荻野目慶子 深作欣二 女優の夜タイトル画像

1、はじめに

img08.jpgこんにちは、月刊 精神分析 編集部Aです。

今号の月刊 精神分析は「女優の夜 荻野目慶子 深作欣二」を取り上げます。

私が「荻野目慶子」さんの事を記述したブログ記事に対する閲覧数がなぜか安定して多数をキープしており、他のセンセーショナルな記事を押しのけての関心度の高さは何ゆえか?と思いながら、単に「荻野目慶子」さんを取り上げたコンテンツが他にないだけなのか?とも思いながら、私がやらねば誰がやると使命感を感じ、関係資料を集め分析・再編集しました。

荻野目慶子さんの告白本の「女優の夜(幻冬舎:2002年)」を中心資料としながら、各方面の資料を集める中で感じたのが、昭和の功労者的な立場の方々が次々と亡くなっていると言う事実です。これでは、文中でお礼や感謝の言葉を述べようにも何か悲しい気持ちを引きずったままとなります。そう言っている自分自身も既に50代に突入しており、少年老い易く学成り難しを実感する日々でございます。

結構、時間を費やして頑張りましたので「DeNA」や「NEVER」は、僕のオリジナルのコンテンツを勝手にコピペして商売しないで下さいね。^^;

ご意見ご感想は、

lacan.fukuoka@gmail.com

でお待ちしています。

2017年平成29年01月31日

月刊 精神分析 編集部A

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2、荻野目慶子さんとは?

ウィキペディアから引用すると

荻野目慶子

荻野目 慶子(おぎのめ けいこ、1964年9月4日 - )は、日本の女優である。熊本県出身。フロム・ファーストプロダクション所属。昭和学院高等学校卒業。3人姉妹の次女であり、実妹は、歌手の荻野目洋子。実姉はコピーライターをしていた。

荻野目慶子さんには申し訳ないのだが、日本経済がバブルへ向う最中、TBSザ・ベストテン(久米宏・黒柳徹子)を当たり前の様に毎週木曜夜に見ていた私達世代からすると姉の荻野目慶子さんより絶対アイドルの妹:荻野目洋子さんの方がメジャーだった。大ヒット曲:ダンシング・ヒーロー(1985-1986年)。六本木純情派(1986年)。アニメ映画『バリバリ伝説』(1987年)のヒロイン伊藤歩惟役などを脳内記憶に留めており、荻野目洋子ちゃんには慶子さんと言うお姉さんがいるらしい・・くらいの認識しかなかった。事実、私は慶子さんに関してはノーチェックで、私の関心は、よりどりみどりのショートカットアイドルへ向けて全開であった「小泉今日子・堀ちえみ・三田寛子・早見優・松本伊代(1982年)」。私の中の荻野目慶子さんの立ち位置は、原田知世のお姉さんは原田貴和子・・ちょうどそんな感じ。荻野目洋子さんの歌手デビューは1984年で俗に言う84年組には岡田有希子、菊池桃子、吉川晃司、長山洋子・・とそうそうたる名前が並ぶ。悲劇のアイドル岡田有希子さんに関しては別号で考察予定。

荻野目洋子

荻野目洋子(おぎのめ ようこ、1968年12月10日 - )は、日本の歌手、女優である。株式会社ライジングプロダクション所属。本名:辻野 洋子(つじの ようこ、旧姓:荻野目)。

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3、荻野目慶子最悪の状況でのブレーク

残念ながら「荻野目慶子」の名前を天下に知らしめる事件が起こったのが1990年04月30日。荻野目慶子さんが妻子ある映画監督:河合義隆氏と2年半の同棲後、氏は荻野目慶子さんのマンションで首吊り自殺した。

事件当時、私は27歳。社会人5年生。TBSザ・ベストテンは前年の1989年09月28日で終了。日本経済は、バブル経済崩壊へ向けて秒読み段階に入っていた。

その事件は終わらない繁栄が続く事を信じ切っていた日本社会にとっては不吉な前兆だった。

事件発生当時、妹の荻野目洋子さんは21歳でアイドル活動を継続しており、半年に1枚ペースで新曲を発売し続けていた。当事者の荻野目慶子さんは自宅マンションで愛人が首吊り自殺と言うショッキングな状況でとてもマスコミの前にでれる状況ではなく、代わりに何もわからない妹の荻野目洋子さんが記者会見に引っ張り出されて、えらい目にあっていたのを覚えている。マスコミって随分酷な事をするんだなと記憶した。

当時の報道動画が残っていた。

↑いつ消されるかわからないので、消えてたらごめんなさい。

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4、野目慶子・家族構成

以下が荻野目家の家族構成である。

父:外国人記者クラブ→ILO事務局東京支局勤務(栃木県烏丸出身)後に胃がんに羅患
母:不詳 満州→熊本。
姉:不詳、コピーライターをしていた。
己:荻野目慶子、女優(熊本県出身)。
弟:不詳。
妹:荻野目洋子、歌手(千葉県出身)ちびっ子歌まねベストテンをきっかけに芸能界入り。

常にペットにウサギや犬猫がいた。

一家は、熊本、千葉から埼玉(武蔵嵐山)、千葉県佐倉市、東京都墨田区へ転居

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5、荻野目慶子・年表 就学時代

分析するにあたって時代背景も大事ですので、年表を作りました。

1964年09月04日 0歳 荻野目家の次女として熊本県で誕生。
その後、千葉県柏市、埼玉県比企郡嵐山町、千葉県佐倉市に転居。

P.97
1969年 04歳か05歳で「ブランコから落ちて頭蓋骨にヒビ」

これ以降、常に頭痛がして、家族・親戚から「頭痛持ちの慶子ちゃん」と言われる。頭痛は高校生の時まで続く。小学校に入っても体格が小さくコンプレックスとなる。

1976年 12歳小6で児童劇団(劇団ひまわり)の研修生

「白熊くん(日立)」のクーラーCMに出演。

1977年 13歳 中1で「獄門島(1977年)」

1979年 14歳 中3の夏、舞台「奇跡の人」ヘレン・ケラー役オーディション合格し芸能界入り。

この頃、太宰治の「人間失格」を読んでショックを受ける。

1980年 15歳 高1の入学時の事。

ATGの「海潮音(1980年)」に出演した為、高校の入学式に出席できず、実母が高校側(昭和学院高等学校:千葉県市川市)からこっぴどくしかられる。「入学式に参加しない生徒なんて前代未聞」とコテンパンに実母が怒られた。

