少年A神戸連続児童殺傷事件 タイトル画像

1、はじめに

「少年A神戸連続児童殺傷事件」が世間に衝撃を与えたのが、今から18年前の1997年(平成9年)05月27日の事だ。

事件の発覚

1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の神戸市立友が丘中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものとわかった。耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。

事件当時私は34歳、そろそろソフトウェア会社に見切りをつけようと転職活動を開始していた頃だ。ちなみに私は現在52歳、まさか少年Aが社会に向けて自分の言葉でメッセージ「絶歌」を発信する日が来るなんて想像もしなかったし、少年犯罪の真相は闇から闇へ葬られるのが常であると思っていた。14歳の少年Aは現在32歳になっている筈だ。

実は参考文献としてチェックしていた「少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子」に、少年Aが医療少年院を退院した後、こういう事態を迎える事を危惧した一文が掲載されていた。

少年A 矯正2500日 全記録 第7章 退院 草薙厚子 P.203

ただし、Aを待ち受けるのは拉致や襲撃だけではないと、法務省は神経を尖らせている。「たとえば、大金を積んで手記を書かせようとする者もいるでしょう。それで億単位のカネが入ったら、彼は自由に動き回れるようになってしまう。だから、一挙に押し寄せるであろう様々な誘惑をはね返すケアも必要なのです」実際にそういう動きが出てきていると、法務省は警戒するのだ。

「少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子」の単行本の出版が2004年04月。文庫本の発行日が2006年04月10日第1刷。私の手元にある文庫本が2015年06月20日第8刷。「酒鬼薔薇聖斗を名乗った元少年Aが、あの事件から18年という長い沈黙を破って2015年6月11日に発表した手記『絶歌』が、大きな波紋を広げている」今、このタイミングの逃さず関連本を重刷する文藝春秋も商魂逞しい。

いずれにしても、関係者が10年前から危惧していた元少年Aの手記の出版が現実になってしまったのだ。

img09.jpg上の写真は少年Aが土師淳君を殺害した通称「タンク山」とそれに続く「チョコレート階段」ネットで検索すると事件当時撮影された映像も多数ヒットする。写真はGoogle earth 2015。

2004年03月10日関東医療少年院を出院した元少年Aは一般社会で一般人として生活していたのだが、紆余曲折の後、太田出版から手記「絶歌」を出版した。世間を騒がせた事件の加害者が認めた手記であるが故にその取扱いをめぐって大きな騒動になっている。

元少年Aが普通の神経の持ち主?なら、罪の無い子ども二人を殺した少年が、少年法に守られ医療少年院で矯正教育を受けて娑婆世界に戻ったとて、正常な成人になったらなったで「良心の呵責」に耐えかねて相当大変な生活を送る事になるのでは?と想像できるし、元少年Aが事件など忘れてサイレントマジョリティの一人として生活しているのならば・・それはそれで「再犯の恐れは?」と余計な心配を本人に成り代わってしてしまうのだった。

月刊 精神分析編集部では、少年の手記をもとに精神分析的視点で改めてこの事件を考察したい。まず、今号では、関連本から事件の背景を分析したい。

2015年平成27年06月30日

月刊 精神分析 編集部A

参考文献
1999年04月「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記
2004年04月「少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子」

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2、少年A神戸連続児童殺傷事件とは、

img011.jpg最初に「少年A神戸連続児童殺傷事件」「酒鬼薔薇事件」の概要と「少年A」について説明する。

 少年A神戸連続児童殺傷事件 

1997年(平成9年)05月27日午前06時40分、神戸市立友が丘中学校(兵庫県神戸市須磨区友が丘7丁目283-1)正門前に、土師淳(はせじゅん)君(神戸市立多井畑小学校6年生)の頭部がむき出しの状態で置かれていた。門を開けようとした管理人が発見した。首のほぼ中央部分で切断された頭部は発見されたとき、登校してくる子どもらを迎えるような格好で校舎とは反対に向けてまっすぐに立てられていたという。口には紙片(第1の犯行声明文)が差し込まれていたが、<鬼><薔薇>の2つの文字が判読できる。さらに、正門の塀の上に血痕が付着していたことから、一旦、頭部をその塀の上に置いた可能性があった。

更なる衝撃が私達を襲う。

逮捕された犯人は、少年A

 少年A 

06月28日午後07時05分、突如、友が丘中学3年のA(当時14歳)が逮捕され、日本中に衝撃が走った。兵庫県警須磨署は、土師淳君殺害と死体遺棄容疑で神戸市須磨区に住むAを逮捕し、Aの自宅から凶器の切りだしナイフの他、ホラービデオや漫画などを押収した。また、Aは同年03月16日に起きた、女児2人を襲い、うち1人が1週間後に死亡した通り魔事件の犯行を自供した。土師淳君の遺体発見(05月28日)から32日目だった。

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3、事件の舞台 兵庫県神戸市須磨区

兵庫県神戸市須磨区は神戸市の西に位置している。

神戸市須磨区

由緒ある地域ではあるが、基本的には関西圏の近郊住宅地という要素が強い。また大阪湾内では有数の海水浴場があり、多くの行楽客が訪れる。区中央部に位置する高取山、横尾山をへだてて、南部が古くからの住宅地、北部がニュータウンという構成。人口の分布ではニュータウンの比率が高い。北部の住宅地開拓においては、宮崎辰雄市制の「山、海へ行く」のスローガンの元、山麓の大量の土砂が14.5kmにもおよぶベルトコンベヤ(須磨ベルトコンベア)と運搬船によって2005年9月まで神戸沖へと輸送され続け、それらは海上のポートアイランドと神戸空港の礎になっている。

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現在私が住んでいるのは福岡県福岡市。昔、福岡市役所のある役人に聴いた事がある「福岡市の街づくりは神戸市を手本にしている」と。そう言えば両市とも古くから外国に門戸を開いた港町であり商業都市である。福岡市の人口は一貫して増え続けており152万人。神戸市の人口は153万人。神戸市の人口は既に減り始めて(阪神淡路大震災の影響も大)おり、2年もしくは3年後に福岡市が神戸市の人口を抜く事が確実となっている。六甲アイランド(神戸)、アイランドシティ(福岡市)と人工島を有しているのもそっくり。私自身は1985年にオートバイでの北海道ツーリングに向かう途中同市を訪れており、国道沿いのSkyline(スカイライン)と言う喫茶店でコーヒーを飲んだのを覚えている。マッチ箱には日産のスカイラインが印刷されていた。今「食べログ」で検索すると喫茶スカイラインが出てくるが、私が30年前にたまたま見つけた店かどうかはわからない。

株式会社神戸市

戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地より削り取った土砂を用いてポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備すると共に、埋立用土砂採取後の丘陵地を住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。

そんな神戸市だが既に2012年から人口減少の局面を迎えており、近年、福岡市の人口(152万1881人)が神戸市の人口(153万7237人)を抜くのが確実視されている。

人口減少を向える自治体運営という局面においてもいづれ神戸市が福岡市の手本となるのである。

神戸市、3年連続で人口減少 住みたい街へ定住策を本格化 2015/02/22

神戸市は、3年続く人口減少に歯止めをかけようと定住促進策を本格化させる。空き家の活用や老朽化した大型団地の建て替えで若い世代も入手しやすい住居を確保し、「都会に近い農村」への移住を支援するコーディネーターを配置。約6億9200万円を2015年度当初予算案に計上し、「選ばれる街」を目指す。 神戸市の人口は阪神・淡路大震災以降も増え続けた。しかし12年からは3年連続で減り、15年元日の推計人口は153万7237人。全国の政令市で5位を保つものの、6位福岡市(152万1881人)に追い越される勢いだ。減少を食い止めるために、神戸市内の全住宅の13%を占める約11万戸の空き家を活用。家主と住みたい人をつなぐため、今秋をめどに同市中央区の市すまいの安心支援センターに窓口を置き、建築士や不動産業者が相談に応じる。空き家の欠陥の有無などを調べる検査費の一部を補助。物件情報を発信し、市民からも情報を募る。大規模団地も再編する。築40年以上の市営桜の宮住宅(同市北区、約1400世帯)は建て替えに向け事業者を選定中で、バリアフリー化や若い世帯を呼び込む一戸建ての新築などを進める。また、都市部への近さをPRし、農村部への移住も後押し。同市北、西区に「定住促進コーディネーター」を1団体ずつ配置。移住希望者を集落に案内し、住んだ後も地域に溶け込めるよう支援を続ける。街の魅力発信にも力を入れる。首都圏に住む神戸ゆかりの人を「サポーター」に任命し、会員制交流サイト(SNS)で情報を広めてもらう。(藤村有希子)

