佐世保小6女児同級生殺害事件 御手洗怜美 タイトル画像

1、はじめに、

img17.jpg

あの事件から今年で10年。惨劇は彼の地(長崎県佐世保市)で繰り返された。

本当はもう忘れてしまった方がよかったのかもしれない。あの事件(2004年)が起こって10年。やっと、被害者の遺族(父と実兄)は命の尊さをテーマに講演活動をしたり、彼の地:佐世保で継続されてきた「命を大切にする教育」は10年目の節目を迎えていた。

佐世保市はすべての小中学校を対象に、毎年6月を「いのちを見つめる強調月間」と定めている。市教育委員会によると、初日は全校で校長が生徒に向けて、命の大切さに関する講話を行い、また校内を1週間開放して、生徒の保護者や地域住民に見てもらえるように道徳の授業を公開しているとの事。

週刊誌

その最中に事件は起こってしまった。

あえて、この事件をテーマに取り上げる事は避けてきたのだが、彼の地で10年の時を経て、同様な事件が起こってしまった以上、避けて通る事はできない。

今回(2014年)の事件に触れる前に、10年前に彼の地で起こった「佐世保小6女児同級生殺害事件」を取り上げます。

これも因果な話であるが、10年前の事件に関連して最近(2014年03月31日)、集英社からある本が出版された。タイトルは「謝るなら、いつでもおいで」著者は、事件の被害者:御手洗怜美さん(事件当時小6、12歳)の父:御手洗恭二(毎日新聞社佐世保市局長、事件当時45歳)さんの直属の部下だった川名壮志(かわなそうじ)氏。駆け出しの記者として佐世保で地方在住の記者として働いていた川名さんは、上司の娘(怜美さん)が小学校内で同級生に殺される事件に遭遇する。川名記者は怜美さんとも面識があり、公人(新聞記者)と私情との葛藤に苛(さいな)まれながら報道人として活動する。本書の中で、妹を失った兄(次男)のその後を知ることができた。本のタイトル「謝るなら、いつでもおいで」は次男から発せられた言葉。詳しくは後述。事件当事者の身近で取材活動を続けた新聞記者が認めただけあって説得力のある記載が並ぶ。結果、本サイトは現役の新聞記者で事件当時もっとも被害者家族と物理的に近い場所で日常を過ごしていた川名さんの著書の内容(事件当時の記録)と既出のトピックを見比べながらの作成となった。

本サイトは「謝るなら、いつでもおいで(2014年)」(集英社)川名壮志著を読んでから閲覧されるとより深く事件を理解できます。

佐世保小6女児同級生殺害事件

佐世保小6女児同級生殺害事件(させぼしょうろくじょじどうきゅうせいさつがいじけん)は、2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられ、死亡した事件である。小学生の女子児童による殺人事件でかつ学校が舞台であり、世間に大きな衝撃と波紋を広げた。被害者の死因は、首をカッターナイフで切られたことによる多量出血だった。

2014年平成26年08月31日 月刊 精神分析編集部A

ご意見・ご感想はlacan.fukuoka@gmail.comまでお願いします。

△TOP

2、時代背景

<世界情勢>

2004年。冷戦が終結した世界情勢は2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件から、紛争を解決する手段としての戦争(軍隊VS軍隊)は影を潜め、体制VSテロリズムと変質した。福岡県出身の香田証生さんは、2004年4月「イラクの聖戦アルカイダ組織」に拉致されナイフによって首を切断され殺害された。遺体は2004年10月31日未明にバグダード市内で発見された。殺害映像は犯人グループによりインターネットを通して公開され、青少年が所持する携帯電話でも簡単に閲覧でき社会問題化した。

<サブカルチャー映画>

img19.jpg深作欣二監督、藤原竜也主演で映画『バトル・ロワイアル』(R15+指定)が2000年12月6日に公開。『ヤングチャンピオン』(秋田書店)にて田口雅之作画で2000年から2005年の5年間に渡って連載された。事実上、深作欣二監督の遺作となった作品。ゲームと称して中学生同士が殺し合いをするショッキングな内容で、国会(文教委員会)でも物議をかもしたが、興行収入31.1億円の大ヒット作となった。人気俳優の藤原竜也がこの作品でデビューを飾る。男子生徒5番の川田章吾を参議院議員山本太郎氏が演じている。