高校生になると、ふっつり頭痛がやんだ。校則が厳しい学校の為、高校生活では、忍耐と反骨精神を学ぶ。

1983年 18歳 高3の夏休み「南極物語(1983年)」に出演。公開は卒業後だった為、学校側も大目にみてくれる。荻野目慶子は劇中では3つのシーンにしか登場してないのに、全国を巡る映画のキャンペーンでアイドル扱いされる事になり、申し訳ない様な気持ちを抱く。

P.111
高校3年の女子校の休み時間の話はセックスの事ばかり。私は非体験者でコンプレックスを抱えて焦った。・・と荻野目慶子は語り、次に自身の異性観を語っている。

荻野目慶子の異性観 女優の夜 P.113

私は男性の元に跪(ひざまず)きたいと願った。これは身体だけでなく、精神的にも、だ。私は男性を崇めたかった。屈服したいと思った。そうなってこそ初めて、私の夢見る官能の世界が訪れるのだ。

「父性」不在の現代において、女性を跪かせるような圧倒的なカリズマティックな男性はそうそういないのでは?と心配になるのだが、案の定、荻野目慶子は後年、闘争力が必要とされる「監督業」を生業とする二人の男性と不倫関係に陥る事になる。

この段階で、なぜに異性に跪きたいと言う精神構造が構築されたのだろう?と言う問いが出てくるのだが。非支配欲が荻野目慶子さんの詳しい養育史がわからないので、詳細に分析することができない。

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6、河合義隆監督 不倫同棲生活、原宿時代

img09.jpg1985年 20歳

NHKで「江戸っ子芸者一代記」というドラマ出演。

TBSのスペシャルドラマ「幕末青春グラフィティ・福沢諭吉」(TBS、河合義隆演出)1985年(昭和60年)2月11日に放送された、日本のテレビドラマ。河合監督と荻野目慶子が出会う。運命の出会い。

1986年 22歳
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年1月25日公開、東宝)
この作品が興行的に成功とは言えず、肩を落とした河合義隆監督の為に「河合監督を励ます会」が開かれる。この催しで、河合義隆監督と荻野目慶子が再会し恋におちる。

荻野目慶子は一人暮らし開始する。原宿駅から歩いて7分のマンション。ところが、引っ越し3日目の夕方に、はやくも河合義隆監督がマンションにやってきて交際(同棲生活)開始。既に河合義隆監は妻子持ちであった為、不倫という名の同棲生活となる。河合義隆監監督が自宅へ戻るの着替えだけ。

同棲途中から経済的にも河合監督は荻野目慶子のヒモ状態となる。

荻野目は不倫を負い目に実家と音信不通状態。

23歳の荻野目慶子が河合監督からよく聴いた言葉
P.132「僕は妻も子供も愛している。君とはまるで別の愛情だ」「いい女優になれ」

P.134
同棲解消を切り出した荻野目慶子は河合義隆監督からは「君は愛を育てること知らない!」と言われる。

列車に飛び込もうとする河合義隆監督に縋(すが)る荻野目慶子。

P.136
河合監督に自殺念慮あり。

P.137
後に監督の勧めで事務所を独立する荻野目慶子

P.138
河合監督39歳、荻野目慶子とは16歳の年の差があり、父娘関係程の年の差がある。

荻野目慶子の河合義隆監督への気持ち 女優の夜 P.139

彼に死への意志があえることを知ってしまった衝撃は、強い呪縛となって、彼から離れる意志を私から奪った。恋の姿は形を変えた。好きだという感情よりも、死んでほしくないという感情の方がより勝り、以後の時間を過ごすことになった。たえず死の姿に怯え続ける生活の始まりだった。

P.140
1988年 24歳 蜷川幸雄演出 ハムレット 渡辺謙 荻野目慶子(オフィーリア役) 夏八木勲 二宮さよ子 松重豊

荻野目慶子は自立神経失調症を発症。

深夜の国家議事堂前の階段で河合監督の個人レッスン

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7、河合義隆監督 不倫同棲生活、南烏山時代(前期)

荻野目慶子の引っ越し P.147

河合監督との同棲を継続する為に原宿から、東京都世田谷区南烏山2丁目のマンション、芦花公園プレステージの4階・2LDKの部屋に引っ越しする。河合監督がこの部屋で首吊り自殺をする事になるのだが・・・河合監督の自宅が成城だった為、この地が引っ越し候補となる。隣の建物は化粧品ウテナ(UTENA)本社ビル:東京都世田谷区南烏山2‐31‐26で一階に成城石井:芦花公園店がある。

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荻野目慶子からみた河合義隆監督 P.148

彼は、今の奥様は二度目の結婚で、最初の結婚はフジテレビに入社して間もなく、相手は年上のハープ奏者だったと聞いたことがある。年齢差がかなりあったのか、この年上の奥様にはあらゆる面でしごかれたそうだ。食事に関しても厳しく、芸術家は食べなきゃダメだと。食べて食べて創造のエネルギーを生むのだと、毎日のようにステーキを食べさせられたいう。一見優雅に見えるハープの奏者が、そんなふうにして演奏の力を保っているのかと、驚き感心しながら聞いた。

1987年 23歳
河合義隆監督に舞台演出の仕事が来る。
青春グラフティミュージカル「ACB」~恋の片道切符 日生劇場
出演:田原俊彦/富田靖子/ミッキー・カーチス/柴俊夫
1987年12月05日~12月27日

