少年A神戸連続児童殺傷事件 タイトル画像

1、はじめに

月刊 精神分析では、5号連続で「少年A神戸連続児童殺傷事件」を取り上げた。

2015年06月28日に「絶歌」の初版発行。
2015年07月07日元少年Aが33歳の誕生日を迎える。
2015年09月10日元少年Aのサイト「存在の耐えられない透明さ」を開設。
2015年10月12日有料メルマガ「元少年AのQ&元少年A」配信開始。・・・

とマジか?と次から次に事態が進行していく中で、関連本を取り寄せたり、ネットや動画でから事件の全体像や元少年の精神構造の考察に多大な時間を要する事となった。

事件を考察している最中に、事件の加害者が著書を出版したり、サイトを開設したり、有料メルマガの配信を開始したり、え?あ?と考える間もなく事態が推移していく事自体に危うさを感じ続けた。

今回のサイトの発行で一応「神戸児童連続殺傷事件」の少年Aに関しての考察を終了しようと思います。

ご意見ご感想は
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でお待ちしています。

2015年平成27年10月31日

月刊 精神分析 編集部A

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2、少年A像を推測

 事件当時、少年Aは14歳。神戸市立友が丘中学校の三年生。逮捕後、須磨警察署の留置場で15歳の誕生日(1997年07月07日)を迎える。当時の少年Aは東慎一郎と言う名前。三人兄弟の長男。年子で下に次男、三男がおり、事件被害者の土師淳君はAの弟(三男)の同級生。少年Aと兄弟は、拾ってきたカメを自宅の家で飼っており、カメをみにA宅に遊びに来ていた土師淳君と少年Aは以前からの顔見知りだった。「絶歌」の中には淳君と少年Aが一緒に遊んだ事も記述されている。以下に引用する。

絶歌 P.122

 警察の取り調べでも、精神鑑定でも、僕は淳君に対して、憎しみも、愛情も持ったことはなく、淳君と自分との間の情緒的交流を一貫して否定し続けた。人は、秘密を持つことで生きていけるのではないだろうか。それは自分の内側に設けるシェルターのようなもので、どんなに追い詰められようと、その中に逃げ込んでしまえば安心できる。体の自由を奪われようと、誰にも侵されることのない秘密の中では、人は自由に駆け回ることができる。僕と淳君との間にあったもの。それは誰にも立ち入られたくない、僕の秘密の庭圉だった。何人たりとも入ってこられぬよう、僕はその庭園をバリケードで囲った。凶悪で異常な根っからの殺人者だと思われても、そこだけは譲れなかった。誰にも知られたくなかった。その秘密だけは、どこまで堕ちようと守り抜かなくてはならない自分の中の聖域だった。

 淳君の愛くるしい姿を、僕は今でもありありと眼の前に再現できる。

 身長は140センチ前後。細くさらさらとした栗色の髪には、いつも天使の輪が落ちていた。額は広く、肌の色は白く、少しぽっちゃり体型で、近付くと桃のような甘い匂いがした。眉は薄く、大きなアーモンド型の眼は、瞳の色素が薄く透き通り、きれいな虹彩の模様がくっきりと見えた。

 淳君が初めて家に遊びにきたのは、ちょうど祖母が亡くなった頃だった。その時から僕は淳君の虜だった。淳君はすぐに僕の名前を覚えてくれて、近所や学校で僕を見かけると、すーっと僕のほうへ近付いてきた。

 祖母の死をきちんとした形で受け止めることができず、歪んだ快楽に溺れ悲哀の仕事を放棄した穢らわしい僕を、淳君はいつも笑顔で無条件に受け容れてくれた。淳君が傍にいるだけで、僕は気持ちが和み、癒された。僕は、そんな淳君が大好きだった。

 街で淳君を見かけると、僕はよく、タンク山、向畑ノ池、人角ノ池など、自分の好きな場所に淳君を連れて行った。

 ある時、近所の公園で見かけた淳君と、隠れんぼをして遊んだ。僕が隠れる番になり、公園の植え込みに身を潜めて、そこから淳君の様子を窺うと、始めのうちは楽しそうにはしゃいであちこち探しまわっていた淳君が、そのうち不安になったのか、急に僕の名前を呼んで声をあげて泣き出した。その瞬間、祖母のことを思い出した。ちょうど同じ公園で、僕が祖母に木登りを見せ、木のてっぺんに辿り着いたところで、「A、早ぉ降りてきて」と、僕を心配して泣き叫ぶ祖母の姿が、記憶のスクリーンに鮮明に映し出され、すぐそこで僕の名を呼び泣き喚く淳君の姿とオーバーラップした。

 自分は受け容れられている。自分が何をしても、しなくても、淳君は自分を好きでいてくれる。だがどういうわけか、僕は、自分が"受け容れられている"ことを、受け容れることができなかった。あの時祖母にしたように、淳君のほうへ駆け寄って、淳君を抱きしめることができなかった。穢らわしい自分、醜い自分が許容されることに、嫌悪感さえ感じた。

 かつて僕をもっとも癒し安心させ悦ばせた、いかかるものも原型そのままに受容する水のような優しさが、この時の僕を脅かし、混乱させた。
 あろうことか僕は、淳君がこちらに背を向けている隙に植え込みから抜け出し、泣き喚く淳君を公園に置き去りにしたまま、逃げるように家に帰った。

 僕は、自分か、自分の罪もろとも受け容れられ、赦されてしまうことが、何よりも怖かった。余りにも強烈な罪悪感に苛まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。僕は罪悪感の中毒者だった。罪悪感は背骨のように僕を支えた。それを抜き取られる
と僕は、もう立っていられなかった。自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐え難い、自分への「冒涜行為に」に他ならなかった。

 憎まれたい。責められたい。否定されたい。蔑まれたい。ひりつくような罪悪感に身悶えしたい。それだけが「生」を実感させてくれる。

 この数日後に、僕は学校で淳君を殴った。

 グラウンドで淳君に暴力を振るっだのは、淳君が僕にちょっかいを出してきたからでも、淳君が何か気に障ることを言ったからでもない。あの日、淳君は、グラウンドをひとりでぶらぶら歩いていた僕に、リズム感のズレた独特のスキップを踏みながら近付き、僕の袖を引いて、
 「吊り輪、吊り輪」
 と、天使のような笑顔で、グランドの隅の吊り輪を指差し、僕に一緒にそこへ行ってもらえるように促しただけだった。

 ー自分は受け容れられているー

 どういう心理の捩れが生じればそうなるのか、この世界にいっさいフィルターをかけることなく、美しいものも醜いものも、視界に入るすべてのものをありのままに取り込んだ淳君のきらきら輝く瞳に、自分も含まれてしまうことが、耐えられなかった。僕は自分が侵され、溶かされていくような激しい恐怖に囚われ、気かぶれたように淳君にとびかかり、馬乗りになって殴りつけていた。

 いったい誰が信じられるだろう。受け容れられることで深く
傷つくような、蛆がわき蠅がたかるほどに腐敗した心がありうるということを。

 僕は、淳君が怖かった。淳君が美しければ美しいほど、純潔であればあるほど、それとは正反対な自分自身の醜さ汚らわしさを、合わせ鏡のように見せつけられている気がした。
 淳君が怖い。淳君に映る自分が憎い。
 淳君が愛おしい。傍に居てほしい。
 淳君の無垢な瞳が愛おしかった。でも同時に、その綺麗な瞳に映り込む醜く汚らわしい自分が、殺したいほど憎かった。

 淳君の姿に反射する自分自身への憎しみと恐怖。僕は、淳君に映る自分を殺したかったのではないかと思う。真っ白な淳君の中に、僕は「黒い自分」を投影していた。

 「抱きしめたい気持ち」の白い縦糸。
 「無茶苦茶にしたい気持ち」の黒い横糸。

 その白黒の糸を通した二本の針が、僕の心を交互に突き刺し、隙間なくぎっちりと縫い塞いだ。

 淳君の瞳が映し出す醜い自分を消し去り、綺麗な淳君を自分のそばに引き留めたい。
 この二年後、僕は淳君と自分自身を、タンク山で同時に絞め殺してしまった。
 僕の頭上に、虚っぽの空が拡がっていた。太陽は太陽であってもう太陽でなく、雲は雲であってもう雲ではなかった。

確かに既存の出版物や証言では、少年Aと土師淳君の接点は「Aの自宅にAの弟の同級生の淳君が亀を見に来ていた顔見知り」と言う関係で、淳君が絞殺された日も、たまたま、Aと淳君が偶然、多井畑小学校の近くで二人が出会ってしまったからと流布されていた。事件から20年経って初めて「少年Aと土師淳君の情緒的関係性」が明らかになったのである。

父は、川崎重工(神戸市中央区東川崎町3丁目1番1号)で船舶関係の電気技師をしていた。中卒で沖永良部島から集団就職で神戸に嫁いでいた親戚を頼りに移住。電器店で働きながら資格をとり、後に、川崎重工に転職。

母は、専業主婦。母の母(Aと同居の祖母)も沖永良部島の出身者で鹿児島に嫁いだ後、神戸に移住。事件当時の少年Aが暮らしていた家は、母方の祖母所有の家であり、少年Aの父はマスオさん状態であった事になる。

絶歌に掲載されている祖母と4歳になるちょと前のAの写真に写っている祖母は母方の祖母であり、少年Aは実母より祖母との関係が深く、祖母の死後、祖母の部屋で電気按摩器で初の射精を経験したと語っている。

Aの家庭は特に教育に熱心だったわけでもなく友が丘中学校でのAの成績は芳しいものではなかった。祖母の死後、小動物やネコを殺して解剖するなど「死」に対して興味を持つ。ナイフやホラービデオの万引きや喫煙、学友に対しての暴力、異様な絵やオブジェの作成など、素行が荒れ始める。

心理学的な分析をすれば「精神分裂症」一歩手前と言うところだろうか?。

精神発達論からみれば、何らかの原因で、母子関係が破綻し、祖母孫関係の中で少年Aの精神が発達していた事になり、祖母の死によって、精神分裂(精神統合失調)が始まったと推測できる。そして、現実とビデオの中のホラー(恐怖作品)の区別がつかなくなった。

少年Aは土師淳君の生首を友が丘中学校の校門に晒す直前に『ブレインスキャン(BRAINSCAN)』(1994年)を自宅二階の自室でリピート再生していたと絶歌の中で語っている。

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14歳の少年Aの心中は如何ばかりであったろう?他人からみれば「キチガイ」であり、自分の周囲には絶対にいてほしくない人である。

感情を表に出さない・・何を考えているのかわからない。
創造物は工作、作文、絵画はグロテスク・・異型なもの。
趣味は小動物の解剖。
親に隠れて、万引き(ナイフ、ホラービデオ)、喫煙、弱いものへの暴力行為。