<ネット環境>

当時、もちろんスマフォは存在していないし、当然無料通話アプリのLINE、ツイッター。フェイスブックなんて存在しない。あるのはガラケー(ふたつ折りのパカパカ)携帯電話とパソコン。人気機種はN505iS(NEC)、P900i(パナソニックモバイル)。パソコンの世界では、コミュニティサイトのサービスが活発化しており、この頃から掲示板をめぐってのトラブルが顕在化する。アメーバブログのサービス開始が2004年09月15日。Yahooブログの運用開始が2005年。

<政治・経済・スポーツ>

2004年は第二次小泉内閣の頃。国民的小泉人気を背景に「痛みを伴う構造改革」を断行するも経済はパッとせず、2008年に麻生内閣が誕生。2009年に民主党鳩山内閣へ政権交代と続く。2004年はアテネ五輪が開催され水泳の北島康介選手のレース後のインタビューの「チョー気持ちいい(超気持ちいい)」が流行語となる。

△TOP

3、登場人物

御手洗怜美
被害者
御手洗怜美(みたらいさとみ)
佐世保市立大久保小学校6年生(事件当時12歳)
住所:長崎県佐世保市天満町3-12
カフェスタHN:はるか
URLは以下の通り
http://a.myhp.cafesta.com/index.jsp?homepage=haruka009




-----------------------------------------
御手洗恭二
被害者の父
御手洗恭二(みたらいきょうじ)
毎日新聞社佐世保支局長(事件当時45歳)
住所:長崎県佐世保市天満町3-12
家族:3人の子供(大学生:徳島大学在学中の長男、中学生の次男、そして小学生の長女=被害者)妻(直美さん)は5年も続いた闘病生活の後、事件の3年前に癌で病死。事件当時、御手洗氏は、長崎支局デスクから自ら望んで諫早通信部へ移動したのであった。


-----------------------------------------
辻菜摘
加害者
辻菜摘(つじなつみ)
(1992年11月21日 - )
佐世保市立大久保小学校6年生(事件当時11歳)
住所:佐世保市小野町1410
カフェスタHN:デュオ
URLは以下の通り
http://a.myhp.cafesta.com/index.jsp?homepage=dhuo19#
少女の家にはパソコンが3台あり、そのうちの一つが少女専用だった。フォルダにはバトル・ロワイヤル関連の資料が保存されていた。スプラッター映画顔負けの猟奇的なファイルが満載だった。
事件翌日の児童相談所の会見では「面談の印象でいうと、ごく普通の女の子。我々と会話もでき、ごく普通の家庭に育っている。このギャップに大変驚いています」と中村政則所長が切り出した。「本人は問題なく育っている。成績もよく、がんばり屋だった」。「ネットの掲示板というのがあります。そこでお互いに情報交換していたようです。そこに、嫌な事を書かれたという。書き込みをやめてほしいというやり取りが、ふたりの間にあったと聞いております」と語った。
全校でも数名しかいないバス通学児童。
佐世保市営バス:大久保小学校小学校上-西大久保-上矢岳-下弓張-中弓張-登山口-うど越-有弓。
img20.jpg

P.144「謝るなら、いつでもおいで」

10年ごの自分「10年ごの自分は20才になっている。成人式があるんだなあ。着物をきてみたいけど・・・。成人式の話って、ニュースでみていても、長そうなので着物でたえられるのかなあと、しんぱいです。とにかくりっぱな成人として、一人の女せいとして、はずかしくないようにしたいなあと思います。」(加害少女が書いた4年生当時の文集)ひらがな混じりで大きさも不揃いな、いかにも小学生らしい拙い字でつづった未来。素朴な文面の脇には、はじけんばかりに笑顔を見せる似顔絵も添えられている。事件の2年前にこの文集を書いたとき、少女は成人式の日、晴れの舞台に自分がいることを信じて疑わなかった。この子が後に世間を驚かす事件の張本人になろうとは、だれが想像しただろう。10歳の少女が思い描いたささやかな自画像と、11歳で及んだ蛮行との落差を思うと、僕はやりばのない感情にとらわれてしまう。僕の手元には、5年生当時の文集のコピーがある。その文面から伝わる明るさは、4年生のときとほとんど変わらない。趣味はパソコン。好きなアーティストは平原綾香。将来の夢は小説家。ほかの女子児童のプロフィールと大差がない。