P.152
河合義隆監督に舞台演出の仕事が来る。

1988年 24歳
1988年03月「きらら浮世伝」
中村勘九郎、原田大二郎、小須田康人、中村浩太郎、美保純 ほか

P.154
河合義隆監督飲酒量が増える
河合義隆監督奥さんから離婚の意志を告げられる。

1989年 25歳
中国で天安門事件
六四天安門事件(第二次天安門事件(1989年06月04日)
河合義隆監督は報道画面に釘付けで涙を流していたと言う。

母性を求めた河合監督 P.155

彼はその年上の奥様の強く受けた男性だったのではないだろうか。彼は女性に対して「母性」というものを、とても求めていたように思えるのだ。彼のお母様がどんな女性であったのかは知らんし、そんな人がなぜこんな私と恋に落ちたのかと問われれば返答に窮するのだが、彼と二度目の奥様の関係を側で感じていると、そんなことを思わずにはいられなかった。母性。慈愛。二度目の奥様も、それがとても豊かな方だったのだろう。奥様の元から帰ってくると、彼はどんなことを話し、その時どんな言葉を奥様が返してくれたのか、まるで学校帰りの少年が報告するように私に無邪気に語った。彼は私達のことは包み隠さずに奥様に話していると言っていた。同じように私にも家庭のことを話して聞かせたが、後々二人が共同で撮った私のヌード写真まで、彼が奥様に見せて批評を仰いだと言った時には、私は心の底から驚かずにはいられなかった。その時つくづく思った。これはもう男女を超越した関係で、そうやって受け止めてくれる奥様がいなければ、彼は今、精神の均衡が保てないのだろうと。奥様も、きっとそれを理解していらっしゃるのだろうと。私にしても、そんな話を聞きながら、嫉妬の感情など沸き起こるはずもなく、女性はどこまで男性を許し、受け容れることができるのだろうかと、そんなことを考えながらの彼との生活だった。芸術家気質の人であったから、彼にとっての私は、揺れる感情を描きつけるキャンパスで、その肝心の筆を持たせてくれたのが奥様だったのではないだろうか。私達の関係は、何かそんなものではないだろうか。言葉をかけるのもためらわれるくらい、消沈していた夜もあった。


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8、河合義隆監督 不倫同棲生活、南烏山時代(後期)

img04.jpg1989年 25歳

P.156
1989年初夏、成城の河合義隆監督の自宅へ。
おそうめんを3人で食べる。
妻、離婚については条件が整えばと答えた。
慰謝料と養育費はどうするの?と荻野目慶子は困惑する。

P.160
突然、河合義隆監督が離婚が成立したと言い出す。
荻野目が河合義隆監督を両親に紹介しようとすると、のらりくらりと逃げる。
結局、離婚成立は虚偽だと判明。荻野目慶子は河合義隆監督に別れを告げた。

P.163
荻野目慶子は自動二輪の免許を取りに教習所へ。

P.164
河合義隆監督がヌード写真を撮ろうと言い出す。
この写真は1994年「SURRENDER」というタイトルで出版された。
カメラマンの名前はSHARAKUとした。

P.170
河合義隆監督は暴飲暴食にひたり始め、太りだし、お酒でむくんでいった。家に閉じ籠もる日が多かった。

P.173
河合義隆監督が急に競馬に行こうと言い出した。
中山競馬場、二人の部屋から近い府中競馬場。

河合義隆監督は、態度が荒っぽくなり、お酒と脂っこいものの摂りすぎでいつもギラギラしていた。何か言うと手がつけられなくなりそうで、私はもう黙って見守るよりほかなくなった。

この後、事態は最終コーナーへ突き進んでいった。

ある舞台に出演中のある日、河合義隆監督から暴力を振るわれる。殴られ、蹴られ、ランプが割れた。この日以降、私は彼の自死の誘惑に怯えるよりも強く。「いつか殺される日が来るかもしれない」という強迫観念にとらわれるようになった。
この時、既に所属事務所から独立していた。

P.182
河合義隆監督は、しきりと太宰治の話をするようになった。心中をしに行く時の話だった。

P.183
河合義隆監督と荻野目慶子は、一緒に冬登山。死にきれず下山。

P.184
河合義隆監督は、生命保険の事ことを口走るようになった。

P.186
河合義隆監督は「じゃあね、今から死ぬから」と渋谷の旅館から電話をしてくる。警察が出動する騒ぎとなる。

P.187
河合義隆監督は、サム・ペキンパー監督の「わらの犬」をみせる。長い強姦シーンを嬉しそうにリピートさせながら、今度の映画でそういう場面を作るから、私に演れと言う。殴られ、犯され、また別の男に犯される。そんな、女の、役を。

1990年04月30日 荻野目慶子さん25歳の時。荻野目慶子さんの自宅マンションで、妻子ある河合義隆監督が首吊り自殺した。これ以降、荻野目慶子さんは、魔性の女と呼ばれる様になる。河合義隆監督の最後のメモ書きは「優しい 素敵な人になりたい うれしい」だった。

これ以降、荻野目慶子は10年に渡ってトラウマに苦しめられる事になる。

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9、不倫相手の自殺によって破綻した清純派女優

「女優の夜」には、荻野目慶子自身が、不倫相手が自屋で首吊り自殺をした事によって、清純派女優としての一切のキャリアと仕事を失って苦境に追い詰められた状態を振り返って、当時の自分の気持ちを呼び起こして書き記した文章がある。私の琴線に触れた部分を紹介する。

この事件の後、荻野目慶子は10年に渡ってトラウマに苦しめられる事になる。

P.203~206
まず、フラッシュ・バック。そして、女優として仕事をする上のイメージの問題だ。

「生きるため→仕事をする→そいう役を演じる→そういうイメージがつく→またそういう役がくる→生きるため」という食物連鎖のような悪循環が続いた。

当時、荻野目慶子は「フロム・ファーストプロダクション」に所属していて、初代社長の小口健二氏からの言葉を本の中に綴っている。

事務所の小口社長の言葉 P.209

スキャンダル以後、あずかって下さった事務所の小口社長を私は尊敬しているのだが、それは大きなところでの包容力と同時に、この仕事のこうした性質を、はっきりと悟らせてくれる言葉、その力がとてもストレートで力強いためだ」。女優はさらされる「万人の娼婦」の如き存在であり、この仕事を選ぶということは、「不安」を選び取ることであり、常に批判の対象である。甘えで仕事は取れないし、仕事は来ないし、仕事は続かない。何事も本人次第、それが「才能」と呼ばれるものである。1つの成功があっても次には失敗や中傷もあり、この仕事につく限り安定はない。それをこれほど明快に語る人に、私は会ったことがなかった。厳しいが、それは真実なのだ。私が難しい状況を抱えながらも、何とかこの仕事を続けてこられたのは、この小口社長の存在が大きかったことは言うまでもない。