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4、時代背景 1980年代後半から世紀末

以下、時代背景を追ってみる。少年Aは昭和57年(1982年)生まれ。誕生時はバブル経済の最中であったが、少年が小学校に入学する頃には年号も「平成」になる。時代は世に言われる「失われた時代」に突入する。中学校に入学する前年に阪神淡路大震災1995年(平成7年)1月17日(火)を経験した。この時代のサブカルチャーの代表格はなんといっても「オウム真理教」地下鉄サリン事件は1995年(平成7年)3月20日で、やっと物心がつき始めた少年Aの精神構造の発達に大なり小なりなんらかの影響を与えたのではないかと考察できる。

芸能界に目をやると90年代後半のヒット曲は、安室奈美恵、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、モーニング娘、Mr.Children、華原朋美、globe、SPEED、GLAY・・が並ぶ。

政治の世界に目をやると

1997年(平成9年)

この事件当時の日本の総理は橋本龍太郎。1994年村山富市のまさかの自社さ政権から、1996年橋本龍太郎、1998年小渕恵三、2000年森喜朗、2001年小泉純一郎、2006年安倍晋三、2007年福田康夫、2008年鳩山由紀夫、小泉政権下(2003年)の自公連立政権から民主党への政権交代への流れがあった。

1995年(平成07年)01月、少年Aの小学6年の卒業文集には、卒業直前に起きた阪神大震災(1995年01月17日)で、当時の村山富市首相が海外からの援助犬派遣の申し出を拒否するなど、初動対応が遅れたことを批判し、<ぼくは、家族が全員死んで、避難所に村山さんがおみまいに来たら、たとえ死刑になることが分かっていても、何をしたか、分からないと思います>などと村山首相への報復も辞さないかのような文章を書いていた。

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5、少年Aの父と母 悔恨の手記

img10.jpeg事件から18年経って少年Aは32歳になった。そして我々の住む社会に「絶歌」を投げかけた。絶歌を紐解く前に、少年Aをこの世に誕生させ育んだ父と母の事を知らなければならない。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記・・・・から少年Aの養育環境を分析する。

事件が起こったのが1997年(平成9年)05月27日。単行本発行が2年後の1999年04月。文庫本の発行が更に2年後の2001年07月。私の手元に有る文庫本の発行日が更に約10年後の2010年07月。現在の時制は更に5年後の2015年07月。衝撃的な事件を起こした少年の育ての父母の手記だけに貴重な資料として読み続けられてられているのだろう。ちなみに本の印税はすべて被害者遺族の賠償金として支払われているときく。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記

2001年07月10日第1刷。
2010年07月20日第22刷。著者:「少年A」の父母、構成:森下香枝(ジャーナリスト)発行者:株式会社 文藝春秋。単行本1999年04月文藝春秋刊

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6、登場人物

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<少年A>事件の加害者
本名:東慎一郎(あずましんいちろう)・・・未確認

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.132

命名の由来「真実を見極める子に育つように!」(父、母)

中学校時代のあだ名:アズキィ
好物:シューマイ
好きな芸人:ダウンタウン
好きな絵:サルバドール・ダリ「燃えるキリン」
好きな彫刻:ミケランジェロ「ダビデ像」
書籍:「拳児」「三国志」「婆羅門の家族」「ピカソの伝記」
「わが闘争」
映画:「ネバーエンディングストーリー」
漫画:「ヤングマガジン」「少年ジャンプ」「行け!稲中卓球部」「笑ゥせぇるすまん」「珍遊記」「北斗の拳」「特攻(ぶっこみ)の拓」「ジョジョの奇妙な冒険」
音楽:「スメタナの交響曲」「ユーミンの砂の惑星」
お気に入りの俳優:ジム・キャリー、ロバート・デ・ニーロ、ブルース・ウィルス、スティーブン・セガール、アーノルド・シュワルツェネッガー、シルベスター・スタローン
好きな映画:「ケープ・フィアー」「ザ・ファン」「マスク」「ダイ・ハード」「沈黙の要塞」「レオン」「13日の金曜日」「エクソシスト」「オーメン」「エルム街の悪夢」「マイキー」「遠い夜明け」「エレファントマン」
タバコは赤マル箱
犯行時:酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る。
神戸市立友が丘中学校3年生
中学校時代は卓球部に所属
直観像素質者
1982年(昭和57年)07月07日06時15分生まれ(戌年)
1997年(平成09年)06月28日逮捕(犯行逮捕時14歳)
須磨警察署の留置場で15歳の誕生日を迎える。
幼少時は神戸市北区の団地の社宅で育つ。
1989年(平成01年)03月、Aが小学校入学の直前、07歳の時、神戸市須磨区北須磨団地(友が丘)に移転(母方の祖母所有の戸建て)。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.155

それまで母と同居していた私の姉夫婦が、子供たちが大きくなったので近所に越し、まだ子供が小さい私たち一家が、母(母方の母)と暮らすようになったのです。



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これ以降の少年Aの家族構成は
祖母(母方)と、父、母、少年A、弟(次男)、弟(三男)の6人家族となる。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.156

友が丘の家の間取りは、一階が台所と六畳の居間と私たち夫婦の寝室。二階は、十二畳の洋室一間に六畳と二畳の三部屋で、Aは小学校まで次男と一緒に十二畳の部屋を使い、中学に入学してからは六畳の和室の方に一人で移りました。


小学校4年生の02月、同居の祖母が肺炎で入院し、その二ヶ月後に死亡。
蛙やナメクジの解剖を始める。
小学校5年生の夏休みに父の故郷の鹿児島県の離島へ家族旅行へ出かける。
小学校5年生の12月、祖母が飼っていた犬(サスケ)が老衰の為死亡。
Aは小学校の頃から成績は悪く、五段階の通知表は2と3ばかり。

小児喘息を患うが、北須磨の友が丘へ移転の後治る。
中学生になり、拾ってきた亀を飼う。
人見知りが激しかった。
中1の時のIQ:70
少年時の性格は少し気が弱く、内向的。几帳面。妙に神経質。
手先が器用で、絵を描くのが好き。
失敗して恥をかくということには、意外にも無頓着。
実母はAに「アンタは本当にノンビー(のんびり)君やねえ。ちょっとトロイのとちゃう?」と何気なく言っていた。
繊細で食も細い子でしたが、妙なところでは大胆。
少林寺拳法小2から小6通う(母が買い与えた「拳児」全21巻という漫画の影響か?)

