。清原和博容疑者は「両親もお遍路をしていたし、こんな時期でないと自分を見つめ直す機会がないから」と語る。

2015年初準~夏ごろは清原は薬を断っていた。

img41.jpg2015年4月03日 TBS系「中居正広の金曜日のスマたちへ」に一年ぶりに出演。薬物使用を否定し、自身が四国のお遍路をしていることを放送した。悪いことはしてないのに仕事が減ったと、潔白であることを強調、苦境に苦しむお涙頂戴エピソードを多数紹介し、世間から同情を得る。番組中で「こんなにコンビニのおにぎりを食べたのは初めて・・・マンションに引きこもっていました」「自分自身も反省しましたし、家族(離婚)も失って、引退後もこうやってテレビに出させて頂いてたんですけど、自分でない自分がいたりしして・・現役時代を支えてくれた家族に恩返しもできなくて・・・現役時代で流した涙より、ここ一年で流した涙の方が多かったです・・」と語った。
2015年6月ごろ 広島県の医療関係者のもとに、一時的に覚せい剤の成分を体から取り除く、いわゆる「クスリ抜き」に行くと、周囲に話していたという。
2015年8月 清原薬をやってるのは間違いないと当局が判断。清原和博容疑者の立ち回り先の捜査により覚醒剤所持の容疑が強まり捜査は急きょ本格化組織犯罪対策5課」が総動員であたったこともあった

<平成27年2015年08月18日48歳引退7年目>

2015年08月 テレビ朝日 清原和博容疑者をマンション前で突撃取材「覚せい剤使用疑惑について一言!」

週刊新潮

「キヨがクスリに手を出しているのが間違いないと判断されたのが去年8月のこと。それ以降、当局はほぼベタ張りで行動確認を行っており、彼の主な立ち寄り先であるサウナにも捜査員が裸で潜入していた。逮捕の数日前にマンションのゴミを漁り、ティッシュについた汗から覚醒剤の成分が出たことで捜査が一気に進んだんだよ」(捜査関係者)

img44.jpg2015年08月28日 ダウンタウンの番組「ダウンタウンなうSPお悩みハシゴ酒」に出演。
四国お遍路は一回やってみたかった。問い:なんで入れ墨いれたんですか?引退してから入れました。一回きりの人生で、自分のやりたい事やりたかった。高校野球の監督が入れ墨入っていていいと思う?高校球児に入れ墨入れさす?本人選択させます。あの東国原さんは逮捕されたけど知事になってるんですよ・・・とふざけた事を発言。長渕剛とは、週刊誌の疑惑報道以降疎遠になった。
img45.jpg

2015年08月 芸能活動を再開して以降テレビやCMに出演して芸能活動に復帰すると覚醒剤を使用する形跡が見られなくなる。それでも警察による行動確認はコツコツ続けられた
2015年09月 マンションを売却
img49.jpg2015年11月19日 四国(愛媛県・今治市の札所)でお遍路姿が目撃される。記念ボールには「PL学園 清原和博」とサインされていたという。

2015年11月25日 ブログを開設

img27.jpg

2015年12月 母親がアルツハイマーと難病を患っていることをブログに書き、見舞いに行った際に母親が息子をわからなかったので泣いたことも告白。

2015年年末 ハイテンション

スポーツ報知

テレビ局関係者は昨年末、都内の飲食店で会った様子に驚いた。見るからに元気がなく、落ち込んだ様子で「大丈夫ですか?」と心配して声をかけると、力なく「大丈夫、大丈夫」と答えたという。その後、トイレに立って戻ってくると、見違えるようにハイテンションで冗舌になり、不審な様子だった。「いま思えば、あれは何か薬物の影響だったのでしょうか」と話す。