-----------------------------------------
川名壮志

被害者の父の直属の部下(当時)
川名壮志(かわなそうじ)
1975年長野県生まれ。2001年、早稲田大学卒業後、毎日新聞社入社。
初任地の長崎県佐世保支局で「佐世保小6同級生殺害事件」に遭遇する。 被害少女の父は支局の直属の上司、毎日新聞佐世保支局長だった。事件から約10年にわたり、取材を継続。佐世保支局を離任後も、少年事件や犯罪被害者の取材を続ける。警察回りや証券取引等監視委員会なども担当し、現在は東京地方裁判所・東京高等裁判所を足場とした司法取材に取り組んでいる。
著書:「謝るなら、いつでもおいで(2014年)」(集英社)。本作は、第11回開高健ノンフィクション賞最終候補作品を大幅に加筆修正したもの。
事件当時の愛車は中古で買ったトヨタスターレット。
-----------------------------------------
加害者の父
辻裕二(つじゆうじ)
生命保険会社のサラリーマンとして働いていたが、事件の9年前に脳梗塞を患い退職を余儀なくされた。しばらくは寝たきりの状態が続くがリハビリで回復、自宅で保険の代理業を営みながら、おしぼり配達のアルバイトをしていた。

-----------------------------------------
加害者の母
辻雪代(つじゆきよ)
夫の失業に伴いパートで働き始める。佐世保市内の大塔の大型スーパー:ジャスコシティの下着売り場。現在のイオン大塔ショッピングセンター(佐世保市大塔町14-2)

△TOP

4、事件の舞台 長崎県佐世保市


より大きな地図で 佐世保マップ を表示
より大きな地図で 佐世保マップ を表示

佐世保市立大久保小学校(おおくぼしょうがっこう)
所在地:佐世保市東大久保町9-10。
児童数147名、7学級(特別支援教室1を含む)
校区:谷郷町・浜田町・相生町・天満町・高砂町・木場田町・元町・上町・泉町・長尾町・西大久保町・東大久保町・比良町・鵜渡越町の一部・小野町の一部。清水中学校区。
大正12年(1923年)現在地に「大久保尋常小学校」設立。国民学校を経て現在に至る。
校歌「朝日はのぼる葉港の...」作詞・織田興一/作曲・瀬戸口辰弥。
弓張岳(標高364メートル)の中腹にある。

佐世保警察署
所在地:長崎県佐世保市天満町4-18

佐世保市役所
所在地:長崎県佐世保市八幡町1-10

佐世保といえば、オチジュン(ぬかるみの世界)。ローカルネタはさておいて、私のホーム(博多)からみると、佐賀県唐津市、伊万里市、有田町、その向こうが長崎県佐世保市。長崎県長崎市より遥かに福岡寄りと言う位置関係。

弓張岳(桜の名所)から市内を一望でき、有名企業は造船で有名は佐世保重工業(佐世保市立神町)。佐世保港は軍港としての趣が強く第二次世界大戦後はアメリカ海軍(第7艦隊)と海上自衛隊(佐世保地方隊)の基地が置かれ、佐世保港区の面積にして約8割はアメリカ海軍による制限水域となっている。

一時は経営が危ぶまれたHTBハウステンボス(佐世保市ハウステンボス町1-1)は2010年4月からHISのテコ入れによる経営再建途上である。

全国区で露出度の高い企業と言えば、テレビショッピングでお馴染みの「ジャパネットたかた」(高田明社長)の株式会社ジャパネットホールディングスの本社は長崎県佐世保市日宇町2781。

食べ物で有名なのは、アメリカ海軍の影響か「佐世保バーガー」。佐世保の商店街を歩くと普通にセーラー服(水兵)姿の海上自衛隊員が闊歩していたり、アメリカ軍のMP(ミニタリーポリス)が睨みをきかせたりしている。沖縄と少し雰囲気が似ているかもしれない。政治的には旧日本社会党委員長の『非武装中立論』で有名な石橋正嗣氏の地元。佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争は1968年。