2004年03月10日社会復帰。

勉強嫌いで成績には無頓着
父からみると
長所:ひょうきんな面もあり、思いやりのある子
短所:内向的。引っ込み思案で少し神経質な面がある。
直観像素質者

医療少年院時代は「Kiroroのピアノをひく女性」が好みと語る。

編集部Aからみると、私は昭和38年生まれなので、親子ほどの年齢の開きがある事になる。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.40

「僕は病気やと思うから、母さんに全然責任ないから・・・。変な病気や」



「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.41

「母さんには、僕のこと分かってほしかった。間違っているかもしれないけど、分かってほしかった」

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.46

Aは精神鑑定の結果、「普通の知能を有し、(犯行時は)意識も清明である。精神病ではなく、それを疑わせる症状もない。責任能力はあった」と判定されましたが、一方では「(Aに)良心が目覚めてくれば、自己の犯した非行の大きさ、残虐性に直面し、いつでも自殺のおそれがある。また、(今後)精神分裂症、重症の抑鬱等の重篤な精神障害に陥る可能性もある」とも診断されていました。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.54

逮捕当日の家宅捜索が終了した夜、一家は長年住んでいた友が丘の自宅を逃げるように去り、母子は二度と足を踏み入れることはなかった。親戚縁者の家を転々とし、両親そして二人の弟たちまでが、連日連夜、警察の厳しい事情聴取を受け、A少年の事件からその姿を隠すため、両親は一時期、離婚。弟達は姓名うぃ変え、兵庫県から遠く離れたある都市に親と離れて暮らした。

今、この原稿を書いている2015年平成27年07月06日だから、明日、少年Aは33歳の誕生日を迎える筈。

以下少年A加害者家族-----------------

少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子 P.87

両親の養育方針はこういうものである。「人に迷惑をかけず、人から後ろ指をさされないこと。人に優しく、特に小さい子には譲り、いじめないこと。しかし、自分の意見ははっきり言い、いじめられたらやり返すこと」

<少年Aの父>
少年Aの実父

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.135

お父さん家は八人兄弟やけど、子供は女の子ばかりだったので、お父さんはとにかく「男の子がほしい」ということで頭が一杯でした。(Aの父方は女系家族?)

鹿児島県の離島(沖永良部島)出身
趣味は日曜大工
1970年頃中学校を卒業後、就職で神戸へ。
事件(1997年)当時47歳(夫婦共)
1980の結婚は30歳(夫婦友)
20歳で実母を亡くす。
鑑賞するTVプログラムはニュース、ゴルフ、「水戸黄門」「生きもの地球紀行」「裸の大将」
趣味は釣り、ゴルフ、スケート、パチンコ
十年前(32歳位?)から心臓を患う
子煩悩な性格。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.91

Aは勉強はまったくダメ。通知表は2ばかりでした。私も人の事は言えませんが、まああのままでは、Aが高校に行くのはちょっと無理だろうと思っていました。「高校に行かないなら、新聞配達か自衛隊に入ったらどうや」と話したこともありました。Aは内向的な子なので、自衛隊なら私は仕事上付き合いがあり、団体生活で規律面がしっかりしているのを知っていたので、いいのではないかと思っていました。でも、Aはあまり聞いてはいませんでした。




「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.115

Aは自分の息子です。あんな凶悪な事件を起こしても、怖いとも思わないし、憎いとも思えません。見捨てようとも思いません。でも、息子がやった行為を考えると、被害者の方々には死んでお詫びするしか方法がないのではないか、と正直何度も思い悩むこともあります。息子は生きていますが、被害者の方々の掛けがえのない命は永遠に戻ってきません。やり切れない、永遠に変わることのない事実があります。私が死んで被害者の方々の気持ちが少しでも和らぐのであれば、いつでも死にたい。卑怯かもしれません。でも、お子様の命は何をしてでも償って償いきれるものではありません。今でもふっと死にたいと思う瞬間があります。でも、ここで自分が踏ん張って頑張らないと、私が死んだら下の弟達はどうなるのか。誰がご遺族の方々にお詫びをしていくのか。弟達に、これ以上重荷を背負わせる訳にもいきません。私と妻でAの罪を共に背負って、許して貰えなくても生き長らえながら、その間に精一杯のことをやらせて頂くしか道はありません。「我々が死んだら、誰がお詫びすればいいのやろ?」妻とよく話すことがあります。立ち直れるか分からない愚かな息子ですが、やはりAを被害者の方々の家へお詫びに連れて行くまでは、死んでも死にきれないと思います。満足なお詫びもできない不甲斐ない親が戯れ言を言っていると軽蔑されても、私達ができることはそれしかありません。本当に申し訳ありませんでした。ただただご冥福をお祈りさせて頂きます。

<少年Aの母>
少年Aの実母

三姉妹の次女
結婚してからずっと専業主婦
次男のPTA役員を務める
07歳の頃実の父を亡くしたので実父の記憶が殆どない。
姉妹と三人の娘を母が女手ひとつで育てた。
あまり家庭に関心がなく、お酒やパチンコなどにフラリと出かけていた事をかすかに覚えている。
私は「あかんかったら次行こう、失敗したらその時点で次に何か考えよう、」という性格と自己分析。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.103

父親からみた母親の性格:妻は性格的に物事に対し白黒ハッキリとさせないと気が済まないところがあり、曲がったことや間違ったことが嫌いで、正義感が強いというか、「他人を傷つけたり、苛めたりすることなど、自分が嫌でやらないことは、子供たちにもさせてはいけない」という考えがあり、その点では子供に厳しく注意していたと思います。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.36

Aは、親バカかもしれませんが、人に必要以上に気を遣うなど、繊細でやさしいところのある子でした。すぐ人を信じて傷つきやすく、臆病で純粋すぎる。根がバカ正直なので、学校でも先生に思ったことをそのまま言うなど、不器用で心配になる部分があるほどでした。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.37

「Aは厳しく躾けられ、親の愛に飢えていた」とジャーナリストや心理学者、裁判官の方々は、口を揃えて言われましたが、私はむしろ、息子に構いすぎ甘かったために、あの子をあんなにしたのかもしれない、今は正直思っています。あの子にあれ以上、どう接すればよかったのか?親としての子供への愛情とは一体、何なのか?どういう具合に愛情を伝えればよかったのか?私は何もかも分からなくなりました。


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.44

「私は物事を白黒どちらかハッキリさせなければ気が済まない性格でしたが、今後は子供については他の方々の意見も聞いて、自分の考え方を変えていきたいと思います。もっとゆとりをもって子供に接せられるようにしたい。いつかAを立ち直らせ、親としてキチンと被害者にお詫びをし、Aに償いをさせたい」


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.239

信じていただけるかどうか分かりませんが、これが私が思い出す限りのAとの会話、生活でした。児童相談所に通っていたときも、逮捕前日も、Aの様子は私の目から見て普段と何ら変わりがありませんでした。 私が母親としてあまりに鈍かったのかもしれません。 それとも、あの子は本当に二重人格の殺人鬼だったのでしょうか。私には分かりません。でも、一瞬でもAに疑いを感じたことはありませんでした。 あれだけ側にいながら、事件を引き起こしているとは、想像もつきませんでした。愚かな親ですが、私はAが逮捕されて会えない間じゅうずっと、最後までAを信じてやりたかった。子供にそんな酷いことが出来るわけがない。いい子ではないけど、百パーセント信頼し、愛していた息子を疑うことは、どうしてもできませんでした。 思春期にモヤモヤした妄想を抱いたとしても、普通の子供であれば、それは空想だけで止まります。 私たちはAを止めることが、なぜできなかったのか。悔やんでも悔やみきれません。 もし、私たち親があの子の中学校生活の中で、何でもいいから、本当に打ち込めることをひとつでも上手に見つけてやれば、Aはあんな事件を起こさなかったかもしれません。 私は息子を自慢にはできませんでしたが、やはり愛情は多く、深く持っていました。 Aは自分が愛されていないと思い込み、犯行へ突っ走って行ったとマスコミなどでよく専門家の方が指摘されています。 あの子に私の気持ち、親としての愛情をどうやって伝えれば、うまく伝わったのでしょうか?私は、あまりにも不器用な母親だったのかもしれません。そしてAも・・。それが最後まで悔やまれてなりません。息子の凶行により、尊い命を失われた土師淳君、山下彩花さんのご冥福を心からお祈りいたします。それとともにご家族の方々にはただただ申し訳なく、お詫びするばかりです。私の至らなさで、取り返しのつかない結果となり、本当にすみませんでした。