調べてみると、フロム・ファーストプロダクションは、あの有名なバーニングプロから暖簾分けしてできた事務所で、荻野目慶子は初代社長の小口健二と一緒に移籍した形の様だ。

ウィキペディアからフロム・ファーストプロダクションを引用

フロム・ファーストプロダクション

株式会社フロム・ファーストプロダクション(FROM FIRST PRODUCTION)は、東京都千代田区に所在する日本の芸能事務所。初代社長は小口健二。バーニングプロダクションで郷ひろみのマネージャーを経験した後に立ち上げた。バーニングからの暖簾分けで設立された経緯から、今もバーニングの系列事務所である。初代社長は小口健二。バーニングからの暖簾分けで設立された経緯から、今もバーニングの系列事務所である。

ウィキペディアからバーニングプロダクションを引用

バーニングプロダクション

1971年(昭和46年)10月に設立。社名は当時の所属歌手・本郷直樹のデビュー曲『燃える恋人』に由来していると言われていたが、週刊現代の2016年11月26日号の周防のインタビューによれば藤圭子を担当していたあるディレクターの方がバーニングという名前を考えてくれたと話している。有能なマネージャーは暖簾分けのようにして独立させ事務所を設立させ、それらの事務所らと企業集団・バーニンググループを作り上げた。我らが小泉今日子もバーニングプロダクションの所属タレントである。

荻野目慶子自身が、姉妹間での比較される問題点を記述している。

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比較の問題 P.213

全ての職業に言えることなのであろうけれど、その職業特有のストレスは、周りからは窺い知れないことが多い。そうして問題も起こさず明るく元気にマイペースに進んでゆく妹は「陽」の存在となり、トラブルだらけの私は「陰」の存在となる。これは当時の状況を考えれば至極当然のことだったのだが、いよいよ孤立無援の感が強まり、劣等感や自己嫌悪をいっそうかきたてられ、闇のぬかるみへとはまっていった。

トラウマについての対処法として様々な事を試した上で、長い時間をかけての癒やししかないとの考えを示している。

トラウマ対処法 P.215

自分の心身が記憶してしまった悲しみや恐怖感というものは、他人のものとはスライドすることができない。だからそんな時には結局忍耐強く、自分も、周りも、時を過ごしてゆくしかないようだ。時間によって消えないものもあるけれど、薄れてゆくものは本当にある。長い時間は大きな揺り籠にようにして静かに癒しを進めていってくれる。

荻野目慶子さんがピンチの時に匿って、傷を癒やす場所を家族から提供されたのは何よりも幸運だった。

荻野目慶子の家族論 P.216

十年近い歳月をかけて、両親も、私も、少しずつ相手に近寄り、関係の修復を試みてきた。その長い時間をかけて今は良い状態に戻れている。現在は、6人の家族がそれぞれに、相手との距離を計りながら、お互いを気遣い、認めあい、緩やかな関係が保たれている。幼年時代からのことを振り返っても、そうして人間の絆が長い時間保たれてゆくところには、何て大きな犠牲が払われていたり努力が必要とされていたりすることだろう・・・ただそんなふうにトラウマを抱えてみて、心の底から実感できたことは、この世に何一つ「当たり前」のことなんて無いということだった。何かあった時、誰かに少しでも手をさしのべてもらえたら、それは本当に感謝すべきことだ、家族なんだから「そのくらいは当然」というものなど何一つない。全ては一人の人間に対しての、貴重な思いやりなのだと痛感した。家族は、重い。同時に、ありがたい。

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10、河合義隆監督の自殺

P.53
警察で河合義隆監督の奥様に土下座して詫びる

当時、荻野目慶子の実家は東京都墨田区にあった。実家にマスコミが押し寄せる。
表向き、入院したとするものの、成り行きで実家に身を寄せる事になる

河合義隆監督の自殺認定

河合義隆監督の奥様の態度 P.58

だからこそ、愛人の部屋で命を絶った夫とその愛人であった私に対し、咎めの言葉は一つも無く、「この件に関しては、これ以上何人(なんぴと)も傷つけてはならない」という言葉でマスコミに対処し、全てを終わられてしまえたのだろう。

原宿のマンションを引き払う時のエピソード

荻野目慶子が河合義隆監督にプレセントした写真集がみつからなかった。「青い鳥をさがして―ギャレン・バレル写真集」 (英語) ハードカバー 1987年04月 出版社名:グラフィック社 ページ数:99P ISBN:978-4-7661-0427-1。

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和紙の指輪 P.063

その中に、本当は一番入れて帰りたかった物があったのに、片づけの間中、捜したのだが見つからなかった。

それは、和紙の指輪だ。

私達がとてもよい状態にあった頃。ある朝、目覚めると、薬指にその指輪がはめられていた。薄いベージュの。ただ和紙をよじって結んだだけの。でもとても柔らかな感触。本物の指輪を買うことが彼にはできなかったので、代わりにその指輪をはめてくれたのだった。しばらくそのままはめていたのだけど、すり切れてなくなってしまうのが嫌で、しまっておいたはずなのに、どこをどう捜しても見つからない。彼が私にくれた物といえば、そのアクセサリー・ケースと菖蒲のペンダントとその和紙の指輪だけだった。一番大切にしたかった物を私は失ってしまった。指輪をすると、あの感触が思い浮かぶ。和紙でこよりのように作っている彼の姿が。そうする以外になかった彼の心が。