△TOP

12、2016年 清原和博容疑者逮捕(02月02日)

img32.jpg2016年01月07日 フジテレビ バイキング 出演 ゲッターズ飯田
2016年01月11日 ヤフオクドームで行われた名球会ベースボールフェスティバルに出場。長嶋監督は清原を「君はまだまだ若い。頑張るんだぞ」と激励した。
2016年01月09日 PL学園野球部OB会開催(89人出席)。清原氏欠席、桑田氏出席。

img31.jpg2016年01月24日 フジテレビ ワイドナショー 出演:清原和博、東野幸治、山崎夕貴、松本人志、長嶋一茂、指原莉乃、泉谷しげる、犬塚浩、井上公造、前園真聖、青木珠菜。
2016年02月01日 清原容疑者は、群馬県内で覚せい剤を購入。東京港区のホテルに愛人と宿泊。その後、帰宅。img47.jpgimg23.jpg2016年02月02日 20:00過ぎ(週刊文春の報道から丸2年後)警視庁が令状を取り、家宅捜査。自宅から覚せい剤と注射器3本、さらに吸引用とみられるストローとパイプが1本ずつ見つかり、現行犯逮捕。捜査員が自宅に踏み込んだとき、清原和博容疑者は「袋に入った注射器」と「ストロー」を左手に持っていて自宅から「0.1グラムの覚醒剤」が見つかっている。携帯電話4台押収。
img30.jpg

週刊新潮

「2月の下旬までに起訴が行われ、そのひと月程度後から始まる公判は、2週間程度でケリが付く。所持量から鑑みて、判決は懲役1年6か月、執行猶予3年というところでしょう。起訴後まもなく保釈される可能性もあります」(元東京地検特捜部検事の郷原信郎氏)

逮捕場所:当時清原和博容疑者が住んでいたマンスリーマンション。SOMER SET AZABU EAST TOKYO」 「サマセット・アザブ・イースト・トーキョー」 と読みます。 住所は 〒106-0044 東京都港区東麻布1-9-11img25.jpg清原和博容疑者はこのマンションの最上階(14階)に住んでいた。逮捕時は向かって右奥から両脇を刑事に抱えられる様にして同行され、警察車両に押し込められた。
img26.jpg

△TOP

13、清川和博容疑者逮捕についてコメント

松本人志:周りに嘘をついて裏切ったのは覚せい剤より罪が重い。

清原容疑者の父は「突然の事でよくわからない。これ以上のコメントはしんどいので勘弁してほしい」

東尾修:01月11日の名球会のイベントにも元気に参加してくれ、しかも先輩に"お疲れさまでした""ありがとうございました"と丁寧に頭を下げていた。一時期の元気がなかった姿とは違って本当に変わったなと自分のことのように喜んでいた。ただただびっくりしている。

立浪和義:非常にやさしい先輩でもありましたし、プロに入ってからもいろいろよく声をかけてもらって高校時代からそうですけど本当に存在感のある影響力の大きい方なので今回の件は非常に残念なんですけども清原さん自身がね人生を立て直してもらいたいですね。

PL学園でKKコンビを組んだ桑田真澄氏。「報道で知り、とにかく驚いています。最近は連絡を取っていませんでしたが、もし報道通りなら、野球人として、一緒に戦ってきた仲間として、非常に残念でなりません」「心痛いウワサ」を何度も耳にし、4~5年前から忠告を続けたという。「小じゅうとのように言い続けた。それが言えるのが僕だと。ただ小言を言われるのに嫌気が差したんでしょうね。『一切、関わらないでくれ』と言われた。何度も確認したけど、お互い大人ですから。『お前が言うならそうしよう』と」「今言えるのは、野球のピンチに代打とリリーフはいるけど、自分の人生に代打とリリーフはいない。現役時代に数々のホームランを打ってきた。自分の人生でもきれいな放物線を、逆転満塁ホームランを打ってほしい」桑田氏後悔。忠告受け入れられず3年前に"決別"
長嶋一茂氏 「桑田君が『逆転満塁ホームランを打ってほしい』と言っていましたが、正直、逆転満塁ホームランというレベルではない。難しいと思います。薬物に手を出したんですから。残念とかそういうレベルではない」

西武時代の恩師・森祗晶氏 「驚いて言葉が出ない。なぜ? どうして? という思いだ」。自ら野球界との関係を断つような行動に対し、忠告する手紙を書いたことがあったという。「5年ほど前だろうか。君は野球人なのだから野球を中心に行動し、しっかり野球を勉強しなさいと手紙を書いた。石毛、伊東、渡辺、秋山...、工藤や田辺も後に続いた。西武でともに戦った仲間が素晴らしい指導者になっている。清原もそうなってほしいと願っていた」