<少年Aの祖父>
少年Aの母方の祖父。
08月02日死亡

<少年Aの祖母>
少年Aの母方の祖母
1993年04月16日死亡。
孫:少年Aら兄弟を可愛がる。

<少年Aの弟:次男>
少年Aと年子で生まれる
Aの誕生から一年四ヶ月後に誕生。
サッカーをしている。
1983年(昭和58年)11月生まれ?
事件当時:神戸市立友が丘中学校2年生
事件被害者土師淳君の兄:土師巧(はせさとし)君の同級生。

<少年Aの弟:三男>
少年Aの誕生から三年二ヶ月後に誕生。
1985年(昭和60年)09月生まれ?
小児喘息を患う。北須磨の友が丘へ移転の後治る。
事件当時:神戸市立多井畑小学校6年生
事件被害者土師淳君の同級生(かつて教室で机を並べた)
被害者:土師淳君の友人

以下被害者の土師淳君の家族-----------------
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<土師淳(はせじゅん)>
1986年02月10日早朝、神戸市須磨区の産婦人科医院で、土師守の次男として誕生。
3歳の時、叔母一家が飼っていた柴犬に鼻を噛まれる。
事件の被害者。当時11歳(小学校6年生:多井畑小学校6年2組)。
小学校3年生の時に、当時小学校6年生のAにいじめられる。
1997年05月24日、土曜日、午後1時40分「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」の言葉を残し自宅マンションを出た後、少年Aに「カメをみにいこう」とタンク山に誘い出され絞殺される。17:00から放映される大好きなテレビ番組「日本昔ばなし」を見逃す筈はなく家族は淳君の帰宅を待っていた。
少年Aの弟(三男)の同級生(かつて教室で机を並べた)でもあった。

幼稚園年長組(北須磨保育センター:第一センター)の頃に、言葉の発達の遅れ発生。
神戸市立多井畑小学校2年生の時設立された「なかよし学級」へ。
軽い知的発育障害がある。直
観像素質者でもあった(パズルのピースの置き方で判明)。幼稚園の時からスイミングスクールに通う(小児喘息対策)
週二回のスイミングスクールの後は決まって「山陽ペットガーデン」へ。ミドリガメや熱帯魚が大好き。働く車が大好き。「機関車トーマス」の大ファン。
几帳面な性格で整理整頓ができる。人一倍慎重な性格。知らない人に声をかけられても絶対付いて行ったりしない性格。
一番好きな歌は「翼をください」
松田聖子の「あなたに逢いたくて」
ポケットビスケッツの「Yellow Yellow Happy」
好きなテレビ番組
「日本昔ばなし」「ドラえもん」「サザエさん」「どうぶつ奇想天外!」「世界・ふしぎ発見!」NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」「秀吉」「毛利元就」

特に好きな花は「ひまわり」
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<土師守:土師淳君父(はせまもる)>
土師淳君の実父
事件当時淳君一家ははマンションの4階に住んでいた。
〒654-0142 兵庫県神戸市須磨区友が丘9丁目2603-89 北須磨団地I棟4階

放射線技師

がん集学的治療センター長
1956(昭和31)年、神戸市生まれ。
1968年、昭和43年中学生になったばかりの頃に友が丘に移り住む(父の引っ越し)。
1981年、神戸大学医学部卒。放射線科医師
1982年、結婚。
1986年、兵庫県姫路循環器病センターに勤務。
1987年、神戸大学医学部付属病院勤務。
1994年、神戸市海星病院勤務。

地方独立行政法人 加古川市民病院機構
名称 :加古川西市民病院
所在地 :兵庫県加古川市米田町平津384番地の1
開設年月日:昭和25年10月6日
センター長(兼)院長補佐(兼)診療支援部長(兼)放射線科主任科部長

<土師淳君母>
土師淳君の実母
山口県萩市近郊に実家がある。
加害者:少年Aの母とは卓球クラブの知り合い。
趣味:パッチワーク

<土師巧(はせさとし)>
土師守さんの長男。淳君の兄。
加害者:少年Aと同じ神戸市立友が丘中学校の2年生。同じ卓球部に所属。土師守氏の著書:淳 Jun の中では「敬(仮名)」で登場する。
弟の淳君が行方不明になり、05月26日(月)も心配で登校せず。父に促されて登校。

<土師守の父>
事件当時、71歳。
1968年昭和43年に友が丘に移り住む。
少年Aの家は、土師守氏の実家(土師守の父)のすぐ近くにある。

<土師守姉夫婦>
淳君は3歳の頃、姉一家が飼っていた柴犬に鼻を噛まれた事がある。
和歌山県在住。5月26日淳君行方不明の一報をきき、和歌山から駆けつける。
淳君捜索中に土師宅で留守番中(電話番)の少年Aの母の態度を批判する。
事件発覚時、土師淳君両親と共に、土師守姉が一緒に須磨警察署へ向かう。
土師守姉夫婦には淳君が大好きだった3人の姪(淳君の従妹)がいる。


<土師守妻両親>
山口県在住。淳君行方不明の一報をきき、山口県(5月26日)から駆けつける。
5月27日早朝から土師守妻父は自治会の捜査に参加。

<斉藤さん>
斉藤さんの息子ふたりが巧君と淳君の同級生で、同じマンションの住人。
淳君搜索に全面協力する。5月26日土師宅の電話番を少年Aの母親と一緒に担当。

<浜崎さん夫婦>
兵庫県議会議員。淳君捜査に協力

以下学校関係者-----------------
<神戸市立多井畑小学校校長>
橋本厚子さん。
橋本校長は、土師守さんの小学校4年生(舞子小学校)の時の担任
舞子小学校:〒655-0048神戸市垂水区西舞子4ー7-43
5月28日午前8時前「友が丘中学校のところで警察がテープで仕切りをしているという話を聞きました。何かあるかもしれないから、すぐにいってみたらどうですか」と連絡する。淳君の両親が友が丘中学校に向かうと、中学校の周りは警察によって交通規制がかけられていた。
5月27日午前8時前に土師氏へ友が丘中学校へいく様に電話したのは橋本校長だった。

<神戸市立多井畑小学校教頭>
高橋教頭

<なかよし学級担任>
多井畑小学校:担任 森先生

<なかよし学級元担任>
多井畑小学校3年生の時:担任 萩森先生。
愛知県から淳君の通夜に駆けつける。

<なかよし学級担任>
多井畑小学校:親学級の6年2組担任 上野先生

以下被害者の山下彩花ちゃんの家族-----------------
img05.jpg
以下被害者の山下彩花ちゃんの家族-----------------
事件当時10歳
img06.jpg
<山下京子(やましたきょうこ)>
山下彩花の実母
以下被害者の堀川ひとみちゃんの家族-----------------
<堀川ひとみ>
事件当時(9歳)
<堀川耕一郎>
実父