△TOP

5、事件の舞台 詳細バージョン


より大きな地図で 御手洗怜美さん家から辻菜摘さん家 を表示

私自身は佐世保を数回訪れた事がある。福岡県福岡市(博多)からだと十分に日帰り圏内であり、佐世保バーガーを食べたり、弓張岳展望台から佐世保重工業が象徴的な軍港を一望したりするのも楽しいドライブコースとなる。西九州の九十九島といわれる小島群を眺めながら西九州道を走るのも素晴らしい。たしか春の桜の咲く時期に訪れた記憶がある。ストリートビューで確認すると記憶が蘇る。市の中心部から弓張岳展望台を目指して走ると狭い勾配が急な曲がりくねった道を走ることになる。道の両側に人家が犇めいているところもある。今思えば、私がドライブコースとして走った道こそが、毎日新聞佐世保支局(御手洗怜美さんの家)から弓張岳展望台(辻菜摘さんの家)への道のりであり、なんと殺害現場となった佐世保市立大久保小学校はその途中にあるのだ。山の中腹にある為、殺人現場となった校舎3階の「学習ルーム」のすぐ側を車で走ることになる。Googleのストリートビューでみるとこんな感じ。位置的には加害女児の辻菜摘ちゃんが通学に利用していた佐世保市営バスの「大久保小学校上」バス停留所付近。img02.jpg写真左の屋根付きバス停の向こうにみえるのが事件現場の「学習ルーム」。急な片道一車線の道路を登っていくと弓張岳展望台。事件加害女児の辻菜摘ちゃんの自宅はその近くだ。

img24.jpg


西から東へ:加害者:辻菜摘さんの家(弓張岳展望台近く:佐世保市小野町1410)---佐世保市立大久保小学校(佐世保市東大久保町9-10)---御手洗怜美さんの家(毎日新聞佐世保市支局:佐世保市天満町3-12、佐世保警察署の隣)という位置関係になる。

△TOP

6、被害者:御手洗怜美さんの生活環境

本件の報道上の特異性としてあげられるのが、殺された被害者が、大手新聞社(毎日新聞)の支局長の長女であった点。

我々一般人は、世の中の出来事をテレビ報道、新聞、ラジオ、インターネットと言う所謂、媒体(メディア)を通して知る事になる。報道の力は時として「ペンは剣よりも強し」と呼ばれたり、行政・立法・司法の三権分立の三権と並ぶ四権(第四の権力)と称される事もある。つまり報道がどのような伝え方をするかによって、一般の人々の物事の認識の仕方に大きな影響を及ぼす。

わずか11歳と12歳の女児が白昼、公立(市立)の小学校内で、殺人の加害者と被害者になると言う前代未聞の事件が発生し、更に、その被害者が毎日新聞佐世保支局長:御手洗恭二(事件当時45歳)さんの長女であった事。それは何を意味するかと言うと、本来、取材し報道する立場の記者が、報道される側に立つと言う事。

本来、犯罪被害者の人権は最優先して尊重されるべきものなのだが、市民の知る権利の前にあっけなく事件の被害者として細かなプライバシーまで暴かれ一般の人が知るところになってしまう。そういう報道とはいかなるものなのか?が時として議論のテーマとなる。

当時、御手洗怜美ちゃんの生活環境は、毎日新聞社佐世保支局と一体化した中にあった。

御手洗毎日新聞社佐世保支局長の部下として働いていたキャップ川名壮志(かわなそうじ)氏が出版した「謝るなら、いつでもおいで」(集英社)から御手洗一家と毎日新聞社佐世保支局の(生活)環境をまとめる。

img03.jpg

写真の右側が毎日新聞社佐世保支局の建物。左側が佐世保警察署。

毎日新聞佐世保支局(佐世保市天満町3-12)は、佐世保警察署(佐世保市天満町4-18)の小路を挟んで隣にある。事件発生日の20時過ぎ、毎日新聞社佐世保支局長の御手洗恭二さんが、佐世保市役所で「娘を殺された父親」として報道各社に対して記者会見に臨んでいる最中、加害女児の辻菜摘ちゃんは毎日新聞社佐世保支局の隣の佐世保警察署で事情聴取を受けていたのだ。なんたる皮肉。