P.066
1991年 26歳の時
マンション訴訟問題が勃発。あんな事件が起こった事故物件は借りてがつかないので補償して欲しい。弁護士の対応ひどすぎ。

P.013
1991年04月、事務所の小口社長の深慮に従って一時日本から出国。
ニューヨークの中村喜春さん宅でホームスティ

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11、女優として再出発・深作欣二監督と不倫交際開始

P.068
1991年 27歳
「陽炎(1991年)」松竹の奥山和由プロデューサーから出演交渉。
五社英雄監督作品に出演。対人恐怖症だったが承諾。
河合監督の奥様に報告し、こんなにもすぐに映画に出演するという不謹慎さをお詫びした。更に、撮影は四十九日が過ぎてからとお願いした。出演が決まった後、五社英雄監督から届いたハガキにはこう記されていた。
「人生には生き地獄という言葉がある。死よりも重く、辛い生き地獄から
今 這いあがれ」。しかし、荻野目慶子が対面した時、五社英雄監督はすでに癌に冒されており、食道もない状態だった。

P.066
1991年 奥山和由プロデューサーから「いつかギラギラする日」のオーデションを受けてみないか?とニューヨークに電話がある。

オーデションの為帰国。

img06.jpg「いつかギラギラする日(1992年)」のオーディションで初めて深作欣二監督と出会う
撮影10目くらいに、宿泊ホテルで深作欣二監督と男女の仲になる。

P.34
数日間、私は感情を隠して夜を過ごした。監督は私の本当の状態には気づかれていなかった。照れ屋でいらしたから、撮影以外で私の顔を注意深く見ることはなかった。

P.37
映画監督。それは本当に特殊な仕事だと思わずににはいられない。私が関わった二人の監督はまるで違うタイプの人間ではあったが、共通していたのは自分が必要とするものに対しての貪欲さ、執拗さ、そしてそこに発揮される異常なエネルギーの強さだった。それ故に「監督」なのだろうと思わずにはいられなかった。

この時、荻野目慶子は、木村一八と一緒にバーニングプロダクションに所属、後にバーニングから暖簾分けしたフロム・ファーストプロダクションに移籍。

P.231
1992年 28歳
「いつかギラギラする日(1992年)」が終わってから
ひとり暮らしを始める。コンクリート打ちっぱなしの賃貸。

P.232
深作欣二監督との出逢いは、幸福と不幸の衝突だった。

P.232
深作欣二監督が勧めた映画「ジャックナイフ」トラウマを抱えたベトナム帰還兵の話。

荻野目慶子がみた深作欣二監督 P.233

この映画の中にトラウマという言葉は一度も出てこないし、深作監督からもこの言葉を直接聞いたことはなかったけれども、傷を抱えたきっかけがどのような経緯であっても、傷んだ心に最も必要なのは「人との対話」であることを、監督はこの映画で私に示してくださった。そうして抵抗したり内に閉じ籠もってしまったりする私を拒むことなく、心がほぐれてゆくのを待ち、対話をし続けてくれた。まさにジャックナイフのように、そこに居てくれたのだった。そうしながら言葉を交わしあえたおかげで、私はどれだけ救われていただろうか。家族も当の本人すらも、持て余すような状態の人間とつきあうのは、監督にとっても大変な労苦に違いなかったのだが、「いつも味方だから」「愛とは無償の行為を喜ぶパッションだから」という言葉をかけ続けてくれた。

P.236
1992年 28歳 ある夏の日
大洗海水浴場
茨城県緑岡村出身
茨城県東茨城郡大洗町

P.242
「グッド・バイ 私が愛した太宰治」
荻野目慶子出演。
1992/06/19~1992/06/19
FNN:金曜ドラマシアター

荻野目慶子が語るイメージ論 P.242

あのスキャンダル以降、強烈なイメージは増幅してゆくばかりで、出演依頼がたくさんあることなど望めるはずもなかった。ひどく限られた役柄しかもうできなくなってしまった上に、普段もそういう人間であるかのように周りからヒンヤリとした視線が返ってくることが、その頃の私にとっては重ねて辛いことだった。人は役柄で、人を判断してしまうものらしい。怖い役を演じていると、本当にそういう人間なのだろうと思われてしまうようだ。

1994年 30歳
「忠臣蔵外伝 四谷怪談(1994年)」5月で撮影終了
深作欣二監督作品 荻野目慶子出演

1994年 30歳
「人間・失格 たとえば僕が死んだら」
1994年7月8日から9月23日
荻野目慶子出演
スナックのママで、留加の母親。母子家庭で留加を溺愛しているが、最近息子の考えが理解できず不安に。

P.247
荻野目慶子「好きになった人の命を再び失うのは耐えられない」

1994年 秋 30歳
「忠臣蔵外伝 四谷怪談(1994年)」の試写の日に仲直り。
秋に仲直り

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深作欣二監督の芸術嗜好 音楽・絵画

オルフの「カルミナ・ブラーナ」
マーラーの「巨人」第三楽章
「仁義なき戦い」テーマ曲
「復活の日」のジャニス・イアン
「いつかギラギラする日」トランペットのソロ
萩原健一「ラストダンスは私に」
「華の乱」エリー・アーメリング「水の上で歌う」

横山大観の龍の屏風絵
曽我蕭白(そがのしょうはく)
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12、深作欣二監督 前立腺がん発症

P.007
胆石は薬で散らせる範囲のものだったが、血液検査に異常が出た。それがどこからくるものであるのか、なかなか判らず、検査がずいぶん長引いた。そしてようやく見つかったのが、前立腺の癌だった。もって3年の命の宣告を受けた時点で別れ話をする。

P.009
それから一年も経っていただろうか。採用された薬は幸いなことに予想以上の効果を上げ、癌細胞の数値が下がった。その機会に患部をレーザー光線でたたいて、周りの危険箇所を取り除くという手術が行われる事になった。