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7、事件周辺の地理


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.120

05月24日(土曜日)淳君が行方不明になった当日

午前08時頃、会社が休みなので私は起きてシャワーを浴び、庭の草むしりをしていました。
昼頃、親戚が車を洗いにやって来たとき、Aが庭の南の土手の方へ歩いて出掛ける姿を見た、と言ったのを覚えています。
私は午後一時頃から三時頃までパチンコをし、家に戻りました。
五時半頃、土師淳君のお母さんから、「お宅に淳が行ってない?」と妻に電話がありました。
妻は淳君が来ていなかったか、淳君の友達だった三男に聞き、三男が「ここ最近は家には来ていない」と答えたので、妻は土師さんに「ここ最近は家には来てないようよ」と話していました。
妻が「淳君、どないしたん?」と尋ねると、「いやー、帰ってくるはずやのに帰ってないねん」と土師さんが心配されていたと言って、妻は近所の公園へ20分ほど淳君を探しに行きましたが、見つからなかった言って帰ってきました。
07時頃、夕食の準備を終えた妻と相談し、私も三男を連れてもう一度車で淳君を探しに行くことにしました。
Aはその時は家に戻っていました。
出掛ける前にAと次男に、「ご飯食べて風呂に入っとき」と声をかけ、「淳君を探しに行ってくるわ」と出かけました。
Aはその時、お風呂に入る準備をしていたと思いますが、出掛けにちょっと会話しただけなので、Aのその時の詳しい様子はあまり記憶にありません。
外は雨でした。私たち三人は車で出て、まず「グリグリ公園」「パンダ公園」の砂場、土管の中などを探し回りました。
アベックが雨宿りをしていたので、私は「小学校6年生ぐらいの男の子を見かけませんでしたか」と聞くと、「見ませんでした」と言われました。
次に友が丘中学の近くの神戸大附属の医療短大の横を通り、育英高校のグラウンド方向に行って、道路端の茂みを懐中電灯を照らして妻と三人とで歩き。「淳くーん」と叫びながら探しました。
それからもうい一度、車に乗りタンク山の下の道を回り、ミニコープの裏の公園を探しました。八時頃、やはりみつからないので、妻が土師さんのお宅に電話を入れました。確かご両親は探しに出ておられ、ご長男が出られたと思います。
もう少し探してみようということになり、奥の公園に行きテニスコート近くに車を停めて、近くにあった物置小屋なども念のため探してみました。淳君が怪我でもして雨宿りしていないか、と思ったのです。
結局みつからず。妻が八時半頃、もう一度土師さんのお宅に電話しました。
十時頃、三人とも疲れたので家に帰りました。
妻は寝る前に、必ず子供達の部屋を覗いていました。その日もAの部屋も覗いていますが、その時も別段変わった様子はなじゃったようでした。



「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.122

05月25日(日曜日)

午前八時頃、私三男は、淳君をもう一度探しに行きました。
三男と私が行動を共にしたのは、もし私が淳君を見つけたしても、私には淳君が付いて来てくれないのではないかと心配し、時々遊んでいた三男に「一緒に行ってくれ」と頼み、三男はもちろん「行く」と言ってくれたからでした。
車で友が丘中学の西を回り、育英高校、北須磨高校の北側に出て須磨パテオへ行きました。その信号の前で多井畑(たいのはた)小学校の先生を見かけ、三男と「先生も朝早くから探し回っているんやなあ」と話したのを覚えています。
昨日んお夜回った奥の公園に行く途中、淳君のお兄ちゃんともすれ違いました。
お兄ちゃんが心配そうに探し回っている様子を見て、私たちも奥の公園をもう一度丁寧に探してみました。
午前九時半頃家にいったん帰り、お茶を飲みました。その時妻が「淳君はご両親と奥須磨公園に行った事があるはずやわ」と思いだしたので、十時頃また私は三男と二人で、今度は自転車で奥須磨公園まで探しに行きました。
三男は次男の自転車に乗り、私はAのグレーの自転車に乗っていました。
妻はその後、美容院にい行ったと思います。
十一時半頃、喉が渇いたので休憩しようと、私達は北須磨コープにいきました。
コープ前で長男のAと会いました。
Aは「自転車を交換してくれ」と私に言いました。
私は周りは一生懸命探しているこういう時、Aがあまりに捜索に無頓着なので、「お前、どこ行くんよ」
と尋ねました。
「ビブロスに行く」とだけAは答え、その方向へ交換した自転車で走って行きました。
私と三男はコープでパンとジュースを買い、パンダ公園で食べ、十二時半頃、チョコレート階段を上ってタンク山の頂上まで行きました。
年配の男性が私達より先に、頂上へ来ていました。
私達はしばらくして山を下りましたが、コープの前で今度は淳君のお母さんに出会いました。遠目からでもお母さんが心配げで寂しそうな表情をされているのが分かりました。
会釈だけして、私と三男はいったん家に戻りました。
美容院から家に戻っていた妻にその話をすると、すぐ土師さんに会いに出かけました。
妻は途中で土師さんのお友達と合流し、その人と一緒に淳君の写真を持って向かいの高層住宅を回ったそうです。
それから多井畑小学校へ行き、バス停にも写真を貼ろとPTAで話し合い、夕方頃に家に戻ったそうです。
私たちは三時頃、少し休憩し、今度はパテオの方向から竜が台を回り、タンク山の北側から山の中に入って、二人で「淳くーん」と叫びました。
「ドラえもんがこういう時、本当におったらええな」
三男とそんなことを話しながら探しましたが見つからず、今度はその南側の坂道を上り、中学校の北側を回り、五時頃家に帰りました。
その後でもAも一緒に家族五人揃って夕食を食べました。その日は当然、淳君の話題が上ったと思いますが、特にAに変わった様子はなく、全く記憶に残っていません。



「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.124

05月26日(月曜日)

午前五時半頃、妻は起きて朝御飯の準備。四十五分頃、私は食堂に下りて行って朝食をとり、六時二十分頃、妻に車で名谷駅まで送ってもらい、会社に出勤しました。
ここのところ、仕事が忙しかったので、毎朝妻に駅まで送ってもらっていました。
妻は前日に決まった土師さんのお宅の電話当番をするために、九時十五分頃家にいたAに声を掛けて出て行ったとのことです。
午後二時半頃、雨が降っており、妻は一緒に電話番をしていた方から傘を借りて家に戻り、少ししてから友が丘中学校の生活指導部の先生が、Aの家庭訪問にこられたそうです。
「A君。最後の修学旅行やから皆と一緒に行ったらどうや。もう一度考え直してくれ」先生はそんなことをおっしゃり、Aに尋ねたそうです。
Aはぶっきらぼうに対応し、黙っていたそうです。
Aの様子をきかれた妻は、家で口数が少なかったAが、学校を休むようになってから、前より居間に下りてきて、私達と一緒にたわいもないテレビ番組の話をするなど、自分から喋るようになったと報告したそうです。妻も私もAの変化を喜んでいました。
この時のAの様子が、おかしかったという報道があったようですが、妻の目から見てそんな印象はなかったそうです。
私が家に帰ってAを見ても、様子がおかしいとは思いませんでした。

生活協同組合コープリビングセンター北須磨店→コーナン→万代北須磨店
神戸市須磨区多井畑渋人谷上1-1
神戸市立多井畑(たいはた)小学校:神戸市須磨区友が丘3-106
北須磨公園:通称パンダ公園:神戸市須磨区友が丘7丁目
友が丘南公園(通称ぐりぐり公園):神戸市須磨区友が丘3丁目
神戸市立友が丘中学校:神戸市須磨区友が丘7丁目283-1
神戸大学医療技術短期大学部:神戸市須磨区友が丘7-10-2
育英高校第二グランド:神戸市須磨区友が丘7丁目
兵庫県立北須磨高等学校:神戸市須磨区友が丘九丁目23番地
須磨パティオ:神戸市須磨区中落合2-2-1
奥須磨公園:神戸市須磨区多井畑字池の奥上18
コープ北須磨:神戸市須磨区友が丘7-275-2
ビブロス須磨友が丘店(北須磨パーク・ホームズ):神戸市須磨区友が丘7-3-3
神戸市須磨区竜が台
名谷駅(みょうだにえき):神戸市須磨区中落合
少年Aの自宅の南は土手
須磨警察署(すまけいさつ):神戸市須磨区大池町5-1-30

ミニコープ裏の公園
奥の公園のテニスコート
物置小屋

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8、少年A(東真一郎)の養育史 誕生から2歳まで

精神分析的にはクライアントの養育史を重視する。「少年A」この子を生んでから、少年Aの養育トピックをひろってみる。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.132