毎日新聞佐世保支局の人員構成

1、佐世保支局長御手洗恭二(みたらいきょうじ)(1981年入社)(45歳)(入社24年目)。佐世保支局勤務は3年目に突入。前職は長崎支局デスク。
2、キャップ川名壮志(かわなそうじ)(入社4年目)
3、倉岡一樹(くらおかかづき)(入社2年目)事件当時、過労で倒れる。
4、事務の守田いづみ<さん

img10.jpg

毎日新聞佐世保支局(3階建て)

1階は支局員4名の駐車場
2階は職場(ワンルーム)
3階は御手洗支局長住宅
(御手洗支局長、中学校3年生の次男、小6の怜美ちゃんの3人暮らし。長男は徳島の大学に進学中。奥さんの直美さんは、3年前に癌で死亡。)


P.28「謝るなら、いつでもおいで」

・・・天井一枚を隔てて、職場と御手洗さんの自宅がある現実。3階は私邸なのに、鍵もかかっていない。午後8時を過ぎ、あらかた仕事の見通しがつく時間になると、独り身の僕は、階段を上がった先の御手洗さん宅にお邪魔した。できたての夕飯をご馳走になるのである。御手洗さんと、お兄ちゃんと、怜美ちゃんと、僕。4人が座れば、小さなテーブルはすぐに手狭になる。料理は御手洗さんの男手だから、炒め物が主流。豪快に大皿に盛られた手料理を肴に、御手洗さんは芋焼酎のロックを注いだグラスを傾ける。子どもたちの笑い声が弾け、頬をゆるめる御手洗さん。その日学校であったできごとを聡美ちゃんがうれしそうに話し、隣に座るお兄ちゃんが突っ込みをを入れる。とりとめのない雑談に花が咲き、話題は仕事だけでなく自然とプライベートのも入り込む。その意味で僕は、家族のように付き合ってもらっていた。・・・

△TOP

7、加害者:辻菜摘さんの生活環境

被害者の御手洗怜美さんが、メディア(新聞社)の上階で生活していたのと真逆で、加害者の辻菜摘さんは山の上の小さな集落で生活していた。大久保小全校の中でも数少ないバス通学者。歩いて数分のところにコンビニがあるような場所ではなく明らかに辺鄙(へんぴ)な場所である。本来なら情報から隔絶されたような場所なのだが、辻菜摘さんの家には菜摘さん専用のネットに接続されたパソコンがあり、彼女は一人でインターネット上にブログを開設し、R15指定のDVDをレンタルし私家版バトルロワイヤルを認めていたのだ。

img05.jpg
上記の写真は弓張岳から一望した佐世保湾。軍港の様子がよくわかる。

少し長くなるが「謝るなら、いつでもおいで」から一部を引用する。

P.248「謝るなら、いつでもおいで」

山頂に向かう細道は、両脇をうっそうと茂る針葉樹でおおわれている。折り重なった連なる木々は、隣の光をさえぎり、昼でも路上に暗い陰が落ちる。リアス式海岸の佐世保湾から、一気にせり上がる弓張岳。山を縫うように走る道は、さびれている。周辺にはコンビニエンスストアはおろか、昔ながらの個人商店さえない。わき道にそれれば、人目を避けるように点在するラブホテル、週末の夜ともなれば、峠のカーブを求めて集まる走り屋の爆音が、静寂を切り裂く。のどかな自然とはほど遠い、寂寞(せきばく)とした風景があたりを包む。

「溜息が出るほど暇でやんす。そりゃ山の頂上で叫びたくなりますよぉ」

ブログに書き込んだ加害少女はその山あいの小さな集落で生まれた。そこは戦後、入植者が切り開いた開墾地だった。山頂からは佐世保港の軍艦の出入りが筒抜けになるため、戦前は立入禁止区域。戦後にわずかばかりの土地を求めて、十数世帯が住み始めたのだという。