飲み忘れて癌の薬が山ほど溜まる P.256

監督は、そういう方だ。だから何か大変なことが起きても「まぁまぁまぁ、しゃぁないだろう」と言うことがとても多い。そしてこの「まぁまぁまぁ」の範囲が、凄く広いのである。監督が癌という病を抱えてからも、驚異的に元気でいられたのは、こんな「まぁまぁまぁ、しゃあないだろう」が生み出すナチュラル・キラー細胞のせいだとしか私には思えない。本当にありがたい細胞だ。

P.259
前立腺癌の周りの危険箇所を取り除く手術を行う事になった。
荻野目慶子は監督から言われて「パジャマ」を購入
術後、御見舞に出かけた。患者氏名に「水戸夏人(みとなつと)」。偶然、がん治療中の芦田伸介氏と病院内でバッタリ。この部分の記述で、荻野目慶子は既に「子供を産まない人生を覚悟」と綴る。

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13、セックスで音楽が聴こえる「共感覚」

P.006 P.010 P.267

荻野目慶子さんが深作欣二監督とセックスした時に「あの音楽が聴こえたのだ。」と記述している件。

あの音楽ってどんな曲って荻野目慶子さんにきいても、それは口遊む類のものでは無い。
精神分析の世界に「共感覚」というのがある。

ある刺激に対して、それだけでなく異なる種類の感覚を同時に感じる知覚現象のこと。音を聴くと、色が見えるといった現象もこれに当たる。

アクメに達し時に「宙に浮いている様な感じ」がすると同様に、荻野目慶子さんには「あの音楽」が聴こえたと言う事なのだろう。

共感覚

共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、synesthesia, synasthesia)は、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。感性間知覚。

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14、女優 荻野目慶子の再生と深作欣二監督との別れ

1997年 33歳
20世紀末黙示録 もの食う人びと (1997年、NBN)
名古屋テレビの開局35周年記念番組:ドキュメンタリー作品
もの食う人々(辺見 庸)のテレビ映像化、深作欣二監督作品

1999年 35歳
「おもちゃ(1999年)」深作欣二監督作品
この作品に荻野目慶子は端役でもいいから出演したかったが叶わなかった。
東京国際映画祭で初上映。
この後、荻野目慶子は深作欣二監督に別れを告げた。

「三文役者(2000年)」新藤兼人監督作品
1999年04月から05月に荻野目慶子は撮影参加
P.298 この「三文役者」は私に、毎日映画コンクールの助演女優賞までもたらしてくれた。本当に嬉しかった・・・ウレシカッタ!・・・と、荻野目慶子さんは、素直に文中で喜びを綴っている。

2000年 36歳
「三人姉妹(2000年:蜷川幸雄演出)」
水戸芸術館開2000年04月09日(日)14:00
荻野目慶子さん自身が、蜷川幸雄さんに手紙を出し、出演が実現した。
三人姉妹は深作欣二監督も「とてもおもしろかった」と喜んでくれた。

深作欣二監督との別れ P.305

「バトル・ロワイアル 」の映画化の話を聞いた時、私はいよいよ監督が御自分の世界へ帰っていかれることを感じた。荒々しいバイオレンスが炸裂するはずのその内容は、私の立ち入るスキのない世界だった。けれどもそれこそは、今、監督が撮るのにふさわしい作品だと思った。自分の帰るべき確かな場所を見つけた様子の監督へ、私は自分も旅立つ時が来たことを伝えた。監督は今度は静かに私の意志を受け入れて下さった。

2000年 36歳
バトル・ロワイアル (2000年、バトル・ロワイアル製作委員会)
深作欣二監督作品

2000年09月07日。荻野目慶子36歳の誕生日に深作欣二監督と再会。
荻野目慶子は北鎌倉に住んでいた。

P.208
2001年 37歳
以前に「女優・杏子(きょうこ)」というドラマでは、かなり誇張して描かれた部分もあったけど、与えられたシチュエーションに関しては、少なからず当たっているところもあった。

女優・杏子

「女優・杏子」(じょゆう・きょうこ)は、東海テレビ制作・フジテレビ系列で、2001年1月4日 - 3月30日に放送された日本の昼ドラマである。概要:うつみ宮土理原作の小説をドラマ化。往年の人気女優が、再起を図る物語。荻野目慶子の激しいベッドシーンが話題を呼んだ。作者のうつみも夫の愛川欽也と共に出演している。あらすじ:香月杏子は人気女優だが、様々なスキャンダルや我侭な性格から、スタッフに迷惑をかけ続け、遂に女優としての地位を一時は失いかけてしまう。しかし、演じることへの情熱を忘れられない杏子は、小さなオーディションから女優として再起を図る。

↑動画が消されていたらごめんなさい。

春眠 北鎌倉 37年間で初めての憩いの住み家
北鎌倉で癒された。約1年間(10ヶ月)お休み。

深作欣二監督が渡してくれたメモ

「あした 世界が滅びるともしても きょう 私は林檎の樹を植える」-コンスタン・ゲオルギウ(ルーマニアの作家)」

深作欣二監督の容態が悪化し北鎌倉を離れる。約10ヶ月の北鎌倉生活に終止符をうつ。

2002年 38歳
「三人姉妹」を追放されしトゥーゼンバフの物語(2002年、岩松 了脚本・演出)
「ダメよ!ダメなのよ、こんなことじゃ!」

2002年 38歳 
2002年10月15日「女優の夜」発表。 荻野目慶子38歳。幻冬舎から出版。

2003年01月12日 深作欣二監督亡くなる(72)。 11日の夕方から容態が悪化。妻の中原早苗と健太、菅原文太、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦や藤原竜也、らが臨終に立ち会い12日の午前1時、死去。72歳没。この時、荻野目慶子38歳であった。

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15、写真集 SURRENDER の出版

P.169
1994年「SURRENDER(委ねる・明け渡す)」と言うタイトルで発売された私の最初の写真集はこうして生れた。彼の死後、四年ほど経ってからの出版だった。

P.170
結局私は結婚もせず、彼との間に子供もいない。私にとってはこの写真が、唯一眼に見える子供のような存在だった。

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16、河合義隆監督と正妻と荻野目慶子の三者共謀関係

女優の夜 P.172

武田鉄矢のせんせいけらいになれ!(1984年、フジテレビ)