巨人白石興二郎オーナー 「主軸でいい仕事をしてくれた選手が逮捕されたのは非常に痛恨である。(昨年の賭博問題で)反省し、高橋監督の下で再出発をしないといけない時に、不祥事が重なるという意味で巨人に籍を置いた花形打者が逮捕された」

中畑清氏 「ああやっぱりって思わせる部分はある。野球ばかりでは駄目だということ。野球ばかを俺は好きなんだけど、1人の人間として成長しないといけない」

中日谷繁元信監督 「個人的に、僕と清原さんという関係で言うとすごく残念。1日も早くまた『清原さん』に戻ってほしい。監督という立場では選手に指導していかないといけない」

阪神藤川球児投手 「何も言えないし、言える立場にもないんだけど。自分は自分で頑張るしかないというか。だれでも弱さは持っていると思うし。まだ、どうなるか分からないけど人生は続くし、元気になられたら...。感謝しているし、もう一度復活して欲しい」

山田久志氏 「残念を通り越してている。1月の名球会イベントで会ったばかりで、あんなにはしゃいでいたのに...。ここから更生し、人として正しい道をゆくのであれば、名球会は、いや野球界は、突き放すだけではなく、立ち直らせるきっかけを作ってあげるべきではないだろうか」

楽天梨田昌孝監督 「さみしいね。衝撃が走った。野球賭博とも付随する問題だと思う。改めて認識し、選手と一緒にやっていきたい」

巨人で3、4番のコンビを組んだ松井秀喜氏 「ニュースで知りました。驚いているとしか言いようがない。詳しいことは分からない。びっくりしている。寂しいというか残念

佐々木主浩:2年前も噂になって、キヨも離婚して落ち込んでいたので、メシ食いに行こうって2人きりでメシ食いに行って、その時にいろいろ話をしたときに薬の話もしたんですが本人あh「絶対やってない」って言っていたので僕はそれを信じていたので、ぶん殴ってやりたいですね、本当に。何でこんなことしたんだって。

プロ野球の熊崎勝彦コミッショナー 「言葉を失うの一言に尽きる。元選手とはいえ、野球は特に青少年の憧れのスポーツのひとつ。現役を去ってからも、模範であり続けなければならない。有害行為の禁止、反社勢力の遮断、薬物の拒絶等、一層施策を強力に推し進める他ない」

PL学園野球部中村順司元監督:いやもうびっくりで驚いています。去年の07月に雑誌の対談で30年ぶりに会って話をしたけど、高校時代の思い出話に花が咲いて僕にとっては本当に素晴らしい思い出を作ってくれた桑田と清原。ああいう思い出を3年間作ってくれた。早く立ち直ってほしいという思いしかありませんね。本来は周りの方に気を使い、ファンを大事にする人間。残念で仕方ないですし、取り返しのつかないことですが、まだまだ人生は続いていく。周囲の信頼を取り戻す努力を続けてほしい」

PL学園高校 PL学園高前には警備員が立ち、厳しい表情。同校を運営する本部の担当者は「一切、お答えする立場にない」とした。過去に野球部長を務めた西川宏郎富田林市議(71)は「とんでもないことになってしまった。世間を騒がせ、関係者の一人として本当に申し訳ありません」と言葉少なだった。

西武渡辺久信SD 「第一報を聞いたときは、非常にびっくりしました。数年前から(報道などで)うわさは出ていましたが、キヨ(清原)に限ってそれはないと信じていた。ここ最近は付き合いがなく、詳しい情報は分からないが、正直に話して立ち直ってほしい、と野球界の先輩、同僚として言いたい。残念でしょうがないというのが素直な気持ちです」

西武鈴木球団本部長 「球界全体として真摯(しんし)に受け止めないといけない。非常に残念としか言えない」

日本ハム田中幸雄2軍監督 「残念です。精神的に大変な部分もあって、逃げ道になってしまったのかも。ちゃんと野球界に復帰されることを願っています」

ソフトバンク工藤公康監督 「一緒にやった仲間だし、すごく残念に思う。いろんなことがあるのかもしれないが、この間も名球会でちゃんとやっっていたので...。(週刊誌報道を)信じてもいなかった。本当に残念に思う。早くああいうものを、しっかりと断ち切ってほしい」