この流れでいくと、そのうち、見境なく近所の子どもでも刺しかねない。

普通に考えて少年Aは危険である。

神戸市立友が丘中学校の女性教師を少年Aの異常性を見抜きAの周囲に注意を促していた。以下にその件の文章を引用する。

絶歌 P.83

 中学二年のときのことだ。中学校の女性教師がダフネ君やアポロ君を個別に呼び出し、僕には近付くなと忠告した。僕はそのことをダフネ君に打ち明けられ、強いショックを受けた。  僕は他人とコミュニケーションを取ることが極度に苦手で、友人も少なく、クラスでも孤立していた。そういった状況でダフネ君からこの話を打ち明けられ、女性教師は自分を排除しようとしている、自分の居場所を奪おうとしていると、過剰に被害的に受け取り、強い敵意を抱いた。

 だが今になって冷静に振り返ると、子供を見るプロである教師という職業に就く者に、そこまで言わせてしまう自分とはどういう子供だったのだろう、と自問せざるをえない。僕はろくに話をしたこともない相手に自分の抱える異常性を見抜かれて逆上し、見当違いな逆恨みをしただけではないのか。

 事実、後にその女性教師の忠告を聴かず僕のそばにいてくれたダフネ君に対し、僕はひどい暴力を振るい、彼の心も身体も傷付けた。彼女が言ったことは正しかった。何ひとつ間違ってはいなかったのだ。

 他人の善意をすべて逆手にしか受け取れない人間に、物事を斜め四十五度からしか見ことができず、常に他人を攻撃するための材料を探す人間に、近付く者、触れる者を傷付けずにはいられないドリルのような人間に、自分が傷付くことには敏感なくせに、他人の痛みにはこれっぽっちも想像力が働かない欠陥人間に、何より、あのような事件を起こしてしまうような、人間とは呼べないケダモノに、いったい誰が自分の大事な人を近付けたいと思うだろうか?「排除された」と息巻く前に、自分の中の他人の居場所を、自分自身で潰していたのではないのか? 本当は他の誰よりも自分で自分の異常性に気付いていたのではないのか? だからこそ女性教師の言葉に過敏に反応してしまったのではないのか?

 このままでは取り返しのつかないことになるという予感があったのではないのか?自分のことを心配してくれる人がいたことも知っていたのではなかったか? それでも助けを求めず、自分に嘘をつき、自分を誤魔化し、自分の抱える異常性と向き合うことから逃げて逃げて逃げ抜いて、ことあるごとに誤った選択を繰り返し、自分で自分を追い詰めて、結果あのような事件に至ったのではないだろうか

以上が「元少年A」による「少年A」の自己分析である。的を得ていると思う。

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3、少年Aの精神鑑定

 1987年07月25日、少年Aは須磨警察署から神戸少年鑑別所へ。須磨警察署の捜査本部は解散する。

 捜査に関しては門外漢の私が言うのも何だが、そもそも重要犯罪の容疑者に関してなされる「精神鑑定」とはいかなるものなのだろうか?刑法上罪を問える精神状態にあったのか?罪を問われる側が「心神喪失状態」を装う事ができれば、罪を問えなくなるのであるろうか?「精神分析」と「精神鑑定」は明らかに異なるものであるが・・。

 今から刑事罰が課せられたり(少年Aの場合は例外)、高額な賠償金の支払い命令が判決として下されるかもしれない民事裁判が起こされるかもしれない前段で、しかも鑑別所の中で行われる精神鑑定である。よく言われるのは犯罪者が罪を逃れるためにキチガイのフリをする詐病(さびょう)の怖れも十分に考えられるのではないか・・・

 絶歌の中に、神戸少年鑑別所の中で家庭裁判所の審判を受ける前に行われた少年Aに対する精神鑑定医の「精神鑑定」の模様が以下の様に描写されている。

 1998年02月10日文藝春秋3月特別号に少年A供述調書掲載(14歳酒鬼薔薇聖斗の犯罪の全ぼう)が掲載されたものの、どのような精神鑑定がなされたのかは謎だったのだが、一部、元少年Aの「絶歌」に綴られている。

 興味深いので引用して紹介する。

絶歌 P.130

8月に入ると精神鑑定が始まった。
 鑑定医の意向で審判は一旦中断され、弁護士や家庭裁判所の調査官との面接もしばらくなくなり、犯行時の僕の精神状態の解明が最優先事項となった。僕は60日間かけて、鑑定医との面接や膨大な量の心理テストを受けることになった。
 初顔合わせの日、面談室に通されると、二人の鑑定医が待っていた。部屋の片隅のパイプ椅子に腰掛けた60歳前後の老紳士は、白髪のオールバックにティアドロップの眼鏡、チャコールグレイのスーツを着ていた。僕に椅子に座るよう促してから、デスクを挟んだ向かい側に座ったもうひとりは40代後半くらい。ネクタイなしのYシャツにスラックス、ボサポサに伸びた髪を真ん中で分けていた。僕の鑑定を依頼されたのは、部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けた老紳士だったが、実際に面談を担当したのはその助手であるこの人のほうだった。仮に「ワトソン」と呼んでおく。
 「初めまして、こんにちは」
 ワトソンはほとんど囗を動かさず、ぼそぼそとつぶやくように言った。初めてワトソンと面と向かったこの時から、僕は全身が強張るのを感じた。ダフネ君を殴っだ2日後の五5月16日から逮捕される4日前6月24日まで通った児童相談所の職員とも、取り調べにあたった百戦錬磨の刑事とも、明らかに異質なオーラを放っていた。
 優れた精神分析医は狩猟者だ。患者の精神のジャングルの奥深くに逃げ込んだ本性の足跡を辿り、逃げ道を先回りし、さまざまな言葉のトラップを用いて、根気強く、注意深く、じわりじわりと追いつめていく。そんな、人の心を見抜くために高度に訓練された者だけが持つ、無言の威圧感......それまでは相手が誰であろうと、自分が隠したいと思ったことは見抜かれない自信があった。だがワトソンの眼は、まるでこちらの言葉の裏にある本心を見透かしているようで、不気味だった。
 鑑定に一切協力せず、ダンマリを決め込むこともできた。だが僕は、未だかつて遭遇したことのないタイプの「強敵」を目の当たりにし、心が震えた。武者震いだった。恐怖心は一瞬にして闘志へと挿げ替わった。
 隠したいことは隠したまま、それまでせっせと溜めこんだ異常快楽殺人のマニアックな知識を総動員して、白分が思い描くとおりの「異常快楽殺人者」のイメージ像をこの人に植え付けたい衝動に駆られた。
「イメージ」と「情報」と「言葉」。この3つが僕のリーサルウェポンだった。
 14歳当時、まだ一般に携帯電話は普及しておらず、僕の知る限り近所にネットをつないでいる家は一軒もなかった。それでも「情報化社会」の波は急激に押し寄せていた。自覚はなかったが、その頃から僕はどうやら「情報ジャンキー」のようだった。携帯電話やネットがなくても、テレビの前に何時間も座り、暇さえあれば本屋に入り浸って立ち読みをする。それだけで自分が知りたいことは何でも知ることができた。僕の興味はいつも限局されている。決して幅広く情報を採集したりはしない。興味のないことには恐ろしく無知である。こういった人間はたいていの場合、時代の潮流に乗り切れずポツンと取り残
れてしまうのが常だが、どういうわけか僕の触角は、いつもその時代その時代をもっともよく象徴するジャンルにピンポイントで引っかかってしまう。そしてその極めて小さなスペースを掘り進めるうちに「時代の水脈」に行きあたってしまうのだ。

 僕は知っていた。カメラレンズを絞るように、眼を窄め、視界を制限することで、事物の解像度が増すことを。「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」とはこのことだろうか。
 ネット社会に生きる僕たちが普段、無意識に吸ってば吐き出している「空気」は、「酸素」と「窒素」と「情報」から成っている。僕たちは呼吸するたびに、夥しい数の情報を取り込んでは垂れ流す。
「弱肉強食」の観点から見た場合、世の中には二種類の人間しかいない。「情報を生み出せる人間」と「情報を受け取ってシェアするだけの人間」だ。前者が「強者」で。後者が「弱者」となる。
 どんな情報を持ち、どんなツールを使い、誰に向かって発信するかで、この社会におけるその人の立ち位置や価値が決まる。
 カネもコネもないのであれば、手の届く場所にあるツールは何でも使い、「情報の武装化」を押し進めるしかないのだ。
 簡単な自己紹介が済むと、ワトソンはいきなりこんな質問をした。
「嫌だったら答えなくていいんだけども、君はマスターベーションの時にどんなことをイメージするの?」
 彼はのっけから核心に切り込んだ。僕は内心、動揺しまくった。
 なぜだ?
 なぜわかったんだ?
 誰にでもまずその質問をするのか?_
 それとも僕に会う前から、僕が性に深刻な問題を抱えているのではないかと「アタリ」をつけていたのか?
 面談室から逃げ出したくなった。へ夕な小細工やまったくの作り話が通用する相手ではない。「肉を切らせて骨を断つ」でいくしかない。僕は祖母の部屋での精通と淳君に抱いていた両価的な想いだけを隠し、あとは極端に事実を捻曲げたりせずに、自分なりに考えた「史上最年少シリアルキラー」のストーリーに沿って話すことにした。
 簡単に理解させはしない。それは僕の精神のジャングルに分けいってくるこの孤独な狩猟者への、僕なりの。礼儀"だった。
 僕は動揺を悟られないように平静を装いながら静かに答えた。
 「人を殺して身体を裂き、内臓を貪り喰うシーンを想像します」
 ワトソンは後ろの老紳士のほうをチラリと見て視線を交わした。やはり最初からアクリをつけていたのだ。事実のちに彼らは、
 「この最初の質問で事件の構図の90パーセントが把握できた」
 と語った。
 僕は、淳君と自分との間にあった情緒的な関与については、彼がいくら、
 「本当に誰でも良かったの?」
 「相手が淳君じゃなくてもあそこまでやったの?」
 とカマをかけても、常套句的に「何もありません」と否定し続けた。その不自然な一
性が、逆に淳君と僕の間には何かがあるという確信を彼の中に芽生えさせたようだった。性障害について話すのは辛くて嫌で仕方なかった。その話になるといつも祖母の顔が頭をよぎった。
 僕はワトソンに畏怖の念を抱いたが、同時に個人的な「好感」も持った。人間の精神を「分析」して「カテゴライズ」することが彼の仕事ではあるが、彼自身は「理解する」ことよりも、「自分の理解が及ばないもの」との遭遇を求めているように見えた。
 彼の中に、自分と同じ「屈折した探求者」のニオイを嗅ぎ取った。僕も彼も、ある意味、自身の「快楽」に忠実な人間だった。

 快楽"とは何か?