命名の由来「真実を見極める子に育つように!」(父、母)

1982年07月07日06時15分 誕生

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.133

<生まれた時の健康状態> 体重 3200グラム 身長 49.00センチ 胸囲 32.00センチ 頭囲 33.50センチ

神戸市北区の団地の社宅にて夫婦で生活

見合い結婚(夫婦共に30歳)
父は男の子誕生を望んだ。
二年後長男誕生(夫婦共に32歳)つわりは平気だった
三年後次男誕生(夫婦共に33歳)

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.135

<産後の私の健康>「産後はいちばん大事や。産後を乗り切ったら、あとも健康でいられる」という母の勧めで、実家(友が丘の家。当時は私の母と姉夫婦が一緒に住んでいた)に二ヶ月ほどいることになりました。食事の準備も掃除、選択も一切しなくていいので、毎日非常にのんびりとした気持ちで過ごしています。子供の世話だけでよいので非常に楽食欲もあり、何でもおいしく食べ、よく寝て、至って体の調子は良好。」


「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.136

●07月14日 Aはご機嫌である。よく寝る。笑うと右頬にえくぼが出る。人の気配を感じたら、抱いて貰おうと少し泣く。様子を見ていると、また寝てしまった。

●07月19日 朝、36度09分の熱があった。でも、母乳はよく飲む。心配なので病院へ連れて行こう。異常なし。臍(へそ)の緒(お)を消毒してもらった。

●07月22日 お風呂に入れても寝つきが悪いようだ。どうしたのかと思ったら、顔に汗疹(あせも)がでていた。Aももう、何でも一人前である。

●07月23日 朝、風呂に入れた。気持ちがいいのか、お乳を飲ますと寝てしまう。Aは気遣いなのか、寝る前にいつものように、愛想笑いをする。日に日に大きくなる、と皆が言うけど、毎日側で見ていると分かりにくい。

●08月05日 今日初めてトイレでウンチさせた。なるべく早く、そういう習慣を付けよう。一ヶ月検診へ。母子ともに順調

●08月の経過 友が丘の家で Aと私は実家。お父さんは一人で社宅に戻って、会社に行く。でも仕事が終わるとお父さんは毎日、Aの顔を見にやってくる。皆、それはもうAを可愛がり、Aには生まれた時からきっちりと抱き癖が付いてしまった。おばあちゃん、姉夫婦、Aの従兄弟たち、お母さんの誰かがずっとベッドの側に付いて、Aがちょっと動いても、「あ、今動いたわ」と誰かが居間や台所へ報告しに来て、今度は報告された人が、「どれどれ」という感じで、また見に行く。いつも、常にAのベッドの周りに人がいる。その動作ひとつひとつを眺めては「ほおー」と感動し、Aは誰かが抱いていないと、ずっと泣き止まなくなってしまった。ちょうどビーと泣き声がすると、「どうした、どうした」と誰かがパッと駆け寄って抱きあげ、手がだるくなると、「次は抱くわ」と交替交替で、子供(Aの従兄弟)たちまでが泣かしたらあかんと抱き、久しぶりの赤ちゃんの誕生を喜ぶ。

●4ヶ月の記録 卵でジンマシンが出る。顔が真っ赤になり、目が腫れたので、急いで病院へいった。すると1時間ほどでひいた。便は一日平均1回。時々、2回。

●5ヶ月の記録 12月26日 湯上りに牛乳を飲ませたら、すごくもどした。、飲ませ過ぎたのかもしれない。今年の風邪はもどすらしい。少し様子をみて病院へ行こう。夜中少しぐずる。何でも出で掴もうとし、口に持っていことする。離乳食は牛乳、スープを主体にして食べさせる。パンがゆ、じゃがいもを潰して牛乳でといたもの。

●6ヶ月の記録 01月16日 5日ぶりに便をした。Aは子供がするような立派な便を初めてした。30分ほどし、また、たくさんする。 この頃、離乳食を大分、食べるようになった。小さじ5杯ほど食べるようになったので、とても嬉しい。

●02月06日 下の段の真ん中辺りに歯が生えはじめた。時々、タイミングよく、Aは「いない、いない、バー」をしながら、立とうとしてきた。01月30日から02月05日まで鼻風邪をひくが、軽くて済む。02月05日、062地の午前02時から03時半頃まで夜泣きをした。散歩に出られなかったせいだろうか?

●7ヶ月の記録 02月22日 やっと寝返りが打てるようになる。すごく外に出たがる。少しお座りをするとフラフラとどこにでも倒れてしまう。油断すると、すぐ頭を打ちそうになるので、気を抜けない。

●8ヶ月の記録 八ヶ月に入ってからお座りがしっかりしてきた。すぐ腹這(はらばい)になって、とにかく前へ行こうとするのだが、気持ちだけが前へ行って体がついていかないようだ。しまいに、思い通りにいかなくて怒り出す。この頃、離乳食をあまり食べないので、少し心配だ。便が固い。便通が一日、二日おきだったりする。最初の頃はなかなか寝付かなかったが、この頃は午後九時には寝るようになった。習慣になったのか、九時頃には目を擦るので、急いで寝かせにいく。座らせるとすぐ這い、後ずさりをするようになった。

03月31日 お父さんが仕事に行くとき、初めてお見送りをしたら、泣いて泣いて仕方なかった。

●9ヶ月の記録 テーブルを掴んで立とうとする。検診に行ったら、小柄だがバランスが取れているとの事。健康で別段、異常なし。まずはひと安心する。

●初めてのお誕生日 あっという間にAも一歳。めでたし、めでたし。8月上旬に一日だけ友が丘の家に預けて泊めたら、泣くこともまなく、すぐ寝たそうである。でも、次の日に家に帰って来たら、すごく甘えん坊になり、私の側から離れなかった。やはり余所の家に泊まって緊張したのかもしれない。

<お母さんからAへ> お母さんは健康。おっぱいがよく出て、Aは母乳で育てました。お母さんはAにはたくさん食べさせようと張り切って、毎日毎日、スープの中に野菜を刻んで手製の離乳食を作っていました。カボチャを自分で茹でてすりつぶしたり、野菜を煮込んでトロトロにしたり、全部手作り。だけど、Aは赤ちゃんの頃、アレルギー喘息が少しあって喉がゴロゴロし、食が細かった。お母さんのあげすぎかもしれないけど。友が丘から社宅に戻ってからは、Aの身体が心配で、やれ「熱がある」「便が出ない」と大騒ぎし、小児科に入り浸っていました。お父さんもAの顔が見たい、と会社から、毎日早く帰ってきてくれ、Aはいつもお父さんの膝の上で夕食を食べていました。

●1歳1ヶ月 1983年08月31日 Aが初めて立つ。いつもフラフラしてたAが、自分の足でしっかり立った。

●1歳2ヶ月 「あーちゃん」。Aの第一声。唐突にAがキチッと言ったので驚いた。「あっこの子、今喋った」とはしゃいでしまった。(Aは比較的、赤ちゃん言葉をあまりしゃべれず、スラスラと綺麗に話せる子供だった。初めて子供だったので、私は子供はこのぐらいで喋るのかな、と思っていましたが、次男、三男と比べると、喋るのは断然早かったと思います)