松坂大輔:ビックリして声が出なかった。どう自分の気持ちを表現していいのかわからない。清原さんに憧れて野球をやってきましたし、その憧れはずっと消えることはないので・・・。何と言っていいのか分からない。

巨人阿部慎之助捕手 「びっくりした。寝ぼけてたけど、目が覚めた。びっくりした、それしかないです。新人の俺たちが、やりやすいように気を使ってくれていた。表向きは番長だけど、すごくみんなに気を使ってくれていたこともあって、余計に寂しい」

巨人内海哲也投手「朝起きて、びっくりして。その言葉以外、今は出てきません」

名球会理事長の山本浩二氏 1月に清原容疑者が参加したイベントを振り返り「実績を残して名球会に入り、あまり参加していなかったイベントにも参加してくれた。一生懸命、楽しそうにやっていた。何とも言いようのない気持ちだ」

PL学園で同期だったロッテ松山秀明内野守備走塁コーチ 「びっくりした。同学生として、すごく残念です。1月の段階でPLの同窓会があって、(メールで)連絡したけど、名球会の仕事があって参加できないと。『連絡くれて、ありがとう。残念ながら行けないです』と返事が来た。元気そうに思えて、安心してたんですけど...。彼もいろんなことがあって、僕らも何かあった時は連絡を取っていたけど、ここ何年は連絡を取れなかった。残念だけど、こんな結果になってしまった」

ロッテ伊東勤監督 「ずっと付き合いがあったわけじゃないけど、この時期、顔見せに来てくれたこともあった。うわさが流れ気にはなっていたが、まさかというのが正直なところ。昨日の夜中に逮捕とニュースで聞いて、本当にびっくりした。根は優しいヤツで、かわいげのある後輩。残念でしょうがない。あれだけの野球選手。子供たちに与える影響はものすごく大きい選手だけに、残念でしょうがない。背景は分からないけど、相当、苦しんだのは事実。ただ、野球が大好きな男。『将来的に野球界に戻ってこられるよう、お前も頑張れ』と話していた。(最後に会ったのは)一昨年のこの時期。沖縄の本島に行った時、日本ハムとのオープン戦だったか、雨が降って室内で練習している時だった。ここ(ロッテ)にお世話になった時、最初のキャンプにいの一番に来てくれた。初日に来てくれてうれしかった。チームを救ってくれた4番だった。頼りにしていた選手だったのは間違いない。誤解されるところが多々あって、かわいそうなところもあった。覚せい剤を使用していたことが分かれば、法律で禁止されていること。次があるか分からないが、しっかり更生して、また頑張ってもらいたいとしか言いようがない」

西武田辺徳雄監督 「現役時代に一緒にプレーした仲。ただただ残念のひと言です。いろんな思い出もありましたけど...、言葉にならない。残念のひと言」

ソフトバンク王貞治会長 「残念だね。警察に捕まるということは信ぴょう性があるのだろう。あれだけのスターがね。大変なこと。とにかく残念だね」

PL学園の後輩、巨人吉川大幾内野手 「驚きました。PL学園の先輩ですし、非常に残念です」

巨人村田真一ヘッドコーチと内田順三打撃コーチ 「ただただ、驚いた」

侍ジャパン:小久保監督:きのう早く寝てたので朝起きてネットニューズでみた。正直信じられなくてびっくりした。それ以上ないですね。

巨人川相昌弘3軍監督 「びっくりしたというより、残念です。一時、同じユニホームを着てプレーをしましたから...残念です」

阪神金本知憲監督 3日の宜野座キャンプ終了後に思いを問われ「それは(コメント)なしでいきましょう」

PL学園で2学年後輩の阪神片岡打撃コーチ 「信じたくないというかね...。それ以上、コメントのしようがない...」

DeNAラミレス監督 「事実であれば残念なニュース。一緒にプレーした選手だったし、子供たちにも常に手本となる選手だった。(名球会イベントで)あいさつはした。就任おめでとう。頑張ってと言ってもらった」