 大薮春彦著『野獣死すべし』の中に、快楽についてのこんな記述がある。

 現世の快楽を極めつくし、もうこの世に生甲斐が見出せなくなった「時」が来たら、後はただ冷やかに人生の杯を唇から鱚し、心臓に一発射ち込んで、生れて来た虚無の中に帰っていくだけだ。
 彼にとって、快楽とは何も酒池肉林のみを意味するもので無かった。キャンバスに絵具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃だけを持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何か月も跋渉する事だって、彼には無上の快楽となり得た。
 快楽とは、生命の充実感でなくして何であろうか。大薮春彦『野獣死すべし」
(中略)
 人の数だけ快楽の種類はある。
 僕の精神鑑定にあたったワトソンは、人間の精神のジャングルの奥深くに分け入り、そこに潜む「異常心理」という獲物を仕留めることに、その獲物を追いつめるプロセスそれ自体に、無上の快楽を覚える一種の「変態」であったように思えてならない。

 僕は彼のそこが好きだった。

 少年は、自分の侵されざる領域を守るために「祖母の部屋での精通と淳君に抱いていた両価的な想いだけを隠し、あとは極端に事実を捻曲げたりせずに、自分なりに考えた"史上最年少シリアルキラー"のストーリーに沿って話すことにした。」のである。

 家庭裁判所に精神鑑定医が「精神鑑定書」を提出したのは2ヶ月後の1987年10月02日であった。

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4、少年Aの精神構造(祖母の死)

少年Aの両親が出版した本「少年A」この子を生んで......―父と母悔恨の手記 (文春文庫)に目を通すと、特に目立った親子関係の破綻を読み取る事ができずにがっかりした。記述してあるのは、少年Aの逮捕後、A家族が警察やマスコミに翻弄され、あれよあれよと取り調べをされ、家族は親戚宅に身を寄せたのち、少年Aの兄弟は他県で施設暮らしを始める事になった事と、母親はどうしても自分の息子が事件を起こした事を受け入れられず、被害者遺族への謝罪が後々になってしまったと綴られていた。

絶歌の中にも

母の態度にショックを受けたという記述があった。

少年Aの著書「絶歌」になぜに土師淳君を殺害するに至ったか?と言う明確な説明はなかった。一つ明確に理解できるのは、母子関係でなく、祖母孫関係の終了「祖母の死」から少年Aの世界が崩れてしまったと言う事だ。傍目にはわからなかったかもしれないが、自身が立っている半径1メートルの地面以外は全て音を立てて陥没し、少年Aの魂は漂流を開始したと言う。

 興味深いので引用して紹介する。

絶歌 P.43

 これが祖母なのか?

 入院の日、僕の両頬を両手でつねり「すぐ帰ってくる」と言って出て行った祖母と、今自分の眼の前にあるこの物体が、「同じ人」だとはどうしても認められなかった。
 祖母はどこかよそへいるのだ。これが祖母であるはずがない。そんなことがあっていいわけがない。

 だが眼の前にいるのは確かに僕が愛し、僕を愛してくれた祖母だった。冷たく固い、得体のしれない物体と化した、祖母だった。その囗はもう二度と僕の名を呼ぶことはない。その手はもう二度と僕の頬を優しくつねってはくれない。

 自分の内部から何かがごっそりと削り取られたのを感じた。確かな消失感が、そこにあった。僕はこの時はっきりと悟った。「悲しみ」とは、「失う」ことたんだと。

 僕はひどく困惑した。外からはわかりにくかったかもしれないが、ほとんどパニック状態だった。だが周囲の者たちは、皆一様に、僕の眼からは冷淡なくらい冷静に、この状況を受け容れているように見えた。僕はそのことにいっそう戸惑った。僕にはぜんぜん「仕方のないこと」ではなかったからだ。僕には、「祖母のいない世界」を受け容れるだけのキャパシティなどなかった。自分が立っている半径1メートルのスペースだけを残して世界じゅうの地面が崩れ堕ち、自分ひとりだけがぽつんと取り残されてしまったような恐怖と不安と孤独を感じた。僕を包み込んでいたこの世界は巨大なビニール袋のようなもので、そのビニール袋の"クチ"が祖母だった。その"クチ"が今まさに閉じられ、密封された。"世界の袋"は僕を閉じ込めたまま真空パックされるように急速に収縮し始めた。

 自分にとっては「世界の破局」のような状況を淡々と受け容れていく周囲の者たちや自分の前から突然姿を消した祖母にさえ、言い知れぬ怒りがこみあげた。

 人はどんなに辛いことがあっても、信じられるものを"錨(いかり)"にして危険な波に押し流されることなくこの世界と自分を繋ぎ留めておくことができる。その"錨"を失った時、魂は漂流船となる。

 祖母という唯一絶対の"錨"を失い、僕の魂は黒い絶海へと押し流されていった。

もっとも信頼し愛情を感じていた近親者の「死」

秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大が事件を起こすきっかけの一つとして「祖父の死」が取り上げられていた。

本来なら、母と子どもの関係の上で「よい母」から万能感を獲得したり、強固な自我を構築する筈なのだが、Aの場合、次男、三男が年子で誕生した為、母親がAに構ってやれず「おばぁちゃん子」になってしまい、祖母の突然の死によって、精神的に相当なショックを受け、構築していた何かが崩壊してしまったのではないだろうか?

この部分についてはもう20年以上前のAの精神構造を分析しなければ「解」は得られないのだが、今となってはすべて「憶測」の域を出ないのである。

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5、少年Aの兄弟関係

少年Aには弟達がいる。一つ年下の次男。二つ年下の三男である。少年Aと弟達の関係性について考える。

最初に言っておくが、兄弟間の関係性は千差万別である。

絶歌 P.263

少年院に初めて弟たちが面会に訪れた時のことを、僕は生涯忘れない。  2000年08月。事件から3年目の夏。僕は18歳、次男は17歳、三男は16歳だった。  僕は大きく深呼吸して、面会室の扉を叩いた。中へ入ると、父親と2人の弟がソファ に座っていた。

 僕は弟たちの変わりように驚いた。

 僕の家系では珍しくバッチリとした二重瞼(まぶた)で、肌のキメも細かく、髪の毛も細く茶色がかり、幼い頃はよく女の子に間違われた次男は、小麦色に日焼けし、中性的だった顔は彫りが深くなり、眼光は鋭く、上半身は完全な逆三角形で、Tシャツの袖から覗(のぞ)く二の腕は丸太のように太くがっちりしていた。その腕と、昔と変わらないピアニストのような細く繊細な指の対比が、たまらなく切なかった。苦難を乗り越えるために必死に努力したであろう姿が窺(うかが)えた。

 ぽっちゃりとした丸顔が印象的だった三男は、頬骨が張り出して精悍な顔つきになり、短髪の髪を整髪剤で立てていた。母親譲りの奥二重の優しい眼だけが昔のままだった。
 その二人の佇(たたず)まいは、事件から3年間の日々を、彼らがどれほど苦しみ、小さな肩を寄せ合い、歯を喰い縛って耐え忍んで生き抜いたのかを、どんな言葉より雄弁に物語っていた。僕は強いショックを受け、愕然とした。罪悪感の万力がぎりぎりと僕の心を圧し拉い
だ。
 弟たちの前に座っても、僕は彼らの顔を正視できなかった。立ち合っていた教官に促され、僕は二人に向かってやっと囗を開いた。
 「久し振り」
 二人はぎこちない笑顔で頷いた。それから僕はどう言葉を継いだらいいのかわからなくなり、何を思ったのか、いきなり少年院の日課や時間割について二人に話し始めた。何時に起きて、日中はどんなことをして、お風呂は週何回で、夜は何時に寝ているとか、そんなどうでもいいことを、僕は一方的にしゃべった。本当は、二人に会ったら真っ先に、ちゃんと謝るはずだった。ぞれなのに、まるで別人のように逞しく成長した二人の姿を見て、すっかり大人っぽくなった二人のその顔に、くっきりと濃く深く刻み込まれた苦悩の痕跡を見て、自分の知らないところで、二人がどれほど苦しみ拔いたのか、自分が施設の中でのうのうと守られているあいだ、二人はどれはどの痛みを乗り越えたのか、それをはっきりと眼の前に突きつけられ、二人にいったい何をどう謝ればいいのかわからなくなってしまい、混乱して、そんなどうでもいい話しかできなかった。

 僕が話し終えると、次男は少し笑って、
 「健康的やな」
 と、ぽつりと言った。しばらく沈黙が流れ、今度は三男が、飲食店のアルバイトの話「注文を取る時のコツなど」をした。僕は少年院の中で標準語を使い、父親や母親が面会に来た以外は、まったく関西弁を使うことも聞くこともなかった。三男のコテコテの関西弁を聞きながら。
 「こんなに訛り強かったけ」
 と、ぼんやり思った。
 面会の終了時間が迫った頃、僕は意を決して、背筋を伸ばし、二人に向かって、
「僕のせいで、二人に辛い思いをさせてしまって、本当に済みませんでした」
と謝り、頭を下げた。恐る恐る顔を上げると、次男が口元を震わせ、必死に何かに耐えろように前屈みになり、やがてこらえきれなくなって、その場で声を押し殺して泣き崩れた。辛く苦しい、忌々(いまいま)しい記憶を思い出させてしまったのだと思う。
 泣き崩れた次男の隣で三男は、やっとの思いで、震える涙声でこう言った。
「Aを恨んだことはない。今でも、Aが兄貴で、良かったと思っとる」
 三男のその言葉に、胸が締め付けられ。僕が兄貴で良かったなんて、そんなはずはない。自分の友達の命を奪った僕に、なぜ三男はあんなに優しい言葉をかけたのだろう。なぜ、こんなんにも苦しめた僕のことを、僕よりもずっとずっと苦しんだ三男が、気に懸けてくれるのだろう。

 面会時間が終わって退室する時、僕はドアの前で振り返って、最後にもう一度二人に頭をを下げた。すると、泣き止んだ次男が、真っ赤に腫れた眼で僕の眼を見据え、頷きながら、右拳をぎゅっと握りしめて、
"頑張れよ"
 というふうに、小さくガッツポーズをとった。それを見た僕は、こみ上げてくる感情を堰(せ)き止めるのがやっとだった。
 房に戻され、扉が閉まると、僕はトイレに駆け込み、膝をつき、壁におでこをなすり
け、二人の名前を声に出して呼びながら泣きじゃくった。冷たい壁に向かってではなく、どうしてちゃんと二人の前で、そうやって謝れなかったのだろう......。

 そのあと、二人の弟への謝罪の気持ちを手紙に書いて出した。許してもらえるとは思わなかった。ただ、どうしても、弟たちに対して心の底から申し訳ないと思う気持ちを、二人にしたことへの後悔や反省を、拙い言葉でもはっきりと眼に見える形にして伝えなくてはならないと思った。

 数週間後、二人から返事の手紙が届いた。次男は、自分が好きな漫画のことを書き、手紙の最後のほうには、
 「俺もAも、絶対に抜け出せないと思っていたあの迷宮から抜け出した」
 と書かれていた。僕はその言葉を眼にした時、次男が、こんなに彼を苦しめた僕と一緒に、苦しみ、共に闘ってくれていたのだという気がして、嬉しくて、申し訳なくて、涙が止まらなかった。