怜美ちゃんと加害少女が通った大久保小学校は、弓張岳の中腹の斜面を強引に切り崩して造成されている。ほとんどの子どもたちは、市街地から急坂を上って登校した。だが、少女が暮らす山里は、大久保小学校からさらに3kmも上り、雑木林を分け入った先だった。人気のない山道は、子どもの足で通うには厳しく、少女は学校でも数人しかいないバス通学者だった。

img04.jpg辻菜摘さんの実家は弓張岳展望台の近くにあり、この様な峠道をバスで通わなくてはならなかった。

img11.jpg辻菜摘さんの実家が映っているとされる写真。

加害少女の生活環境に関して「king-biscuit works」のはてなダイアリーの掲載文章がより深く興味深いので資料として別項にアーカイブしておきます。民俗学者としての視点が秀逸。

△TOP

8、事件の発生と御手洗恭二さんの記者会見


無限回廊より引用

2004年(平成16年)06月01日午後00時45分ころ、長崎県佐世保市の佐世保市立大久保小学校の3階学習ルームで6年生で毎日新聞社佐世保市局長の御手洗恭二(みたらいきょうじ/当時45歳)の長女の怜美(さとみ)ちゃん(12歳)が大量の血を流して倒れているのを担任男性教諭(当時36歳)が見つけ、119番通報。救急隊が急行したが、すでに心肺停止状態だった。その後、長崎大学医学部で司法解剖した結果、死因は首を切られたことによる失血死と判明した。

服に血がついていた女子児童(当時11歳)に事情を訊いたところ、カッターナイフで切りつけたことを認めた。長崎県警は女児を補導し、夕方、児童福祉法に基づき、佐世保児童相談所に通告した。
御手洗恭二
刑罰・法令に触れる行為をした14歳未満の少年(触法少年)は刑事責任を問われないため、逮捕されることはない。警察は児童福祉法に基づき、児童相談所に通告。相談所は関係者への調査を基に訓戒、在宅指導、施設入所措置を決めるか、殺人など凶悪事件の場合は家庭裁判所へ送致する場合もある。家裁は審判開始か不開始を決め、審判では保護観察、児童自立支援施設や養護施設への送致―の保護処分を決定する。

長崎県警は佐世保児童相談所から委託を受け、同日夜は加害女児の身柄を一時、保護した。長崎県警によると女児は反省している様子で、「すまないことをした」「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙を見せているが、動機については話していないという。

午後08時20分すぎ、佐世保市役所で死亡した怜美ちゃんの父・御手洗恭二が記者会見で事件について語ったが、緊急に記者会見を開いた理由について御手洗は「お話しできる内容は何もないが、要請があり応じた。私が逆の立場ならお願いすると思う。簡単にでも答えなければならないと思った」と報道人としての義務感からだったことを明かした。

P.062「謝るなら、いつでもおいで」

会見が始まったのは午後8時すぎ。それと前後して長崎大学から1台の車が御手洗さんの実家に向かっていた。車には司法解剖を終えた怜美ちゃんの亡骸(なきがら)がのせられていた。ほぼ同時刻に開かれた県警の会見と、遺族の会見。ギリギリの精神状態のなかで、御手洗さんは、怜美ちゃんの遺体の搬送からマスコミの注意をそらすことも意識していたのである。


P.129「謝るなら、いつでもおいで」

佐世保事件でも、毎日新聞社を含めて報道全社が怜美ちゃんの写真入手に走り回った。遺族が毎日新聞社の社員だったから、会社にも写真提供を求める申し出があったようだ。そうした経緯があり、御手洗さんは事件当日の会見で写真を各社に手渡していたのだ。被害者の家族としては当然ながら、御手洗さんも娘の写真を差し出す事には抵抗があった。でも、御手洗さん自身もマスコミ業界に身を置き、これまでその手の仕事も散々やってきたわけだ。事件当日の会見同様、写真についても断りようがなかった。それでも怜美ちゃんの顔が連日にわたって新聞やテレビに映しだされ、実名が出てくると、やはりひどく心が乱される。手記にはそんな悶々としたジレンマがのぞく。

△TOP

9、担任教師の証言。小5年時の担任

P.096 「謝るなら、いつでもおいで」

事件を知りうる重要人物と思われた6年生の担任は、当日の現場検証に立ち会わされていた。凄惨なシーンを目の当たりにし、「自分自身を失っていく感じがした」と周囲に語り、事件直後から入院。自殺予防の鍵付きの病室に入ったまま、依然として現場復帰の見込みはなかった。