オリックス福良監督 「本当に残念。それしか言いようがない。西武にいる時はけっこう話をしていたけど、最近はそういう機会がなかった」

日本ハム木田優夫GM補佐(現役時代の同僚) 「いまはアリゾナにいて情報も詳しくないので、コメントのしようがありません」

ビートたけし 「あれはもう、何か変な言い方になっちゃいますけど、ドラフトが全てだったんじゃないかって思います。ジャイアンツに入っていれば...。ジャイアンツって、『紳士たれ』みたいなところがある。パ・リーグの悪口を言っているわけじゃないですけど、(西武に入って)新人で大物扱いされて、持ち上げられて...。あれが、運命の分かれ道だったんじゃないかなあ。もったいないなあ。昔は、先輩たちは全部ヒロポン中毒ですから。薬局で合法的に売っていたわけだから。自分たちが(芸能界に)入った時には禁止されていた。ラッキーでしたよ。禁止された時期に、そういう業界に入ったんだから。(覚せい剤は)怖いですよ」

元妻の清原亜希(文書) 「このたびの報道において、本当にたくさんの方々にご心配とご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。今、私にできることは多くありませんが、まずは親として、大切な子供達を守ることが一番の責任だと思っております。誠に申し訳ありませんが、どうぞご理解とご配慮を頂けますよう何とぞよろしくお願い申し上げます 清原亜希」

徳光和夫アナ(ラジオ番組で) 「清原和博容疑者と呼ばなければならないのは心が痛い。彼の番長キャラばかりが取り上げられるが、まじめな部分もある。3週間ほど前、名球会で会った時には『お久しぶりです』とあいさつしてくれ、佐々木(主浩)からヒットを打って野球ができることを心から喜んでいた」ただ、気になったことがある。「ヒゲがまた白く輝いている。なんで、こんなに白いのか。麻薬担当の刑事さんから『常習者になると、ヒゲが銀色になる者もいる』と聞いたことがある」。「犯した罪は大きい。2人のお子さんを大変かわいがっていた。お子さんのために、普通の人間になって戻ってきて欲しい」

安倍晋三首相(国会で) 「かつて、子どもたちのヒーローだった清原氏がこうした形で逮捕されたことは、残念だ。甲子園の決勝で、私の地元の高校が、決勝で(清原容疑者の母校)PL学園に敗れた。その大活躍を見て、多くの青少年が胸を躍ら
せる思いだった。今後も薬物依存対策にしっかりと取り組んでいく」

馳浩文部科学相 「極めて残念。更正にに向けて努力して欲しい。青少年の健全育成にもよくない。社会のルールを逸脱してしまったことに深く反省を求めたい」

竹田恒和JOC会長 「憤りを感じている。スポーツ人としても大変残念だ」

千葉県の森田健作知事 「逮捕には、多くの関係者の方が落胆していると思う」

日大名誉教授(刑法)の板倉宏氏 「清原容疑者は所持と使用を認めたので、初犯の覚せい剤事案の量刑として統一されている懲役1年6月、執行猶予3年が科されるだろう。2009年の逮捕後、容疑を認めたタレント酒井法子と同じ判決になることが濃厚だ。今後、容疑を否認すると、量刑は重くなる。否認を続けた歌手ASKAは、14年に懲役3年、執行猶予4年を言い渡された。2人とも覚せい剤所持・使用の初犯だった。覚せい剤事件の重大性を考慮すれば、清原容疑者の初公判までの保釈は難しいと思う。容疑を認め続けることで、初公判後の保釈の可能性は高くなる。知名度が高いため、逃亡の可能性は低いが、保釈金は1000万円を超えるだろう。初公判で結審し、第2回公判で判決が言い渡されることになりそう。酒井の逮捕から判決まで約3カ月かかったので、清原容疑者も5月ごろに判決を受ける流れになるのでは」