 小学校三、四年の頃、次男と近所の公園の砂場に遊びに行ったことがあった。原因はよく覚えていないが、そこへあとから来た、同じ小学校に通う上級生と僕が喧嘩になり、僕は砂場の中へ引き倒され、足蹴(あしげ)にされた。砂まみれになって無様に蹲(うずくま)る僕を、次男は砂場の端から見ていた。

 上級生か公園から去ると、次男は僕の元へ駆け寄り、
 「A、少林寺で強くなって、一緒にやり返そ。オレも頑張るから」
 と言って励ましてくれた。この頃、次男は僕と一緒に少林寺の道場に通っていた。次男は眼に涙を溜めていた。人の痛みに敏感な、兄思いの、優しい弟だった。この時の彼の涙を思い出すと、切なさと罪悪感が胸を圧搾(あっさく)する。あれほど兄思いの、優しい弟の人生を、僕は滅茶苦茶にしてしまった。

 次男があの迷宮から本当に抜け出してくれたのなら、僕はどんなに救われることだろう。でも僕のほうは、「あの迷宮」からは抜け出せない。僕は多分、一生抜け出せないと思うし、抜け出してはいけないとも思う。抜け出すのは辛い。弟たちにしたことへの罪悪感にちゃんと苦しんでいないと、自分を保てない。

 物心ついた頃から、ことあるごとに僕は次男に因縁をつけ、わけもなく殴り、言葉の暴力でその繊細な心を傷付け、彼がチック症を発疱するほどに追い詰め、苦しめた。彼が大
切にしていた自転車を壊し、彼が丹精こめて作り上げ、机の上にいくつも飾ってあったガンダムのプラモデルを壊し、そして、彼の未来を壊した。

 いつからだったか、次男の宝物を壊したり、次男に暴力を振るったあとに、僕は次男の机の上に百円玉や五百円玉を置くようになった。僕も心のどこかでは、次男にしたことを申し訳ないと思っていたのかもしれない。あれが僕の精一杯の「ごめんなさい」だったのだろうか。そんなことで僕は彼に許してもらえるなどと思っていたのだろうか。そんなものより、ちゃんと言葉にして、気持ちを込めて謝ったり、それ以前に、彼に対してもっと優しく接することがなぜできなかったのか......。

 僕が小学五年の時だった。家族で親戚の家に向かう途中、車の中で、次男が僕にこう質問した。
 「A、なんで俺のこと嫌いなん?」
 僕は何も答えられなかった。次男は怒っているでも、責めているふうでもなく、ただ、とても悲しい眼をしていた。次男の眼は何もかもを見透かしているようだった。次男は、ちゃんと気付いていた。知っていた。理解していた。僕が彼を、憎んでしまっていたことを。あの時の、次男の眼。なぜ僕が自分を憎むのか、それがどうしてもわからず、純粋に不思議に思っている眼、どこか諦念のようなものさえ含んだもの憂い眼を思い出すたび、心が破裂しそうになる。
 僕は次男に、嫉妬していたのだろうか。勉強も、運動もできて、性格も明るく、友達も多く、親戚のあいだでも人気者で、自分にないものをすべて持っていた次男に。
 それとも、母親の愛情を自分ひとりだけに向けさせたくて、次男のことを疎ましく思っていたのだろうか。正直に言うと、自分でも、どうしてあんなに次男のことを傷付けなくてはならなかったのかが、わからない。わからないで済まされることではないと思う。でも、本当にどうしてもわからない。

 少年院に入ってすぐ、次男から初めて届いた手紙を今でも大切に持っている。当時彼は十三歳だった。便箋一枚に、次男の左手の手形が震えた鉛筆のラインで象(かたど)られていた。
きっと母親から僕に手紙を書くように言われ、でもどうしても何も書くことができなくて、次男は自分の手形を送ってくれたのだと思う。僕は少年院の独房でこの手紙を受け取り、机の土に置いた次男の手形に自分の手を合わせ、噎(むせ)び泣いた。
 あの手形を取った時の次男の小さな手は、いったいどれほどの不安と、恐怖と、やりきれなさと、悲しみと、僕への憎しみを抱えていたのだろう。それを考えると辛い。辛くて切なくてたまらない。本当に申し訳ない。今でも時々その手紙を取り出しては、次男の手形に自分の手を合わせる。そうすると、どんなに辛いことも、どんなに苦しいことも、この手形を取った時の次男の苦しみに比べれば、苦しみのうちには入らないと思えて、「もう少し頑張ろう」と自分を奮い立たせることができる。

 辛いはずなのに、苦しいはずなのに、そんなふうに僕を支えてくれた次男のことを、僕は本当に大事に思っている。事件の前も後も、ずっと苦しめ、傷付けてきたことを、心から悔いている。

 三男から届いた手紙には、僕を気遣い励まそうとする、優しく思い遣りに満ちた言葉が書かれ、手紙の最後はこうくくられていた。
 「何かあっても、Aはこの世でたった二人しかおらん、俺の大事な兄貴やからな!!」 その言葉は、三男が、彼自身に向かって叫んでいる言葉のようにも思えた。僕には三男のそんな優しさが苦しかった。

 よく一緒に遊んだ、仲の良かった友達の命を、あんな残虐なかたちで奪った犯人が実の兄だったと知った時の三男のショックや恐怖、絶望感は、想像を絶していたと思う。それでも三男ぱ恨みごとひとつ言わず、僕を気遣い、励まし、優しい言葉をかけ続けてくれた。そんなふうに僕を優しく気遣う三男に、僕はこれまでどれほどひどいことをしてきたのだろう。

 三男の顔をエアーガンで撃ってしまったことがあった。居間の窓ガラスに三男の顔をぶつけて怪我をさせてしまったこともあった。何も悪いことなんてしていないのに、泣きながら謝る三男の頭を、何発も何発も、強く殴り続けたこともあった。どんなに痛かったろう。どんなに怖かったろう。そして三男の大事な友達の命を、あんなかたちで奪い、三男の人生をむちゃくちゃにしてしまった。どんな時も僕に優しくしてくれた三男に対して、自分がこれまでにしてきた数々のひどい仕打ちを思い返すと、自分を思い切りぶん殴りたくなる。

 なぜ僕が三男の兄として生まれてきたのだろう。誰に対しても分け隔てがなく、余りにも優しすぎる心を持った三男とは、似ても似つかない、まったく正反対の、僕みたいなやつか。三男がもしも憎しみや怒りを僕にぶつけてくれたのなら、僕を罵倒して、自分がされたのと同じように僕を殴りつけてくれたのなら、僕はもっと楽になったと思う。三男の優しさが、傷つけてほしいのに、癒そうとする、突き放してほしいのに、受け容れようとする、許されたくないのに、自分の心を押し潰(つぶ)してまで必死に僕を許そうとする三男のその優しさが、僕には拷問だった。

 二人の弟たちは、紛れもなく僕の「被害者」だ。

 そんな想いがあったせいか、せめて、弟たちを傷付け、たくさん泣かせた分まで、中国人の後輩には優しくしようと思った。そんなことで弟たちへの償いになるとは思わなかったが......。

兄は弟に、弟は兄に、大いなるコンプレックスを持ち続ける。同じ親から生まれながらも生まれついての生存競争(ライバル)関係にある兄弟は、他者からみて簡単に理解できない複雑なコンプレックス(無意識)を有する。

こりゃまたAや次男、三男が誕生した30年前からの養育史を母親から語ってもらわないとAの特殊な精神構造を解き明かすことはできないのである。

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6、少年Aの母親(絶歌の違和感)

精神分析の中で、最も重要視されるのが「母子関係」である。人が生まれて最初に結ぶ人間関係が母子関係であるので、精神の発達過程においてその重要性は誰もが理解できる事であると思う。

さて、少年Aの母親とはどんな人だったのだろうか?

「少年A」この子を生んで......―父と母悔恨の手記 (文春文庫)を読んでみても、土師淳君が行方不明になって地域の人たちが捜索している最中に美容院に行ってたり、少々空気が読めない人なのかな?と思った程度なのだが・・・

被害者遺族の土師守さんの著書「淳 Jun」を読むと、淳君が行方不明になっている日に、電話番に土師宅にやってきた少年Aの母は「たまごっちの世話」と「自分の息子の自慢話」に興じ、土師さんお親戚に迷惑がられたり、親切な人なのか?迷惑な人なのか?わからない人と綴られている。

被害者遺族からみた少年Aの母の見方は相当厳しいものになるのはわかるが、肝心の少年Aと母の関係を的確に言い表した文章がどこにも見当たらないのである。

絶歌 P.149

 そう、その通りだと思う。盲腸の千術が終わって目が覚めた時と、鑑別所で母親に悪態をついてしまった時の僕の気持ちは、同じだ。母親の顔を見て安心したんだ。あの罵声は本心じゃない。ずっと母親にそのことを伝えたかった。あの時の、涙を流す母親の顔が、僕を見つめる母親の怯えた眼が、ずっと頭から離れない。胸の中にしこりとなって残り、今なお僕を苦しめる。

 家に居た頃、居間のテレビでよく母親と一緒に映画を見た。面白そうな映画を選んでは、母親に「洗い物はあとにして一緒に見ようよ」と声をかけた。僕は母親とコメディー映画を見るのが好きだった。映画が見たかったわけじゃない。映画なんかどうでも良かった。おかしな映画を見て、自分の隣で声をたてて笑う母親の笑顔が見たかっただけだ。僕がこの世でいちばん好きだったものは母親の笑顔だった。

 キッチンで母親と二人っきりになると、僕は毎度のように、
「兄弟三人の中で誰がいちばん好き?」
と、母親に尋ねた。すると母親は唇の前に人差し指を立てて、ヒソヒソ声でこう言った。「あんたに決まっとおやん」
 実際は母親の愛情は兄弟三人に分け隔てなく、まったく平等に注がれていた。僕を喜ばせるために、母親がそう言ったことは知っていた。でも僕は母親の「いちばん」になりたかったのだと思う。僕は母親の笑顔が大好きだったのに、なぜ母親をあんなに泣かせるようなことをしてしまったのだろう......。

 母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについてまったく気付いていなかったし、母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない。母親を振り向かせるために事件を起こしたとか、母親に気付いてほしくて事件を起こしたとか、そういう、いかにもドラマ仕立てのストーリーはわかりやすいし面白い。でも、実際はそうではない。子供の頃は誰だって自分だけの秘密の世界を持ち、まったく異なるふたつの世界を同時に生きるものだ。普通とは違ったもにに興味を持ったり、妙な物を集めたり、そんな秘密の世界に耽溺(たんでき)している時に、親の顔が頭に浮かぶだろうか。完全に自己完結した、閉じられた自分だけの世界で「独り遊び」に興じる時に、周りのことなど見えるだろうか?
 僕は「事件」と名の付くものは、そんな事件であっても、人が想像する以上に「超極私的」なことだと捉えている。事件のさなか、母親の顔がよぎったことなど一瞬たりともなかった。須磨警察署で自白する直前になって、初めて母親のことを思い出した。あの事件は、どこまでもどこまでも、僕が「超極私的」にやったことだ。母親はいっさい関係なかった。