そんななか、少女をよく知っていると思われる人物が、もうひとりいた。その年の3月、つまり事件発生の2ヶ月ほど前までクラスを受け持っていた、5年生の時の女性教師だ。取材先の上位にリストアップされる人物だが、僕は個人的にも、この人の話が聞きたかった。女性の先生ならではの何か手がかりを知っているのではないか、と思ったのだ。

彼女の自宅を僕が訪ねたのは、事件から数日後、人目を忍んで午後10じ過ぎにインターホンを鳴らした。あそるおそる出てきたのは、30代後半の女性だった。いかにもまじめでおとなしそうな女性教師は、事件のショックで小さな体をさらに縮こませながら、ポツリポツリと話してくれた。

「こんな事件になってから、まだ夢の中にいるみたいで・・・。元担任として責任を感じてます・・・。どうしてこんな事件が起きたのか、私自身もわからない。聞かれても、お答えのしようがないんです。」涙で声を震わせる。

「彼女はどんな子だったんですか。」僕は尋ねる。
「あの子の素直な笑顔と、事件が重ならないんです。どういう言葉で彼女を表現してあげたらいいか、うまく浮かばない。彼女に感情の起伏はあったんですが、すぐにカッとする子というのはほかにおいました。『この子だからやった』という話ではないと思うんです」と返答に窮する様子だった。

こちらが聞くたびに、うつむきながら言葉を探す様子だったが、唯一「彼女が得意だったのは」という質問には「図工とパソコン」と間髪をいれずに答えが返って返ってきた。
「パソコンですね。パソコンを使って文章を書くという授業があったんですが、みんなが原稿用紙1枚を書くのがやっと、というときに、彼女は9枚も書き上げました。あれだけできれば、自信は持っていたでしょうね。クラスのみんなも認めてくれていましたし、パソコンを使って文集をつくるときも、四苦八苦している別の子どもたちの手伝いを張り切ってしていました」
少女を特徴づけるエピソードとして登場したパソコン。怜美さんもパソコンとかなり得意にしていた。共通する趣味を持つふたりには、どんな結びつきがあったのだろう。
「ふたりがけんかするとは思えないんです。交換日記もしていましたし、ふたりで小説を書いたりもしていたようです。でも、怜美さんがしょっちゅう遊んでいた親友は、別の子だったと思う」
彼女によると、怜美ちゃんはいつも5、6人のグループで遊んでいて、怜美ちゃんの自宅、つまり支局の3階でも、お菓子作りなどをしていたようだ。そういえば、僕もよく怜美ちゃんが大勢の友達を連れてくるのを見かけていた。女の子たちが焼いたクッキーをもらって食べたこともある。
「(加害少女は)割とクールで、親友と呼べる子はいませんでした。比較的、仲のよい子もいましたが、そういう子は一人でいても平気な子同士ですから。ベタベタしたところがなかった。あの年頃の子にありがちな、トイレに行くのも一緒というところがなかった」クールとは、孤独、の裏返しだろうか。しかし教師はこう否定する。
「あのクラスの女の子は全体がわりと仲が良かったので、彼女ひとりがポツンとしていたということはなかった。居場所がないということもない。暗いという印象もなかったです」
話を聞いていても、やはり、なかなか少女の人物像が立ち上がってこない。

それでも、ひとつ気にかかる話があった。少女が入部していたバスケットボール部のことだ。「成績が下がったら、お母さんにバスケ部を辞めさせられると言っていました。だから私に『点数下げんでね』って、その後、バスケ部を辞めているんですが、たしか、成績は下がってなかったんじゃないかな」
このバスケットボール部には、怜美ちゃんも所属していた。「いた」というのは、途中で辞めているのである。少女が辞める直前に、やはり怜美ちゃんも退部しているのだ。パソコンと、バスケットボール。ふたりをつなぐ共通項が、はやり事件に結びつくのだろうか。