地元大阪岸和田の清原和博後援会関係者 「和博ははアホや。なんでや!」。04年に通算2000安打を達成した際、後援会メンバーに記念のキャリーバッグが贈られた。「あれは宝物だった。みんなにうらやましがられた。今も大事に使っているが、もう使えない」。現在、後援会は事実上、解散状態にあるが「岸和田のヒーローやから、みんな気にしていた」

NHK籾井勝人会長 「プロ野球は子供のころから楽しみにしてきたスポーツ。清原という大スターがああいうことをやっているというのは残念。少年たちの夢、憧れを打ち砕くことかと思う。悲しいですね。スター選手は自分と同時に野球も大事にしてほしい」

岸和田市の担当者 04年に市民栄誉賞を授与。「当時は市民に夢と希望を与えてくれた。違法薬物が社会問題になっている中、非常に残念だ」

W-1の武藤敬司 「プロ野球を引退したころに、1回プロレスのリングに上げたいと、すごく考えた。ルールあってのスポーツ。プロレスは5カウント以内なら反則は許されるが、人生の反則は許されない」

清原容疑者のものまねで知られるリトル清原 フェイスブックを更新、「報道を信じたくはないけど本当だとしたら残念です。やってないと信じてたのに」。さらに「最近はテレビ、ブログでも元気そうだったのに。年老いたご両親、小さいお子さんたちの気持ちも計り知れない。何でだろう」とつづった

PL学園の後輩で日本テレビの上重聡アナウンサー 3日朝「スッキリ !! 」で「ただただ残念です。清原さんは特別な存在。桑田(真澄)さんや清原さんにあこがれてPL学園に入った。厳しい練習、厳しい寮生活に、先輩たちも耐えて甲子園に出たんだと思った。アナウンサーになってからも、取材させてもらった時『見てるよ』と声をかけてくれた」

歌舞伎俳優の市川海老蔵 「ビックリ、清原さん...」(2日の午後11時56分に「早くねすぎて起きたら」のタイトルでブログを更新)

カンニング竹山 「覚せい剤なんかに1回でも手を出したらなぁ、一生薬物依存症との戦いが続くんだぞ! この病気は一生治らないぞ! 一生苦しむぞ! それが覚せい剤やドラッグの恐ろしさだ! だからダメなんだよ! そんな苦しい人生になってもいいのか? いいわけねぇ~だろが! だからダメなんだよ! 絶対にやるなよ!」とツイート。

乙武洋匡(おとたけひろただ):信じたくない。でもね、スポーツライター時代に密着取材をさせて頂いたんですけれど、本当は弱い人なんです。その弱さを威嚇で隠しているだけなんですよね。

25年来の付き合いのある大阪の寿司屋さんの店主。阪神の監督になってやと言ってたんですよ。それで、桑田さんが巨人の監督になってそしたら「おもろいで」「野球人気なるで」と笑って言っていたのですけど、キヨちゃん来るときは満員やうち清原ファンや。こんなんあったからって、清原ファン離れない。

新明石鮓(しんあかしすし)大阪市中央区東心斎橋2-4-11
06-6213-0911

△TOP

14、清川和博容疑者についての精神分析的語り

精神分析の世界で、依存性と言えば・・口唇期欠損である。清原和博容疑者は、わずか小学校3年生から野球漬けの生活。それ以前と言えば、実家は商売を営んでいて両親は不在、店番は父方の祖父で、清原三兄弟の子守は実質、父方の祖父:清原浅治郎氏によってなされたのである。

清原和博容疑者の0から3歳までの詳しい養育環境がわからないので断定はできない。が・・・本来、3歳児までに培われる「良い母」を内在化できなかったのではないだろうか?口唇期で獲得する「基本的信頼感」「安心感」「自己肯定感」「満足感」が欠落していたのではないか?

で、清原和博容疑者が精神内界に「良い母」を内在できなかったと仮定すると、薬物依存に陥いった訳が説明できるのか?