「僕の母親は「母親という役割」を演じていただけ」
「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」

少年院に居た頃、僕はそう語ったことがある。でもそれは本心ではなかった。誰もかれもが母親を「悪者」に仕立て上げようとした。ともすれば事件の元凶は母親だというニュアンスで語られることも多かった。裁判所からは少年院側に「母子関係の改善をはかるように」という要望が出された。そんな状況の中で、いつしか僕自身、「母親を悪く思わなくてはならない」と考えるようになってしまった。そうすることで、周囲からどんなに非
難されても、最後の最後まで自分を信じようとしてくれた母親を、僕は「二度」も裏切った。

 僕は自分のやったことを、母親にだけは知られたくなかった。それを知った上で、母親に「自分の子供」として愛してもらえる自信がなかったからだ。でも母親は、僕が本当はどんな人間なのか、被害者にどれほど酷いことをしてしまったのか、そのすべてを知っても、以前と同じように、いやそれ以上に、ありのままの僕を自分の一部のように受け容れ、愛し続けてくれた。「役割を演じている母親」に、そんなことができるはずがない。母親の愛には一片の嘘もなかった。僕が母親を信じる以上に、母親は僕を信じてくれた。僕が母親を愛する以上に、母親は僕を愛してくれた。

 あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷりと愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。

 母親のことを考えない日は一日もない。僕は今でも、母親のことが大好きだ。

少年Aは祖母との関係が濃密であったのは間違いない・・それは腑に落ちるのだが、少年Aの著書「絶歌」の中で語られる少年A母は「三人の兄弟に分け隔てなく愛を注いだ母」と記述されているのだが、それは、散々家族や親戚に迷惑をかけた少年Aからみた今現在の母親像として語られているに過ぎない。

元少年Aの言葉を借りれば「自分だけの秘密の世界」で、親の顔も浮かばず、悪い事はお見通しのお天道様もいない(他人や生命を尊重する倫理観の欠如)秘密の世界を構築し、自分より弱いものを凶器をつかって次々と殺害しシリアルキラー(殺人鬼)となる事が出来たAの精神構造はいかなるプロセスを経て構築されたのか?・・・

Aの養育史を的確に把握する事を試みても少年Aと母親の関係性を検証しようにも、それは既に30年前の謎なのである。

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7、少年Aの父親(父性の所在)

少年の精神が発達していく家庭で、母性を持つ母親は子どもに愛情を注ぎ、子どもに「万能感」を与える事を任とする。簡単に言えば子どもに自己肯定感を内在させ、生きる力(生命力)を宿す。

これと対をなして父親の役目は子どもに社会性を教える事だと言う。村の掟。きまり、ルール、他者への思いやりを教えるのは父の役目である。

神戸児童連続殺傷事件の既存の資料に語られる少年Aの父親像は、沖永良部の出身で、義務教育終了の後、集団就職で神戸に出てきた。その後、資格を取り、大手企業の電気技師をして身を立てた・・苦労人と言うものであったが、少年Aとの関係は、父の趣味がゴルフとパチンコときいて、あまり釈然としたイメージがわいてこなかった。

絶歌で事件後の少年Aと父との関係を描写している部分があったので以下に引用する。

絶歌 P.106

 父親は中学卒業と同時に集団就職で神戸に出てきた。結婚して神戸に住んでいた姉の家に身を寄せ、電気工務店で下積みを積んで電気関係の資格を取り、その後大手企業に移り電気技師として船舶関係の配電工事に携わった。  子供の頃、父親の会社の見学に行ったことがある。海の近くに大きな工場が建ち並び、中へ入ると見たこともない機械が何台も設置され、くぐもったような轟音が鳴り響き、あまりの異世界感に畏怖(いふ)の念さえ懐(いだ)いた。展示会場のようなところでは、全長1.5メートル程のアームロボットがグリップ部に筆を握り、ジョイント部を生き物のようにくねらせて床に置かれた大きな半紙にぴったりおさまるように、トメハネのついた美しい文字で「未来を創る技術」と書いた。その光景を見た時には、本当に近未来にタイムスリップしたような感慨を覚えた。

 父親は晩酌が好きだった。つまみもよく自分で作っていて、スルメ干しを細くちぎっ
コンロで炙(あぶ)り、醤油マヨネーズにつけて食べるのがお気に入りだった。父親があんまり美味しそうに食べるものだから、僕も一口食べさせてもらったことがある。目に含んだ途端、不味くてティッシュに吐き出してしまった。

 父親はゴルフも好きだった。僕も一度父親と一緒に近所のゴルフセンターに行ったが、これもまた何か楽しいのかさっぱり理解できなかった。

 音楽は聴かない人だったが、テレビのコマーシャルでビリー・ジョエルの「ストレン
ジャー」が流れた時に「この曲、なんかええなぁ」と言っていた。

 僕は子供の頃ひどい鼻炎持ちだった。鼻が詰まって夜なかなか寝つけずにいると、父親はよく鼻をマッサージしてくれた。逞しい父親の手が優しく鼻に触れ、僕は「もうこれで大丈夫だ」と安心してすやすや眠ることができた。

 僕がまだ生まれて閧もない、乳歯が生え出したばかりの赤ん坊の頃、僕が何か噛みたくなった時には、変なモノを囗に入れて喉を詰まらせないように、父親が自分の掌の肉を噛ませていたそうだ。母親からその話を聞いた時、実に父親らしい、寡黙で、忍耐強い愛情表現だと思った。

 父親は手先の器用な人たった。僕が幼い頃、趣味の日曜大工も兼ねて木製のミニカーや飛行機、高さ1メートルほどの滑り台などを作ってくれた。

 絵も土手だった。父親は心臓に持病かおり、僕が小学三年くらいの時に一週間ほど入院したことがあった。母親に連れられてお見舞いに行った際、父親からA4サイズのスケッチブックを手渡された。開いてみるとそこには、木の枝にとまって羽根を休める小鳥や、ペンチで抱擁するカップルなど、病室の窓から見える風景が、愛情に満ちた誠実な鉛筆のタッチで描かれていた。絵の上手さもさることながら、実直で無骨な父親が、こんなに優しく繊細な感性で世界に触れる一面を持っていたことに、僕は意表を突かれた。

 父親は泣かない人だった。僕が逮捕され、鑑別所で面会した時も、少年院で面会した時も、父親は、僕に会うたび泣き崩れる母親の肩に手を置き、きつく唇を閉じ、じっと何かに耐えているように見えた。

 生まれて初めて父親の涙を目にしたのは、父親と最後に会った日-2004年07月下旬、少年院を仮退院して最初の誕生日を迎えたばかりの、蝉(せみ)の啼音(なきね)がさんざめく夏の夜だった。

 当時僕を支援してくれていた民間のサポートチームの取りはからいで、僕と父親はある地方の人里離れた山奥のコテージで、二日間ともに過ごした。小川のせせらぎが聴こえる静まり返った杉林の一角にひっそりと建つ、木造二階建てのそのコテージは、一階部分とそれよりもひとまわり小さな二階部分が重なり、一階にはリビング、ダイニング、バスルームがあり、二階が寝室、二階の屋上はウッドデッキテラスになっていた。

 その夜、僕ぱコテージニ階の寝室で、頭の後ろに手を組んでベッドに横たわり、開け放した窓から雪崩(なだ)れ込む蝉の啼き声に身を浸(ひた)していた。
 「お~い、コーヒー入ったぞお~」
 ドア越しに父親が呼ぶ声がした。ドアを開けると、キャンプでよく使われる銀のマグカップをふたつ持った父親が立っていた。
「屋上に出てみいひんか? 今日は星がよお見えるで」
 「うん」
 父親が差し出したマダカップを受け取り、二人で屋上のテラスへ出た。
 確かにきれいな星空だった。プラネタリウムのようにひとつひとつの星の輪郭がくっきりと見えた。テラスのベンチに父親と並んで腰掛け、マグカップに堕(お)ちた満天の星を啜(すす)った。

 月や星のジュエリーで煌(きら)びやかにめかしこんだ夜空をバックに、蝉のオーケストラの演奏はいよいよ佳境に入り、夜の底を震わせていた。
 僕は蝉の啼き声が好きだった。何度も脱皮を繰り返し、やっと地上で翅(はね)を得てから7日間しか生きられない蝉は、最後にその命を脱いで死へ翔び発つまで、全身の細胞でひと呼吸ひと呼吸を味わいながら狂ったように啼き続ける。まるでこの世の岸部に、己の存在の余韻を刻み込むかのように。

 星屑のストロボと蝉のアンセムでトリップしかけていると、不意に父親が口を開いた。「なぁ、A。今すぐにとは言わへんけど、おまえの気持ちが落ち着いたら、また家族みんなで一緒に暮らせへんやろか? 父さんも母さんも、どうしてもおまえのそばにおってやりたいんよ。被害者の方たちのこと考えると、こんなこと言えた義理やないけど、おまえがちゃんと立ち直って、世の中に適応してやっていけるように、親として見守ってやりたいねん。考えてみてくれへんか?」

 僕にはわかっていた。父親の本心が。父親は僕が更生したことを信じきれず、心のどこかで、僕がひとりになるとふたたび罪を犯すのではないかと恐れていた。妙な話だが、父親のその疑いを皮膚で感じ取り、嬉しかった。少なくとも父親は、僕の中に何か得体のしれない恐ろしい一面があることを認め、それも含めて僕を「息子」として受け容れているように見えた。

 「ありがとう、父さん。でも、ごめん。父さんの気持ちは嬉しいけど、やっぱり僕はひとりで生活したい。よく想像するねん。昔みたいに家族みんなでテーブル囲んで、和気あいあいと食事しとる時に、つけとったテレビからいきなり僕の事件に関連したニュースが流れて、そこにおるみんなの表情が凍りつくところを。それはほんまに辛い。たとえ父さんたちが大丈夫でも、僕が耐えられへん。少し離れたところから見守っといてほしいねん」
 それは嘘偽りない本心だった。赤の他人の前で自分が殺人者であると自覚することと、愛する者たちの眼の前で、自らが犯しか悍(おぞ)ましい罪を突きつけられることには、彼我の差がある。父親はしばらくの沈黙を挟んだあと、こう言った。
 「そうか。わかった。ほんならこうしてたまに顔を見に来てもええか? そのうち母さんや弟らも連れてくるさかい」
 「うん。ええよ」
 「じゃあそないしよう。みんなにも言うとく。せやけどおまえ、あんまり無理したらあかんぞ。ダメになりそうになったら、いつでも帰ってきてくれな。最後は家族しか昧方になる人はおらへんからな」
 「うん、そうする。ありがとう」
 「よっしゃ。約束やで」
 父親が嬉しそうに笑った。

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8、少年Aの特異性

1997年03月16日、竜が台女児殺傷事件「山下彩花(当時10歳)ちゃんを鉄ハンマー(1.5キログラム)で殴る。一週間後、死亡。」「堀川ひとみちゃん(当時9歳、小学校3年生):ナイフで刺す(全治二週間)」