私は彼が演出した作品を、そうたくさん見ることはできなかったが、その中でも一番好きだったのは、「先生けらいになれ」というドラマだった。灰谷健次郎さんお同名の小説をドラマ化したものだった。そこに描かれた、様々な家庭環境を負う子供たちの姿、障害を持った子供や自閉した子供たちの表情を捉えた、あの眼差しは忘れることができない。

と、荻野目慶子さんは河合義隆監督を評している。

ウィキペディアからひろうと。

河合 義隆

(かわい よしたか、1947年1月18日 - 1990年4月30日)は、日本の映画監督・演出家である。不倫関係にあった女優・荻野目慶子の自宅マンションで首吊り自殺したことで知られる。

1947年(昭和22年)生まれ。新潟県上越市出身。
1965年(昭和40年)、フジテレビに入社。若くしてディレクターに抜擢された後はドラマ制作に活躍。その後、独立して制作会社、「ティンダー・ボックス」を設立した。
1985年(昭和60年)にはTBSのドラマ 『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』の演出に携わったが、これは荻野目慶子との不倫関係が始まる契機ともなった。河合は翌年、武田鉄矢主演の映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』で映画監督デビューした。
1990年(平成02年)4月、不倫関係がおよそ5年に及んだ荻野目の自宅マンションにおいて、首吊り自殺。

私自身は、事件当時も、河合監督の「か」の字も知らない人間で、荻野目慶子さんの「女優の夜」でしか存じ上げていない。ウィキペディアを見る限り、テレビマン出身で、主にテレビ界で活躍された方なのだなと言う印象。映画も1本のみ監督しており、これが「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年、東宝)」。

荻野目慶子さんの記述を鵜呑すると、監督として表現者としては成立する人なのだろうが、荻野目慶子さんと同棲を始めてからの河合義隆監督は、仕事なし、職なし、金無し、妻子と別れる事もできず、荻野目慶子のマンションに入り浸ってヒモ状態、更に暴力までふるうDV男で、親からみたら「さっさと別れてしまいなさい」と言う男でしかない。

一時期「だめんず・うぉ~か~」と言う作品が流行った事があった。「だめんず・うぉ~か~」=ダメな男(だめんず)ばかりを渡り歩いて行く(好きになってしまう)様な、男を見る目のない女と言う意味なのだが、この時の荻野目慶子さんは、まさしく「だめんず・うぉ~か~」である。

精神分析の世界に「夫婦共謀」と言う言葉がある。簡単に言うと凸凹コンビ。凸には凹がカップリングすると言う事です。

以下引用

例えば、セックスレスの夫婦やカップルにおいて、どちらか一方が外で別の人と性的な関係を持っているのを、もう一方も うすうす気付きながらも、あえてその問題を見ないようにして恋愛関係を続けるというケースは世の中 多いと思う。

以上引用

河合義隆監督の正妻の話をすれば、夫と愛人(荻野目慶子)の仲を公認していたのだから、夫と妻と愛人の3者の共謀関係である。所詮、まやかしの関係故に、その関係に永続性はなく、いずれ破綻するのは目に見えていて、河合義隆監督の首吊り自殺と言う最悪の形で、3者の共謀関係に終止符が打たれるのである。

河合義隆監督の妻が事件後「この件に関しては、これ以上何人(なんぴと)も傷つけてはならない」という言葉を吐いたとされるが、河合義隆監督の妻の目にも、遅かれ早かれ共謀関係は破綻する事が見えており、結果、それが首吊り自殺と言う形式になったとしても「ジタバタする事ではない」と腹をくくっていたに違いない。

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17、深作欣二監督と荻野目慶子の関係性 近親相姦関係の再現

私もそんなに深い映画マニアではないので深作欣二監督の作品と言えば「仁義なき戦い (1973年)」「いつかギラギラする日 (1992年)」「バトル・ロワイアル (2000年)」位しか記憶にない。仁義なき戦いは私が中学生の頃流行ったのを覚えている。

一見、武闘派と思われそうだが、荻野目慶子さんに言わせると、広大な知識と豊かな情緒をお持ちの方らしい。

私が持っている知識では、深作欣二監督は、終戦直前にひどい目にあい、日本帝国への不信感をもったと言う。「大人たちの言う事は嘘っぱちだ!」と。「バトル・ロワイアル 」は既成の秩序が崩壊したら社会はどうなるか?と言うテーマを惨劇で描いている。

遺作になった「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌 (2003年)」は、左翼過激派養成映画の様な内容で、正直「これがバトル・ロワイアルの続編?」と思った。

↑動画が消えてしまっていたらすみません。

深作欣二監督にしても立派な妻子持ち。妻は「女優:中原早苗」で長男は「後継映画監督:深作健太」。「いつかギラギラする日(1992年)」撮影時、深作欣二監督は62歳、荻野目慶子は28歳で34歳もの歳の差があるのだ。世間からすれば「なんでまた一線で活躍している女優さんがそんなお父さん以上の歳の人と不倫しなくても」と言う評価になるであろう。

「女優の夜」に荻野目慶子さんが書いたフレーズでこういうのがあった「私は男性の元に跪(ひざまず)きたいと願った。これは身体だけでなく、精神的にも、だ。」特徴的である。彼女の養育史を詳しくきいた訳ではないのだが、異性に対して「支配されたい欲求」や「従属したい」と言う欲求があったのだと推測できる。

更に、既婚者と関係を繰り返し継続しているのは、自分の父との関係の焼き直しと受け取れる。だって、自分の母と結婚している一番身近な人(既婚者)は「実父」以外に他ならないのだから。つまり、荻野目慶子さんにとって河合義隆監督も深作欣二監督も「実父」の代用品であったと理解すればこの不可思議な関係性を納得できる。不倫の相手でありながら、無理難題を要求されながらも、それを受け入れ継続できたのは、それが「父」-「娘」の近親相姦関係であったと解釈すれば納得。

女優:荻野目慶子からすれば「監督」や「演出家」の類は、跪く対象であったと言う事だ。

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18、荻野目慶子は魔性の女か?