あともう一つ清原和博容疑者の自伝本「男道」を隅々まで読んでみても、反抗期に関する記述がない事。健全な男子の場合、中学生の頃、自我が芽生えて「自分って何者?」と言う意識がむくむくと頭をもたげてきます。が、清原和博容疑者の場合、中学校時代は岸和田シニアリーグのレギュラーとして正月以外は364日体育系のチームの中で、練習練習の日々で、野球選手として周りから認められる自分=自分が望んでいる自分=自己アイデンティティーで、毎日野球漬けの生活をする上では何の問題もなかったんだと思います。

岸和田リトルリーグ、岸和田シニアリーグ、PL学園、埼玉西武ライオンズと、少年期から野球選手を夢見る子どもから大人への進路としては、世間も自分も望むエリートコースをひた走ったワケです。

反抗期もなくエリートコースをひた走って良い子ちゃん=清原和博容疑者だったわけです。

彼の人生を振り返ると、問題になるのが、王監督との関係性です、彼の中のコンプレックスは、憧れの王選手にドラフトで自分を求めてくれる筈だったのに、選ばれたのは大学進学する筈だった「桑田真澄」。自分を認めてくれなかった読売巨人軍と王貞治に対するコンプレックス(複合観念体)が彼の心の奥底深く、無意識に潜伏する事になります。

事実、1987年11月01日、日本シリーズ最終戦、清原が入団した埼玉西武ライオンズがセ・リーグの覇者読売巨人軍を4勝2敗で破り、自身2度目の日本一に輝く間際の9回2死の場面で感情を抑えられずに泣き出してしまう。当時の状況を自叙伝で以下の様に語っている。

男道 P.159

1987年、プロ入り2年目の日本シリーズだ。相手は巨人。3勝2敗で迎えた第6戦、9回表。西武が3対1でリードしていた。マウンドには、工藤さんが立っていた。ファーストを守る僕の正面に、三塁ベンチで巨人軍を率いる王監督が見えた。この2年の間、ずっと心の底に押し込めていた感情が騒いでいた。怒りでない。あの時に感じた寂しさと、悔しさが塊になってこみ上げてくる。シュートゴロで2アウトになったところで、その塊を抑えきれなくなった。涙が噴き出していた。アウトひとつで日本一が決まるというその瞬間に、一塁手が涙を流していたのだ。セカンドの辻発彦さんが慌てて駆け寄ってきた。「清原、大丈夫か?」。「はい」と、答えるそばから、涙があふれていた。ドラフトの日の悲しさと、それを乗り越えてここまで来られた喜びが、ごっちゃになって、自分の感情をどうにもコントロールすることができなかった。

1996年10月27日FA宣言をすると、縦縞のユニフォームを横縞にかえてでも来て欲しいと熱烈ラブコールをした阪神タイガースの誘いを蹴って、長嶋監督の読売巨人軍に移籍します。やはり、ふられたままの巨人軍と戦うのをよしとしなかったという事でしょう。

ところが、故障続きで思うような活躍ができず、巨人軍の不振のA級戦犯扱いされます。一時は、自軍の応援団からの声援がストップする様な状況もあった様です。

体は思うように動かない、自分の存在価値=野球選手である自分・・なのにプレイができない。そんな、追い詰められた精神状態の清原容疑者がドーピングに走っても不思議はないでしょう。

事実、この頃の清原容疑者は耳にダイヤモンドのピアスをしてみたり、髪を染めたり、引退時にはピアスの代わりに入れ墨をすると言いだしたり「おやおや今頃反抗期ですか?」と言った問題行動を起こす様になります。誰が言い出したか「番長」なる異名と、西武時代とは異なったキャラクター、ペルソナを被りだしたのも巨人時代です。

仰木監督の誘いでオリックス・バファローズに移籍するも、既に満身創痍。膝の手術の為2007年を棒に振り、不本意な成績のまま現役を引退します。

本来なら、ここから、指導者を目指すのか?解説者を目指すのか?事業家を目指すのか?タレントを目指すのか?次の自分の生活をしっかり考えないといけなかったのが・・清原容疑者の場合、自我=野球 だった為、言い方は悪いが「野球を辞めたらただの人」、野球以外では充実感を得られない「燃え尽き症候群」状態に陥ったのではと推測できる。

燃え尽き症候群

(もえつきしょうこうぐん、英: Burnout)は、一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した結果が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満。慢性的で絶え間ないストレスが持続すると、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまう[要出典]症状。一種の心因性(反応性)うつ病とも説明される。極度のストレスがかかる職種や、一定の期間に過度の緊張とストレスの下に置かれた場合に発生することが多いと言われている。