1997年05月24日、土師淳君殺害(タンク山)で絞殺。淳くんの生首を中学校の校門に晒す。

以上の凶悪犯罪を巻き起こしながら、少年法によって家庭裁判所の審判により、関東医療少年院に送致となった少年A。

日本でも刑事責任が問われれば、無関係の人を無差別に身勝手な理由で殺せば確実に死刑である。それが、Aが犯行当時少年(14歳)であった為、一斉の刑事責任を問われなかった事自体世界の常識から言えばありえない事で、まったく稀有な人なのである。

更に更に、矯正教育が終わったとして、2004年03月10日退院。

その後、自身の犯罪歴を記述した「絶歌」を2015年06月28日初版発行。

諸外国においても「サムの息子法」によって「犯罪のビジネス化」が防止・禁止されている。

サムの息子法

サムの息子法(サムのむすこほう、Son of Sam law)は、1977年にアメリカ合衆国ニューヨーク州で制定された法である。犯罪加害者が自らの犯罪物語を出版・販売して利益を得ることを阻止する目的で制定された。この法は、犯罪活動の結果として直接取得した金銭を押収することを意図している。犯罪者が自らの事件を商業的に利用して得た金銭を奪うことにより、犯罪の収益性を除去するため、また、犯罪者が自分の罪の悪評を活用できないように作られている。

凶悪犯罪を起こしながら刑事罰も科せられず、サムの息子法がない日本において、犯罪の加害体験を売り物にして印税を獲得。

まったく稀有な存在である。

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9、元少年Aの精神分析的(心理学的)語り

絶歌を通読して、元少年Aの読書量に驚いた。初期の三島由紀夫作品や村上春樹に魅せられたと言う。ろくすっぽ勉強もせず、中学も卒業してない元少年Aが三島文学を語ったり、浦上春樹の作品群を評するのだから人は変わるのだなぁと妙に感心させられたりする。
さて、本稿は「月刊 精神分析」の原稿なので、元少年Aの精神分析的(心理学的)語りに注目してみよう。

以下、その部分を引用する。

絶歌 P.65

 「性」(ニュアンス的には「生」?)と「死」は、通常であればロミオとジュリエットのように、いかに強く惹かれ合おうとその間に立ちはだかる種々雑多の障壁によって、決して結ばれることはない。だが何かの拍子に歯車が狂い、この邪悪な恋が成就すれば、本物の。悲劇"が生まれる。

 フロイトによれば、人間の欲動は「生の欲動」と「死の欲動」のふたつに大別されるという。
 「生の欲動」が自己保存や生殖行為など「生きる」ことに根ざした欲動であるのに対し、「死の欲動」は意識的・無意識的に死を求め、死へ向かおうとする欲動である。
 「死の欲動」は「胎内回帰願望」とも強く連動しており、自分を生命発生以前の限りなく無に近い状態―つまり母親の子宮内―に回帰させようとする「退行」の究極点とも言われている。「すべてを無に帰したい」、その願望は翻って自分をこの世界もろとも滅ぼしたいという破壊衝動に直結することがままある。村土龍著『コインロッカー・ベイビーズ』で、神経兵器「ダチュラ」で世界を壊滅させたキクのように。精神分析学ではこれを
涅槃原則(ニルヴァーナー・ブリンシプル)と呼ぶ。

 胎内回帰願望は死の欲動を駆動させるエンジンであり、死の欲動の馬力は胎内回帰願望の強弱によって決定される。
                          
 胎内回帰願望とは、実は人が思っているよりずっと血腥(ちなまぐさ)い欲動なのだ。
 僕はおそらく、子供の頃から胎内回帰願望が非常に強かったのではないかと思う。例えば物心ついた頃から逮捕されるまで、布団の周囲を取り囲むようにぬいぐるみの山を築き、一日じゅう部屋のカーテンを締め切って眠っていたことがそれを示唆する。年頃の男子がぬいぐるみに囲まれて就寝するなどかなり奇異な光景だが、これは外界からの刺激をシャットアウトし、自分を無条件に守ってくれる「疑似子宮内スペース」を形成していたようにも映る。

 胎内回帰願望の強い者はしぜん死の欲動も強くなる傾向がある。僕が祖母の死をきっかけにあれほど強力な死の欲動を発動させた背景には、それなりの下地があったのだ。

 人は無意識に死へ向かう。これまでに「死にたい」と思ったことが一度もない人間などいるだろうか?

 黒板の文字をサッとかき消すように、何の痕跡も残さずきれいさっぱり消えてなくなりたいと思ったことはないだろうか?

 変わり映えのしない通勤路、ふといつもと違う道を通って帰りたくなり、何の気なしに入った脇道にぽつんと佇む外灯に、ぼんやりと「死」が灯っていたことはないだろうか?
 死は、ある日突然訪れるものではない。それは眼に見えない微生物のように、ベッドや枕、箸やスプーン、あなたがたった今吸い込んだその空気の中にも潜(ひそ)み、ゆっくりと、規則正しく、この世界を侵食している。もちろん、あなたの髪や肌、血や肉や骨にも、夥しい数の死が含まれている。

 何人(なんぴと)たりとも死を切り捨てて生きることはできない。

 「死の欲動」は、他人や自分自身への破壊衝動、つまり「サディズム」や「マゾヒズム」とも密接に関わっている。

 攻撃性のヴェクトルが他人に向かうか自分に向かうかの違いだけで、「サディズム」と「マゾヒズム」はともに「死の欲動」から分離した一卵性双生児なのだ。つまり「MADなサディスト」は、同時に「MADなマゾヒスト」でもある。僕とて例外ではない。祖母の部屋で初めて射精し、あまりの激痛に失神して以来、僕は「痛み」の虜だった。二回目からは自慰行為の最中に血が出るほど舌を強く噛むようになり、猫殺しが常習化した小学六年の頃には、母親の使っていたレディースカミソリで手指や太腿や下腹部の皮膚を切った。十二歳そこそこで、僕はもう手の施しようのない性倒錯者になった。

と、元少年Aは語っている。ぬいぐるみのバリケードについては他の少年A関連の書物(この子を産んで)でも語られており、私も「少年Aの子宮内回帰願望」であろうと考察していた。「生の欲動(エロス)」や「死の欲動(タナトス)」の語りは納得するものの、少年Aの欲動そのものが他者(年下の弟達や、地域の年少の児童)への攻撃性と転嫁するメカニズムがなんなのか想像しえない。

生まれて、3歳に達するまでの少年Aの養育史が最大の鍵を握っているのだが、今となっては30年も前の話でA本人が語るしかないのである。

以下再度掲載

少年A 矯正2500日 全記録(著者:草薙厚子)の解説文:有田芳生(ジャーナリスト)

少年A 矯正2500日 全記録 解説-「少年A」の叫びが聞こえるか P.244

 わたしも「少年A」の精神鑑定を行った医師から話を伺ったことがある。そのとき驚いたことは事件から数年後に「これまで話せなかったことですが」と断った母親がおずおずと語ったと内容であった。何と生後半年ぐらいのときから体罰を加えていたというのだ。

は?・・である。「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記を通読しただけでは、普通の家族の中で男三兄弟の長男として育った少年Aとしか読めなかったのに、今頃、「生後半年ぐらいから体罰してました」・・・この話は本当なのだろうか?

今で言う「虐待」に準じる「体罰」ではなかったのだろうか?「絶歌」の中では元少年Aは母親の立場を全面擁護しているが、母親はAに対しては弟達の範となるよう厳しい「躾(しつけ)」をしたというのが共通認識であった筈。妙に全面擁護されると、かえって「母の愛」を嘘くさく感じてしまう。

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10、元少年Aの理解

精神分析に携わるものとしては、世の中の良識やタブーを度外視して、ただあるものを、ありのままに、鏡の様に受け取る事が肝要・・・である。

結局、「絶歌」を何度読み返しても、少年Aと彼が内在させた他者への攻撃性の根拠を理解してわかりやすく説明する事はできなかった。

中学校の3年生(14歳)がまるで統合失調症を患ったかの如く、バモイドオキ神という自分だけの守護神を創造し、弱肉強食論を教義として、地域の児童達を次々と襲う。

ナイフ、金づち、タンク山で絞殺。

捕まれば死刑を覚悟していたものの(いや、正確には死刑になる事を望んでいたものの)、少年法によって関東医療少年院(東京都府中市)へ送致に審判が下る(家庭裁判所)。
絶歌の中で(山口・母親殺害事件 大阪・姉妹殺人事件)の山地悠紀夫の件を引用している。山地悠紀夫は「死刑でいいです」と言う有名なコメントを残している。

絶歌 P.230

  ―あの頃の自分だ―  そう思った。漫画を読んで泣いたのはこの時が初めてだった。  森田は、僕と、大阪姉妹刺殺事件を起こした山地悠紀夫を合体させたようなキャラクターだ。僕の「性サディズム障害」と、山地悠紀夫の抱えていた「アスペルガー症候群」のふたつの要素を併せ持っている。

 山地悠紀夫は僕のひとつ歳下で、僕が事件を起こした三年後に、自分の母親を金属バットで殴り殺し、少年院に収容された。初犯は16歳だった。在院中、明らかに他の少年だちとは異質な山地の精神的特性を嗅ぎ取った少年院スタッフの配慮で、山地は精神科医の診察を受け、「広汎性発達障害(自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症候群を含む)の疑い」という診断を下された。この障害を抱える人は、相手の仕草や表情から心情を汲み取ることが極度に苦手で、言葉の表層部分でしかコミュニケーションがとれず、その場の雰囲気に合った言動を取ることができないという特徴かあり、集団の中で孤立しやすい。

 また、"アイコンタクト"が不得手で、他人とまったく視線を合わせないか、逆に相手が気持ち悪く感じるほど、物を見るような眼で相手の顔をじっと見つめたりする。こういったコミュニケーションの特異性から、彼らはしばしば学校でいじめの対象になることがある。

 ある程度の実践を踏んだ専門家であれば一目瞭然であるが、この広汎性発達障害は、精神遅滞や統合失調などと比べて見た目には定型発達者(健常者)と区別がつきにくく、問題視されにくい。

 山地は2003年10月、20歳で少年院を仮退院する。この時、少年院で山地を診察した精神科医は、山地の抱える障害の深刻さを危惧し、外部の医療機関宛てに紹介状を書いて山地に渡し、どこでも構わないから自分で精神科を受診するようにとアドバイスした。だが結局、山地が自分から精神科を受診することはなかった。