●1歳6ヶ月 次男が生まれてすぐ、Aも連れ、三人で友が丘の実家に帰っていました。その年の暮れの12月30日、Aが躓いてサイドポートの角で頭を強打。ボコンとすごく鈍い音がし、Aの頭に穴が開いたように血がどんどん溢れ、もうびっくり仰天して、急いで救急病院に連れて行った。Aの傷は骨の一歩手前まで達し、五針も縫う大怪我だった。「血がたくさん出たから、骨までいかなくて済んだんですよ」と先生がおっしゃり、ひとまず安心した。まだ赤ちゃんなのに、こんな怪我するなんて可哀相なことをしてしまった。でも、安心も束の間、翌日の昼頃から熱がすごく出て、40度近くまで上がった。暮れなので病院は開いておらず、やっと見つけた近くの開業医に連れて行ったら、風邪という診断だった。薬をもらい熱を下げたが、きれるとまた上がってしまう。お正月中もずっとそんな状態で、大きな病院が開いた01月05日、Aはとうとう肺炎で入院。頭を打つ前から
風邪気味だったので、どちらが原因で高熱が続いているのか分からず、ずっと不安だった。もし突然死でもしたら、どうしようか。しかし、一週間後には退院でき、すと安心する。でも、打ったのが頭だっただけに、不安が残る。その後は家の柱、コーナーボードなど、角という角をテープで巻いた。子供の行動は予測がつかないので、気をつけないと。

●1歳9ヶ月 おむつをすべて取る。昼のおむつはもっと早く取ったのですが、夜になるとなかなか取れなかった。でも、それ以降、お漏らしは大丈夫だった。

母の主観で綴られた育児日記を眺めてみても、決定的な理由は見当たらない。

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9、少年A(東真一郎)の養育史 物心がつく迄

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記に目を通していく。P.144~。

1、3、4歳の頃のAに、躾として最初に教え込んだのは、ご飯が終わったあとに後片付けをする事でした。

2、下の弟たちや自分より年下の子供を苛めたらダメよ、とAによく言いきかせていたことです。

3、朝起きたら家族みんなに「おはよう」と言うこと。

4、外出時に電車の中なので騒いだときなどは、「人に迷惑になるでしょ」と、ピシッとお尻を叩いて、言いきかせたりした。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.152

三男が生まれて間もないときのことですから、Aが五歳の頃でしょうか、急に「足が痛い、痛い」と言いだしたのです。特に膝を曲げた後伸ばすと痛がるので、心配になって元町の整形外科に連れて行きました。病院でレントゲンを撮ってもらって全部調べたのですが、Aの足のどこにも異常はありませんでした。そのとき、先生に家族状況を聞かれました。三男が生まれて間もない上に小児喘息を患っているので、長男や次男をあまりかまってあげられないでいる、ということを説明しますと、「長男さんをもっとかまってあげてください。恐らく精神的な面からくる症状でしょう」と言われました。

少年Aは無意識に疾病利得を獲得しようとした。三男に注がれてした母の愛情を奪い返そうと「自らの膝に痛みを発生させてまで」母の関心をひこうとした少年Aの心は正常なのである。少年Aに課せられた「長男」と言う立場が彼の心の発達に微妙な影を落としている。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.153

幼稚園の音楽会のとき、Aはその3、4日前からずっと風邪で練習を休んでいました。前の日になって、ようやく幼稚園に行けるようになりましたが、Aがそのまま音楽会に出たら、不安がってビビッてしまうのではないかと心配になり、先生に相談しました。先生はAの担当楽器(何かは忘れました)を、簡単なトライアングルに換えてくださいました。そして、音楽会の当日の出掛けに、私はこう言ってあげたのです。「緊張するなら周りの人間を野菜と思ったらいいからね」

母親は、母親としての思いで少年Aに母親として接しているのだが、果たしてそれを少年Aが望んでいたか?相当怪しく感じる。母は専業主婦として家庭の中にあって母の役割を演じていたのだが、なにか少年Aが望んだ事と、母が望んだ事とがズレている様な感が否めない。詳しくは事項で・・・。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.164

Aが小学校3年生のときのことです。兄弟三人が、三つ巴で取っ組み合いの喧嘩をしているところに帰ってきた夫が、長男のAに手を上げ、怒鳴りつけました。するとAは、急に目を剥くというか変に虚ろな目になり、宙を指差して、「前の家(多分、北区の社宅のこと)の炊事場が見える、団地に帰りたい、帰りたい」とうわ言のように喋りました。その様子がとても普通ではなく、怯えたようにガタガタ震えだしました。私は驚いて駆け寄り、「A、大丈夫やから。お母さんが全部、ちゃんと守ったるから。大丈夫やからね」と震えているAを、しばらくじっと抱いていました。

後日、大阪のある病院の神経内科にて

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.165

「お母さん、これは構い過ぎですよ。なるべく本人を放っといて下さい。外に仕事にでられたらどうですか?」と、その神経内科の先生はおっしゃり、Aを「軽いノイローゼ」と診断されました。

「もっと構って」と言われたり、「放っておけ」と言われたり母親も大変だなと思いながらも、基本、母親の子どもへの対応方法は、子どもから要求された分だけ過不足なく即与える事である。詳細は「オールOK子育て法」を検索の事。

以下、少年Aの実母とAの祖母の会話を引用する。

「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記 P.167

私と母は、よく子供のことで口喧嘩をしていました。「あんたは、子供たちをよく叱って厳し過ぎる。そんなんやったらあかん。子供が萎縮してしまうわ」「お母さんは責任がないから、そんなこと言うんや。言わせてもろたら、お母さんも私たちにすがい厳しかったやんか。よう言うわ。子供のことには口出しせんといて」でも、実の親子でしたから、喧嘩しても一晩で忘れ、後に残ることはありませんでした。

日本の三世代の親子関係を眺めると、普通に目に付くのは・・祖父母が孫を「目に入れても痛くない」程溺愛するのに、親子は「支配被支配」の関係である事が実に多い。考えてみれば不思議な図式である。親子関係が次の世代の親子関係に連鎖していく事を「世代間連鎖」と言うが、子どもの自主性を徹底的に潰して親の意の通りのレールに乗せておいて、ある時期が来ると「もう大人なんだから自己責任で」と、それこそ無責任に子どもの自主を強要するのは大人の身勝手としか言いようがない。

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10、私が想像する少年Aの病理

今回のサイトの作成するにあたって、「少年A この子を生んで 父と母 悔恨の手記・・」やネット上の情報など玉石混交(ぎょくせきこんこう)の文献をチェックし、GoogleMapで位置関係を確認したり、エクセル表に事象を時系列に沿って並べてみた。

父と母の手記はAmazonで購入して読んでみたのだが、一読しても少年Aが母親から酷い虐待を受けているとは受け取れないし、少々期待外れの感は拭えなかった。

秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大君のように、幼児期から母に虐待にも等しいスパルタ教育を受けて「あぁこんな環境で育ったら、普通の人と異なった価値観や考え方を持つ様になっても仕方ないな」と思わせる事象は見当たらなかった。

だがまてよ、少年Aは逮捕後、初めて面会した両親(特に母親)に向って「帰れ!ブタ野郎」と激高し感情を顕にしている。・・そう言ったところを勘案すると、母親も父親も気がつかないうちに少年Aの病理は深く静かに進行していたのではないだろうか?

思春期の子どもの対応の仕方は相当に難しいものがあるのがある。

もう既に50歳を超えている私が我が身を振り返りながら少年Aの心の闇を探ってみる。ちなみに私の兄弟構成は私(長男)、4つ下の弟(次男)、六つ下の妹(長女)で、私も少年Aも長男としての十字架を背負っている。

<兄弟関係の難しさ>

精神分析の世界で「ロイヤルシート(royal seat)」と言葉を使う。意味は、王室の座席ではなく「母親の膝の上」を表す。つまり子供からみて母親の膝の上は絶対的な安心感を得られる場所という意味である。それくらい、子供からみて母親とは絶対的、決定的な存在であると言う事。

少年Aにしてみれば自分が誕生して1年4月後に次男が誕生。さらに3年2ヶ月後に誕生。最も母親を独占しロイヤルシートに座りたい時期(0歳から約3歳)に、次々と弟が誕生し相対的に長男は構ってもらえなくなり「あなたはお兄ちゃんなんだから」と言われなき義務と責任を負わされる。本当は幼い子どもは母親の愛情を独占して然るべき時期なのであるが・・。

母が弟と妹に構っていると、自分が粗末に扱われている様に感じ、母親に自分の存在をアピールしようとしていた自分自身が思い出される。父が自分には見せない慈愛に満ちた態度を他人の子どもに見せると、なんとも言えない嫉妬心が湧き上がって来るのを抑えられなかった。以前少子化時代を迎えるにあたって「長男・長女の時代」という本(1984年12月)が出版された事があったが、確かに兄弟間での自分のポジションが性格人格形成に及ぼす影響は大なのである。

少年Aが逮捕後「母親の愛情を感じた事がない」と供述しているはこの辺の事情が大きく影響しているのではないだろうか?