綺麗な放物線を描くホームランを打って頭が真っ白になるくらいの恍惚感を脳内麻薬であるドーパミンを分泌させていたのに、今や、日常生活を送ることさえままならない体。

以前の恍惚感、充実感を得ようとすればするほど、外から体内に麻薬を摂取する他道がなかったのでしょう。

結局、薬物により、スタープレーヤーである過去の自分に依存し続けた清原和博容疑者は社会人としても、夫としても、父としても失格であり、絵に書いたような成功者の転落・悲劇がそこにあるのである。

*喫煙に関しては2004年に長渕剛に叱責されて禁煙するまで20年間の長きに渡って喫煙者(ヘビースモーカー)であったと言う。・・とすれば、1984年のPL学園時代から喫煙していた事になる。ストイックなアスリート的イメージの清原容疑者だが、タバコ依存に関してはまさしく「口唇への刺激を欲する」口唇期欠損状態である。

img17.jpg

蛇足だが、王貞治さんと、清原和博の生涯ホームラン数の累積数でグラフをつくってみた。初年は清原容疑者がリードしているのだが、王貞治さんが打撃開眼する4年目からはほぼ毎年40本/年以上コンスタントにホームランを量産するのだが、清原容疑者の場合は、後年故障が災いしペースを落としてしまう。

△TOP

15、ライフサイクルの心理学 と 清原和博

img16.jpg精神分析の世界に首を突っ込むと必ず読むことを推奨される本がある。既に絶版になっているが「ライフサイクルの心理学」(ダニエル・レビンソン:南博訳、講談社学術文庫)と言う本だ。amazonで検索しても古本もなかったので、私はBOOKOFFの古本注文サイトで入手した。

この本の中に「40歳代の危機」の話がでてくる。要は、子ども世代がそのまた次世代の子どもを産み育てる時期に差し掛かると、中年と言われる年代の人々は「種の保存」「子孫繁栄」と言う大きな課題はクリアーし、生き物としての使命(ミッション)は完了するのである。・・・もし自然界の生き物ならば後は死を待つだけである。

ところが、現代を生きる私達は「人間50年下天のうちをくらぶれば」どころか、80歳にも手が届きそうな平均寿命なのである。40代以降を如何に生きるか?ここで我々の人生は盛大の山場を迎える。

男の厄年はまさしく42歳。41歳が前厄、43歳が後厄。日本古来の教えでも「40代前半はいろいろ厄災に見舞われ易いから気をつけるように」と我々を諭している。

精神発達論からも、要注意なのである。

話を本題に戻そう、では清原和博さんは41、42、43歳をどう過ごしたか?まさしく、プロ野球生活23年目41歳の誕生日2008年8月18日に清原和博容疑者は「現役引退表明」である。

前厄で、燃え尽き症候群で、精神のバランスを崩し・・・。それから6年後、2014年9月に亜希婦人と離婚、二人の子供の親権は亜希婦人へ。

現在のマスコミの論調では、読売巨人軍時代から薬物中毒疑惑が取り沙汰されている。清原和博容疑者は身を持って我々に「中年の危機」を喚起しているのである。

△TOP

16、おわりに

団塊の世代のヒーローは、長嶋・王、バブル世代のヒーローは、秋山、工藤、清原。その一角の清原和博容疑者が逮捕された事を受け、精神分析的視点で、彼のスーパースター人生を分析してみました。

最後に、清原和博容疑者の自伝本「男道」の一節を引用して終わります。

男道 P.76

僕には川上さんの言った意味がよくわかる。野球がチームプレイであるように、人はひとりで生きているわけではない。自分を愛し、支えてくれた人がいたからこそ、自分は今ここに生きている。そのことを、どれだけ深く心に刻んで戦っているかと、川上さんは問うているのだ。

ご意見ご感想は
lacan.fukuoka@gmail.com
でお待ちしています。

平成28年02月29日

月刊 精神分析 編集部A

△TOP

17、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



より大きな地図で インテグレーターマップ を表示

 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

△TOP