 11歳で父親を病気で亡くし、16歳で母親を手にかけ、身元引受人のいなかった山地は更生保護施設に入り、パチンコ店に住み込みで就職するが、どの職場でも人間関係をうまく構築できずに店を転々とする。やがて知人の紹介で、パチスロ機の不正操作で出玉を獲得する「ゴト師」のメンバーに加わり、いいように使われることになる。僕には経験がないからなんとも言えないが、裏社会には裏社会特有のコミュニケーションスキルが要求されるのではないかと思う。いつ捕まるかわからない、危険と隣り合わせの毎日。一瞬の気の緩みが即破滅へとつながる。常に周囲の状況を見極め、仲間の性格や心情も把握し、瞬時に適切な判断を下しリスクを回避しなければならない。コミュニケーション能力や状況判断能力に著しい欠陥を抱えた山地にできる芸当ではない。要領の悪い彼はパチスロ店で店員に不正操作を見抜かれ、一度逮捕されてしまう。

 山地はゴト師の世界でも上手く周囲に馴染めず、グループのリーダーと諍(いさか)いを起こし、ゴト師メンバーがアジトとして使用していたマンションの一室を飛び出して野宿生活を送る。その三日後、2005年11月17日、山地は自分が身を寄せていたマンションの別のフロアに住む二人の女性をナイフで襲い、暴行して金品を奪った挙げ句、部屋に火を放って逃走した。いわゆる「大阪姉妹刺殺事件」である。少年院を仮退院してからわずか2年後の犯行だった。

 2009年07月28日。大阪拘置所で山地悠紀夫の死刑が執行される。享年25歳だった。

 この事件は、その犯行の際立った残虐性や、山地が逮捕時に見せた不敵な微笑みや自ら死刑を望む発言、少年時代の殺人の前科などから、当時かなりセンセーショナルに報じられた。僕が少年院を出た翌年に起こった事件でもあり、山地が少年時代に殺人を犯していたことから、僕の事件も頻繁に引き合いに出された。

 僕は他の人間が犯した殺人についてとやかく言える立場ではない。山地悠紀夫本人に直接会ったわけではないから、本当には彼のことはわからない、彼の犯行にシンパシーを覚えることもない。

 僕が彼に何か引っ掛かるものを感じたのは、犯した罪の内容や少年時代の殺人のためではない。一審で死刑判決を受けたあと、彼が弁護士に宛てて書いた手紙に、胸が締め付けられたからだ。

 私の考えは、変わりがありません。
 「上告・上訴は取り下げます。」
 この意志は変える事がありません。
 判決が決定されて、あと何ヶ月。何年生きるのか私は知りませんが、私か今思う事はただ一つ、「私は生まれて来るべきではなかった」という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、「生」そのものが、あるべきではなかった、と思っております。
 いろいろとご迷惑をお掛けして申し訳ございません。
 さようなら。 (池谷孝司『死刑でいいです』)                          
 あまりにも完璧に自己完結し、完膚なきまでに世界を峻拒(しゅんきょ)している。他者が入り込む隙など微塵もない。まるで、事件当時の自分を見ているような気がした。

 山地は逮捕後、いっさい後悔や謝罪の言葉を囗にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとのたまっていた。僕には彼が、ひとりでも多くの人に憎まれよう憎まれようと、必死にモンスターを演じているように見えた。誰にも傷つけられないように、自分のまともさや弱さを覆い隠し、過剰に露悪的になっているその姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。
 現代はコミュニケーション至上玉義社会だ。なんでもかんでもコミュニケーション、1にコミュニケーション2にコミュニケーション、3、4がなくて5にコミュニケーション、猫も杓子もコミュニケーション。まさに「コミュニケーション戦争の時代」である。これは大袈裟な話ではなく、今この日本社会でコミュニケーション能力のない人間に生きる権利は認められない。人と繋がることができない人間は"人間"とは見倣されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸腰の素っ裸で放り出されるようなものだ。誰もがこのコミュニケーションの戦場で、自分の生存圈(権?)を獲得することに躍起になっている。「障害」や「能力のなさ」など考慮する者はいない。

 山地はどこに行ってもゴミのように扱われ、害虫のように駆除され、見世物小屋のフリークスのようにゲラゲラ嗤(わら)われてきたのだろう。彼は彼なりに必死に適応しようと努力したのではないだろうか。"魚が陸で生きるため"の努力を。

 山地が逮捕時に見せた微笑み。僕には、彼のあの微笑みの意味がわかる気がした。それは言葉で解釈できる次元のものではない。もっと生理的に触知する種類のものだ。
 あの微笑み――。
 あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった。

元少年Aも暗に自分のやらかした事を触知して欲しいと言っているかの書きっぷりである。つまり、A自身も自分は「山地悠紀夫」と同類であると訴えているのであろうか?

絶歌の中では関東医療少年院の矯正教育に関しては一文字も触れられていない。絶歌に構成において物議を醸すところであるが、元少年Aにしてみれば最もコンプレックス(無意識:複合観念体)に触れる部分なのかもしれない。

医療少年院の矯正教育によって贖罪意識が芽生えたとの描写も数多くあるが、Aの犯した過ちは「取り返しのつかない過ち」であって、贖罪意識が沸けば沸くほど、償えない罪の重さに慄くしかないではないか。

絶歌 P.208

 それでも奥さんは、決して僕の過去を度外視して僕と接していたわけではなかった。  奥さんと過ごした時間の中で、いちばん印象に残っている出来事がある。  2004年12月。保護観察期間が残り1か月を切った頃、関西テレビで、事件から7年間の淳君のご家族の軌跡を追ったドキュメント番組が放送された。当時僕を支援していた民間のサポートチームのリーダーである関西の弁護士のWさんから、その番組を録画したビデオテープが届いた。僕はYさんから、  「ひとりで見ちゃだめだよ。僕が仕事から戻ってから、一緒に見よう」  と言われた。でも僕は、どうしてもそれは自分ひとりで見なくてはならないものだと思い、Yさんの言いつけを破って、居間へ降り、届いたビデオテープをビデオデッキに入れ、ソファーに座り、再生ボタンを押した。奥さんはその時、居間のすぐ横のキッチンで夕飯の支度をしていた。珍しく自分から居間へ降りてきた僕を見て、奥さんは僕が何をしているのかすぐに察した。そのビデオは、Yさんと一緒に見る約束だったことを奥さんも知っていたと思う。でも奥さんは僕を咎(とが)めるでもなく、夕飯の支度を中断して自分も居間へやってくると、僕の右斜め前60センチほどのところに正座をし、僕と一緒に、事件についてのドキュメント番組を、ただじっと見てくれた。

 僕は奥さんとは、事件について話したことは一度もなかった。でも奥さんは、僕の過去を見て見ぬ振りしたのではない。決して生半可な気持ちで僕を受け容れたわけではない。
僕が何をしてきた人間かのか、どんな罪を背負っているのか、それらすべてを知った上で、僕のことを、「罪を背負ったひとりの人間」として、受け容れ、寄り添ってくれた。今でもよく、あの時の、僕のすぐそばで正座をしてテレビ画面を見つめる、毛玉のだくさん付いたピンクと白のボーダー柄のセーターを着た、斜め45度の奥さんの後姿を、その小さな背中を、しみじみと思い出す。今なら素直に思い浮かべることができる。あの時の奥さんがいったいどんな表情をして、どれだけ真剣な眼をして、僕と一緒にテレビの画面を見つめていたのかを。

「罪の意味 少年A仮退院と被害者家族の7年」。それが番組のタイトルだった。淳君の2歳年上のお兄さんにスポットライトを当て、事件後、彼が何を思い、どのように苦悩して生きてきたのかを取材し、第13回FNSドキュメンタリー大賞を受賞した作品だった。
仮退院が近付いた頃、更生の信憑性や治療の成果を判断するため、僕は複数の部外の医師と面接した。その時に何度かあって話をした児童精神科医が、この番組の中で、少年院で僕に会った時の印象を次のようにコメントした。
「礼儀正しく、作り直された人工的な印象を受け、壊れやすい温室の花を連想した」
 そう言われても仕方ないなと思った。僕は「精神科医」という肩書きを持つ人に対しては、ことさら冷静に、感情や表情を消して振る舞うのが習い性(しょう)だからだ。
 このコメントを見た奥さんが、ぽろっと口にした言葉が忘れられない。
「私は、少年院で初めてAさんに会った時、そんなふうには思わなかったけどなぁ~」
 奥さんは、僕に聴こえるように意識して言ったのではなく、本当にただ率直に、思ったままを言葉にしたような口振りだった。その何気ない一言は、僕の心をじんわり温めた。
番組の最後のほうで、淳くんのお兄さんは加害者の償いについて次の様話した。

以下テレビ番組の中から引用

2004年12月05日『ザ・ドキュメント』罪の意味

 -少年A仮退院と被害者家族の7年-

少年Aに殺された土師淳君の兄・巧(たくみ)さんの話(弁)

「更生してくれるようなら結構なことだとは思いますけど・・・・・・まぁ内心は、まぁどうして・・・弟はあんな目にあわされたのに相手側はのうのうと生きれて、社会的に保護されていて、まともな生活ができるのかなと思いますけど」

「もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、しょせん言い逃れに過ぎないと思ってますね」

続きを絶歌から引用する。

絶歌 P.211

 重い言葉だった。僕が施設でのうのうと守られているあいだ、淳君のお兄さんはこんな気持ちを抱えながら、独り苦しみ続けていた。  僕が『謝罪したい』と思うこと自体、傲慢なのかもしれない。どうすればいいのだろう。これほどの苦悩を、これはどの憎しみを、僕はどうやって受け止めればいいのだろう。僕は思考停止状態に陥り、途方に暮れてしまった。

 番組が終わると奥さんは、まるでずっと息を止めて見ていたかのように、長く深い溜め息をついた。奥さんにとっても、きっとこの番組を見るのは辛かったろうと思う。見終わってもお互い、何の感想も言わなかった。一言も言葉を交わさなかった。

 僕が停止ボタンを押し、テレビを消すと、奥さんは、「よっこらしよ」と言ってゆっくりと立ち上がって、また何事もなかったように夕飯の支度を再開し、僕はそそくさと二階の部屋へと戻った。そのあとも、奥さんとその番組について話すことはなかった。でも僕はあの時ほど、身も心も奥さんを近くに感じたことはなかった。嬉しかった。本当に嬉しかった。

 奥さんがどれほど真摯に僕と向き合ってくれていたのか、寄り添ってくれていたのか、当時の僕は、奥さんの深い気持ちを、ちゃんと受け止めることができなかった。壁を作っていたのは奥さんではなく、僕のほうだった。

償いきれない罪を背負った人間としてのAを丸ごと受け入れてくれる支援者の奥さん、心からAは嬉しく感じ感謝するのだが・・・・

なぜ、少年Aはこのまま、名も無き市井の人として生活していく事ができなかったのであろうか?