<母親が知らない子どもの顔>

少年Aが学校で問題を起こすたびに母親が呼び出され迷惑をかけた関係者に謝罪をしてまわる件が多く登場する。母親は少女の靴を焼却炉で燃やしたり、温度計を万引きしたり、時計を拳に巻いて友人を殴り歯を折ったり・・・母親は思春期の子どもの事だからとタカをくくっていたのだが、少年Aが逮捕されるに至り、自分がどこまで少年Aを理解していたのだろうと愕然とする。

自分の思春期の事を思い出してみる。私は熱心な宗教組織に属する家庭の長男として生まれた。自身が知らないうちに入信させられる。小学校から宗教組織の活動に参加させられる。成人後は宗教組織が母体の政治活動をさせられる。宗教組織によって布教活動を強制される。立場的には悪名高いカルトの「オウム真理教」に入信している両親のもとに生まれた状態と言ってよい。

生まれてから成人する過程において、自我を形成する以前にある強烈な「価値観」を植え付けられる。そうすると人間はあるタイミングで根っから洗脳されるか?その組織から脱会するか?の二者択一を迫られる。私の場合は狡猾であったので、経済的に独立できるまでは洗脳されているフリをして、その後は組織からも家庭(家族)からも離れて生活する道を選択した。それ以前に体は疾病し(今から考えれば精神的な破綻を原因とする疾病)常人としての生活そのものが立ち行かなくなっていたのだが・・・。

ご飯を食べさせてもらった寝る場所も提供してもらっているのだから、反抗しながらも、結局は従順なフリをするしかないではないか?人によっては非行に走ったり、薬物依存、家出をしたりするかもしれない。

私の場合は表だって非行はしなかったものの、親の見えないところで粛々と離別へのタイミングを図っていたのだった。大げさに言えば変な宗教に支配された祖国を捨てて亡命する事を企てたのである。

少年Aは親に悟られない様に、ナメクジからカエルを解剖し、猫を解剖し、やがて少女、少年を殺害するに至った。ただ、少年Aの場合は性衝動が残酷行為(サディズム)とセットになってしまったのは特異な事象かもしれない。健康な男性の場合は精通(射精)は性的イマジネーションとして処理されるもので、(エロ本をみたりアダルトビデオをみる事によって)異性との性行為をイメージするのが普通なのであるが、残虐行為を伴う精通はやはり異常の範疇に入ると思う。

中学生ともなれば、異性に興味を持ち、母親に内緒でベッドの奥にエロ本やアダルトビデオを隠し持つのが当たり前の精神の発達段階であって、間違ってもそれを咎める様な事をしてはいけない。素知らぬ顔をしてそっとしておくのが最善の接し方である。「我が息子も当たり前の道筋を歩んでいるなよしよし」とほくそ笑むべきである。^^

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11、少年A 矯正2500日 全記録 草薙厚子の解説文

少年A 矯正2500日 全記録 解説-「少年A」の叫びが聞こえるか P.244

わたしも「少年A」の精神鑑定を行った医師から話を伺ったことがある。そのとき驚いたことは事件から数年後に「これまで話せなかったことですが」と断った母親がおずおずと語ったと内容であった。何と生後半年ぐらいのときから体罰を加えていたというのだ。

は?・・である。「少年A」この子を生んで 父と母 悔恨の手記を通読しただけでは、普通の家族の中で男三兄弟の長男として育った少年Aとしか読めなかったのに、今頃、「生後半年ぐらいから体罰してました」・・・この話は本当なのだろうか?

ちなみに解説文を寄稿したのは「有田芳生(ジャーナリスト)」この人の経歴を調べてみると、実父は共産党員の有田光雄。出身は京都。選挙時期になるとやたら前原さんのポスターが張られる京都である。有田氏がメディアに露出する機会が増したのは、やはりオウム騒動の頃のコメンテーター役で1990年代後半。「共産党への手紙」と言う党への批判本を編集した事で党を除籍処分。その後、新党日本、民主党へ。2010年の参議院選挙で比例区で当選。よって有田氏は民主党所属の参議院議員と言う事になる。

有田芳生 Wikipediaより

有田は、事件の犯人がオウム真理教で使われていた言葉の日本語訳を犯行ノートに記していたことを元にオウム真理教事件が影響していると推測している。また犯人の精神鑑定を担当した精神科医も同様の見解を示しているという。

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12、おわりに

「絶歌」を読む前の前段階として、事件の事、少年Aの事を正しく認識する必要があると考え、大急ぎで「少年A この子を生んで・・・父と母 悔恨の手記」をAmazonで取り寄せ、京都駅の新幹線のkioskでみつけた「少年A 矯正2500日全記録 草薙厚子」を資料として本サイトを構成しました。

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平成27年06月30日

月刊 精神分析 編集部A

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13、付録 少年Aの作文

「お母さんなしで生きてきた犬」

ぼくのうちのサスケは、うまれてすぐぼくのうちにきてそだてられたから、お母さんのかおもしりません。くもりの日や雨の日には、こやの中で「クーン、クーン」といって、目になみだをためていました。ぼくがにわにでていって、「お母さんがこいしいか」ときいてみたら、「クーン、クーン」とまたいって、ぼくの足にしがみついてきました。ぼくは、「ぜったい、お母さんにあえるで」って、わかってもいないのに、つい口に出してしまった。だって、すごくかわいそうだったからだけど、そうゆうことをゆうと、サスケのなみだがおさまって、ぼくの手をなめてくれました。雨がすごくふって、ぼくのかおにあたってもぜんぜんきづきませんでした。サスケとの会わにしんけんになっていたのです。そのあと、ぼくはうちの中に、サスケはこやの中にはいっていった。

【注】この作文には、担任の先生が省略した部分があるというのも報道で知りました。省略された部分は、次の文章だったそうです。

ぼくもお母さんがいなかったらな。いやだけどやっぱりぼくのお母さんみたいのがサスケのおかあさんだったらわからないけど。やっぱりかわいそうだな。

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「まかいの大ま王」

お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから2本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーとおちる。そして、ひっさつわざの『百たたき』がでます。お母さんは、えんま大王でも手がだせない、まかいの大ま王です。

【注】『百たたき』と言うのは明らかに誇大であり事実ではない。

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14、付録 FOCUS騒動

FOCUS(フォーカス)とは

『FOCUS』(フォーカス)は、1981年10月23日に新潮社から創刊された写真週刊誌の草分け。2001年休刊。

1997年07月02日 - 逮捕少年の顔写真が掲載された写真週刊誌『FOCUS』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。

事件当時、34歳だった私はマスコミから流される情報を注視していた。一部、暴力団やテキヤが少年の写真が掲載された写真週刊誌「FOCUS」を買い占め、高値で闇販売し資金源にするのでは?と憶測するラジオパーソナリティがいた。当時、既にネット環境が普及していたので、インターネット上に少年Aの顔写真が流布し、すぐに騒ぎは収まった。と言うのも掲載された少年Aの写真は学校の集合写真から抜き出したもので、特に憎悪を掻き立てられる肖像でもなく、ありふれた中学生が引き起こした猟奇事件の感を強くした。

少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を出版した。
写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。

また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。

その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。

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15、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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