ちなみに昨今、魔性の女アンケートをしたところ以下の結果が出たと言う。
500名の一般女性に「"魔性の女"だと思う女性芸能人は誰ですか?」とアンケート結果。
01位:高岡早紀(12.4%)
02位:沢尻エリカ(9.8%)
03位:石原さとみ(8.6%)
04位:紗栄子(7.8%)
05位:奥菜恵(7.0%)
06位:蒼井優(6.6%)
07位:葉月里緒奈(6.4%)
08位:ベッキー(4.8%)
09位:深田恭子(4.6%)
10位:松田聖子(4.4%)

そうそうたる顔ぶれだが「荻野目慶子」さんは既に忘れられた人なのかランクインしていなかった。男とくっついたり離れたり、離婚回数が多いとか、不倫報道されたりした顔ぶれがランクインしている様だ。

そもそも魔性の女とは、その妖艶な美しさ故、勝手に男が寄ってきて、入れあげて、身を滅ぼす・・簡単に女に翻弄される・・そんなイメージが有るのですが・・。

端からみれば「荻野目慶子は不倫ばっかりして」と映るかもしれないが、共謀関係から、男の方が勝手に寄ってくるのだし、荻野目慶子にしてみれば、新人OLが部長クラスの人間に言い寄られているような力関係だし、形式をみれば見事な凸凹パートナーなのだからこういうカップリングになっても仕方ないし、関係を解消しようと思ってもおいそれと解消できない状態になるのだ。

結果は、破綻するものと目に見えているものの、そうならざるを得ない状況になってしまう。事実、荻野目慶子自身も不倫状態を楽しんでいる節もあるし、人間の業と言うものの物悲しさを感じてしまう。

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19、荻野目慶子さんの近況

2012年 48歳
ネットの情報では2012年12月31日に、一般の男性と結婚されたとの事。

2015年 51歳
2015年04月10日 に公開されたYoutubeの動画には以下の注釈文が・・

アイ・ヘルパースクールの介護職員初任者研修修了生で、女優の荻野目慶子さんが-音楽クリエー-ションをもって介護施設へ慰問。最後はリンゴの唄でしたが、その後にアンコールをいただきました。アンコール曲は高校三年生。

荻野目慶子さんどうぞお幸せに。

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20、幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 再評価

↑Ronin 坂本竜馬の動画。消えてしまっていたらごめんなさいね。
荻野目慶子さんの著書「女優の夜」の中で自宅マンションで首吊り自殺をした河合義隆監督を窮地に追い込んだ原因として、その唯一の監督作品「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」について考察したい。

河合義隆さんが手がけた・・・
テレビ 幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(1982年、日本テレビ)
テレビ 幕末青春グラフィティ 福沢諭吉(1985年、TBS)
映画  幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年1月25日公開、東宝)

多分、テレビ版を映画化するのだからフジテレビで言えば「踊る大捜査線」が頭に思い浮かぶ。

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女優の夜 P.125 

二人の出逢いのドラマのあと、彼は一本の映画を撮っていた。それは彼が夢に見た、初めての映画だった。
「Ronin 坂本竜馬」というタイトルの付いたその映画は、以前にテレビで放送された「幕末青春グラフィティ 坂本竜馬」というドラマの映画化だった。そのスペシャルドラマが好評だったため、私が出演した「福沢諭吉」のドラマも、そしてその映画も、創られたのだった。自分のことを冗談で「白澤明」というくらい、映画監督になることを熱望していた人だったから、どのくらい意気込んでこの初めての映画に臨んだか、想像して余りある。
出演者の人数も多かったし、大きな黒船も登場した。時代劇というのはセットや美術のお金もかかる。制作費は億を超えていた。
その映画のハイライトになるはずだった、ラストの戦場シーン。兵士が敵の弾丸を受けて若い命を散らせてゆく-彼はその戦場を、ひまわりの花で埋めつくしたいと望んだ。ひまわりは彼の最も愛した花、生命の象徴だった。その撮影の時期に花が咲き乱れるよう、相当な数の種がそのロケ地に植えられ、育てられていったという。ところが異常気象に見舞われ、撮影前に花が全てダメになってしまった。けれど彼にとってはそのイメージがどうしても必要であったため、急遽ひまわりの花を全て植え直すことになった。スケジュールは延び、予算もオーバーしてゆく。

公開後、観客動員は悪くなかったらしいのだが、実際のところは判らない。けれどとにかく生じてしまった負債を、彼の所属する事務所が負ったらしい。そしてその映画の評価も期待したものではなかったようだ。私も公開当時、映画館に観に行ったのだが、ビートルズの音楽が軽快に流れたドラマ版の方が好きだった。この時の夏目雅子さんがまた、とても素敵だったせいもある。

こうして初めての夢の達成が、彼の絶望を招いた。

さて、多額の制作費をペイする程の興行収入が得られなかった「映画 Ronin 坂本竜馬」だが現在の評価はどうなのだろうか?AmazonのDVDの評価は37レビューで☆は4.6と高評価である。1986年から2016年と30年経った今、1986年の観客動員数や興行収入はさておいて、コンテンツそのものは高評価を得ているのだ。もし河合義隆監督がご存命なら70歳になられている筈で、きっとこの評価に目を細められたに違いない。

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21、おわりに

今月の月刊 精神分析いかがでしたでしょうか?

荻野目慶子さんの「女優の夜」を教材に、共謀関係・近親相姦の再現などを考察してみました。

現実には荻野目慶子さんから詳しい養育史を伺ったわけではないので、推測で書いている部分も沢山あります。・・・が、精神分析的視点とはこういうものなのか・・程度の興味を持っていただけたら嬉しいです。

では、また来月お会いしましょう。

ご意見ご感想は、

lacan.fukuoka@gmail.com

でお待ちしています。

2017年平成29年01月31日

月刊 精神分析 編集部A

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22、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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