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11、少年A事件と加害者家族

無差別殺人犯はもちろん、逮捕され裁判の後に刑に服す事になる。元少年Aは逮捕時14歳であった為、刑事罰を課せられる事はなかったのだが・・・。

例えば

宮崎勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕・起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。
宮崎には両親の他に姉妹二人兄弟二人がいて、事件後、「お前達も死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が大量に殺到。
宮崎勤の父は東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋(水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。

加藤智大(かとうともひろ、1982年09月28日 - )2008年06月08日、秋葉原無差別殺傷事件7名を殺害し、10名に重軽傷を負わせた。2015年02月02日死刑確定。
加藤智大の父は信用金庫の職を失う。自宅で夜はロウソクを灯す生活。
加藤智大の母は家を出て青森市内の質素なアパートで暮らしている。
加藤智大の弟は自分自身の置かれた境遇に耐えかね、250枚の手記を残して自殺。

東慎一郎(あずましんいちろう)の場合
父は妻の母所有の家を引越し、会社は退職。
母は子ども達(少年Aの弟達)の姓を変えるため離婚。
少年Aの弟達は他県へ転校。

宮崎家や加藤家に比べれば、ダメージは少なく済んだようだ。少年A宅の次男は32歳、三男は31歳になっている筈。「人殺しの弟のレッテル」がついてまわり、加藤智大の弟の様に恋愛や結婚が思うようにならなかったりしているのではないだろうか?

また、今回の「絶歌」の出版にあたり、少年Aの両親と被害者遺族との関係が拗(こじ)れるケースがでてくのではないだろうか?

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12、少年A事件と被害者(堀川ひとみ)さんのケース

絶歌を通読すると、既に事件は終わった事として語られている。ところである・・以下に女性週刊誌の記事を引用する。

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上記は、NNNの報道番組のインタビューに答える堀川ひとみさん

女性セブン2015年10月15日号

元少年Aに刺された女性が告白「なぜ彼は国に守られるのか」

1997年の神戸連続児童殺傷事件の被害女性・堀川ひとみさんは、27才になった今も、人生が一変したあの日の出来事を克明に覚えていた。当時9才だったひとみさんは、「元少年A」から腹部を刺されて生死をさまよいながらも奇跡的に生還したが、その後も長く事件の悪夢に苛まれてきた...。なお、Aがひとみさんを刺した同日に、当時10才の山下彩花さんがAから金槌で頭を殴打され、意識不明のまま1週間後に死亡した。今回、ひとみさんは、女性セブンの取材に対し、初めて重い口を開いた──。

ひとみさんは看護師として多忙な日常を送るなか、2年前(2013年)に事件の犯人である元少年Aの両親と対面した。社会人となって、精神的にも受け入れられると判断したひとみさんの両親が、Aの両親との面会場所である弁護士事務所に連れて行ったのだ。その時の様子をひとみさんが振り返る。

「会う前までは、ああも言いたい、こうも言いたいといろいろ思うところがあったんです。でも事務所に入った途端、向こうのご両親にいきなり土下座されて、「申し訳ありません」「ごめんなさい」と繰り返されて...。私は呆然と立ちすくむばかりで、その光景を見たら何も言えなくなってしまった。この両親もかわいそうだなと思ったんです。

ただ、私にはどうしても聞かなければいけないことがありました。A本人がどこで何をしているのか。被害者本人として、彼の現状は知っておくべきだと思ったんです。でもご両親は"わかりません。行方不明です"と繰り返すだけでした」(ひとみさん)

Aが2011年から静岡県浜松市に定住し、手記の出版直前に東京に住居を移したこと、少年院時代に法務省の主導で極秘裏に改名していたことを本誌の報道で知ったひとみさんは、素性を隠し続けるAに対して、怒りと失望感を露わにする。

「なぜ彼はここまで国に守られるのでしょうか。2人を殺して手記を出して、ホームページも開設して、いまだに名前も写真も一切出ない。少年法って一体なんなのか。ホームページで本を宣伝して、その本の売り上げで賠償金を払う?そんなお金、絶対に受け取りたくありません。私がAに望むことはひとつしかないんです。ただ、黙って静かに生きてほしい。目立つことをせずに暮らしてほしい。でも、私の思いはすべて裏切られました」(ひとみさん)

少年Aの両親が事件被害者の堀川ひとみさんに土下座謝罪したのが僅か2年前の事、更に、ひとみさんは元少年Aの手記出版で裏切られたと感じている。

元少年Aがしなければならないのは謝罪が先で出版は後回し。自己救済よりまず心と体に傷を負わせた事件の被害者のケアを最優先である。

もう少年Aは元少年であって、今は成人した青年の筈。謝罪を両親にさせるのではなく、社会復帰したのならば、ご迷惑をおかけしましたと心からの謝罪を直接すべきであろう。

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13、絶歌発行の経緯と人間ドラマ

ネット上で「絶歌」の発行元、太田出版や発行の経緯から幻冬舎社長の見城徹氏に多くの批判が寄せられている。

そもそも事の始まりは2012年冬に加害男性(元少年A)から幻冬舎社長の見城徹氏に企画が持ち込まれたもの。原稿執筆の過程において、執筆過程における生活費400万円を見城徹氏が元少年Aに貸したとか「へー」と真偽を疑う様な事柄も報道されている。

2012年の冬と言う事は元少年Aが30歳になった冬で、繊維機械部品の溶接工の仕事を3年3ヶ月で退社した頃と重なる(少年A年表詳細版参照の事)。

太田出版はビートたけしが自分の著書を出版するために設立した如何わしい出版社であるとか、出版物を不買運動しようとかネットでのバッシングも続出している。

2015年06月28日が初版発行だから、発行までかれこれ3年の月日が流れた事になる。

私たち一般の人間が知らないところでいろいろな関係者が紆余曲折のやり取りをした結果、被害者遺族は「寝耳に水」状態でいきなりの出版となった。

もちろん絶歌の「あとがき」で被害者遺族へのお詫びも綴られているものの、最初から被害感情を逆撫でする事を承知の上での出版であり、被害者遺族にしてみれば「やられたい放題、やられっぱなし」である。

子どもは絞め殺される、本人からは文面のみの謝罪しかされない、少年の両親は事件をネタに本を出版(文庫化までされている)、今回は加害者男性が自ら筆をとり事件を文章化して出版。出版社と著者(加害男性)は立派なビジネスを展開しているわけである。

土師守さんはいみじくも言った。息子(土師淳君)は二度殺されました。・・と。

18年前、酒鬼薔薇聖斗の挑戦状の後書きにはこう書いてあった。

「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」

18年前の事件はまだ終わっていない。まだ続いているのである。

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14、少年A事件と被害者兄(土師巧)さんのケース

以前、月刊 精神分析で「佐世保小6女児同級生殺害事件」(2014年08月)を取り上げた。被害者の家族の事もネット上から集められるだけ資料を拾い上げた。

佐世保小6女児同級生殺害事件

 佐世保小6女児同級生殺害事件(させぼしょうろくじょじどうきゅうせいさつがいじけん)は、2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられ、死亡した事件である。小学生の女子児童による殺人事件でかつ学校が舞台であり、世間に大きな衝撃と波紋を広げた。被害者の死因は、首をカッターナイフで切られたことによる多量出血だった。

時系列で眺めると、

神戸児童無差別殺傷事件が1997年05月27日。
加害者は東慎一郎(あずましんいちろう)14歳
1982年07月07日生まれ。事件当時(中3)
被害者:土師淳君(小6)
被害者の兄:土師巧さんは、
事件当時(中2)
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佐世保児童無差別殺傷事件が2004年06月01日。
加害者は辻菜摘(つじなつみ)11歳
1992年11月21日生まれ。事件当時(小6)
被害者:御手洗怜美(みたらいさとみ)(小6)
被害者の兄:御手洗次男は、14歳
事件当時(中2)
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佐世保の事件を月刊 精神分析のテーマとして取り上げたきっかけは、2014年07月26日に「佐世保女子高生殺害事件」(加害者:徳勝もなみ)が起こった事と、もう一つ佐世保小6事件の担当記者:川名壮志氏の「謝るなら、いつでもおいで(2014年)」(集英社)が発行された事による。タイトルの「謝るなら、いつでもおいで」は、事件被害者の御手洗怜美さんの兄(次男)の言葉。

佐世保小6事件の加害者の辻菜摘さんも犯行当時11歳で、少年Aと同様に医療少年院に送致された。菜摘さんは栃木県氏家町(現・さくら市)にある「国立きぬ川学院」の特別室に収容され、2008年に同学園内の中学校を卒業し社会復帰したとされている。

その後、辻菜摘さんがどこでどうしているのか行方不明なのだが、その事件加害者の辻菜摘さんに対して、事件被害者遺族の御手洗兄は「謝るなら、いつでもおいで」と言っている。

さて、神戸児童連続殺傷事件の被害者:土師淳君の兄:土師巧さんは「更生してくれるようなら結構なことだとは思いますけど・・・・・・まぁ内心は、まぁどうして・・・弟はあんな目にあわされたのに相手側はのうのうと生きれて、社会的に保護されていて、まともな生活ができるのかなと思いますけど」2004年12月05日「罪の意味 少年A仮退院と被害者の7年」と述べている。

土師巧さんの場合は、事情が複雑で、土師淳君と少年Aの三男が同級生。土師巧さんと少年Aは神戸市立友が丘中学校の卓球部の後輩(中2)先輩(中4)の関係であり、事件後はもちろん、弟の生首を登校していた学校の校門に晒されたわけで、当然、不登校状態になって、友人関係もすべて壊れてしまった。更に、事件の次年度の中3時は殆ど学校に通えず、公立高校に行ける学力はつかなかったと言う。

こう言った経緯から、とても「絶歌」の発売は受け入れられないだろう。

ネット上からは今回の「絶歌」の出版に関して土師巧さんのコメントは見つけられなかった。

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15、少年A事件と土師淳君の関係性

精神分析では、被害者と加害者の関係性を考える。

例えば、「2012年08月号 大阪ミナミ心斎橋通り魔事件 磯飛京三 南野信吾 まとめ」で、被害者の南野信吾さんと加害者の磯飛京三の関係性や接点を考察してみた。

結果、生活環境も、生い立ちもまったく逆の両者であって、関係性がない関係と解釈した。まるで磁石のS極とN極の様に対局にあるから引かれあったのではないかと解釈した。
さて、東慎一郎と土師淳君の関係性とはなんだろか?カメつながり?私が気がついたのは、東慎一郎と土師淳君が二人はともに直観像素質(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)者だったらしい。

被害者遺族の方々には不謹慎となじられそうだが、絶歌を読む限り、東慎一郎は殺して破壊して自分だけの作品にしてしまいたいほど土師淳君が好きだったと言う事だろうか?

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16、おわりに


約半年間に渡って考察を続けた「神戸児童連続殺傷事件 絶歌」はいかがでしたでしょうか?

絶歌出版に関しての是非を論じる事は守備範囲外でしたが、精神分析的には肝心な部分にコミットされてなかったのは残念でした。

絶歌の中には罪を犯した本人が綴る興味深い部分もあったのですが、何せ事後(後出しジャンケン)的な文章もありすべてを鵜呑みにできない部分も多々ありました。

2015年 平成27年10月31日 月刊 精神分析 編集部A

感想のメールは lacan.fukuoka@gmail.com までお願いします。

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20、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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