2004年06月06日毎日新聞に川名記者が掲載したインタビュー記事

見えなかった心の闇 元担任語る

学校は2人の少女を救えなかったのか。 長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件で、加害者の女児(11)を5年生の時に担任した女性教師が初めて毎日新聞の取材に応じた。 「子供たちの心に闇があるとは思ってもいなかった。」 クラスがバラバラになる中で、荒れていく女児のサインに気づけなかった。 元担任は30代後半で、今も大久保小に勤めている。 1学年1クラス。 同級生によると、別の男性教師が担任だった4年生のクラスはまとまりがあったが、「5年生になって急にバラバラになった」という。 学校で菓子を食べたり、授業を無視する。 いじめ、担任への暴力も起きた。 元担任は「精いっぱい私なりにやったつもり」と言いつつ、「うまくまとまらなかったのは事実。難しかった。私のせいと言われても仕方がない」と悔やむ。 暴力を受けたことも「私が悪かった面もある」と語る。

女児は5年生の2月、好きだったバスケットボール部を母親の意向で辞めた。
そのころから授業を聞かず、ほおづえをついて居眠りをするようになった。
だが、元担任は「私の知る範囲では、そういうことはなかった。」
突然、ストレートパーマをかけてきたこともあったが、「ご両親も許していたんだろうから、彼女には何も尋ねなかった」という。
女児は次第に荒れ、放課後に男子を追いかけ回して倒し、踏みつけた。
「男子をこづく場面は見たが、それほど激しい感じではなかったので冗談の範囲」と受け止めた。

女児の変化は見えなかったのか。
「表情も明るかったし、文集を作る時も張り切っていた。私の前の彼女を見る限り、分からなかった」と振り返る。
「子供たちが私に見せない部分は当然あるし、それでいいと思っていた。
でも心に闇の一面があるなんて思ってもいなかった。それがいけなかったのかと......」

事件にはとても責任を感じている。亡くなった御手洗怜美(さとみ)さん(12)はクラスのリーダーだった。
「ミタッチ(怜美さんの愛称)だったら大丈夫という信頼感があった。」
怜美さんはジャガイモが好物で、給食に出ると「私、これさえあれば生きていけるよ」言って、みんなを笑わせた。
その顔が忘れられない。

長崎少年鑑別所に収容されている女児は5日、付添人弁護士と3回目の面会をした。
弁護士から1時間程度、学校生活を中心に尋ねられたが、教師たちのことは一切話さなかったという。

△TOP

10、交換日記

P.146 「謝るなら、いつでもおいで」

事件発生の2週間前。6年生の男性教師は、放課後の教室で少女を見かけている。通学バスを待つあいだ。だれもいない教室で自分の席に少女はひとりで座っていた。「どうしたの?」「何でもないです」声をかけると少女は笑顔をみせ。担任もそれ以上は気に留めなかった。全校生徒200人足らずの学校で、少女は数人しかいないバス通学だった。弓張岳の山頂に向かうバス。赤字路線のこのバスが来るのは、1時間に1本。乗り遅れたら父親の怒りを買うので、放課後に街の子どもたちと自由に遊べない。土、日の楽しみだったバスケットバールもやめ、休日は「溜息が出るほど暇」。授業が終わってしまえば、少女が友だちと分かち合う時間は驚くほど少なかった。クラスメートの黄色い賑わいは、遠のくばかり、6年生になると、親友との関係が少しずつ希薄になっていく。それでも、少女を友達をつなぎとめる蝶番(ちょうつがい)があった。自宅の距離が離れていても、同じ時間を分かち合わなくても、結びつきを実感できるもの。それが、交換日記だった。

いくら大人びてきたとはいえ、小学校の高学年では、携帯電話を持つにはまだ早い年ごろ。バスケット部を辞めたあと、少女と同級生のつながりは「日記」という媒体を通して保たれていたようだ。

少女が心の中では大きなウェイタを占めていたことがうかがえる。

一冊のノートを親しいクラスメートのあいだで順番に回していく交換日記。その特徴は、日記でありながら、友人に読まれることを前提にしていて、手紙のような趣があること。学校やプライベートの取りとめのないことを書き連ねる。仲の良い子だからこそ打ち明けられる秘密。先生や親の前では言えない人の悪口や、男子生徒への淡い思い。閉じられた空間で独特の一体感が生まれるだけに、女の子にとっては特別なアイテムなのかもしれない。少女たちのクラスでも、5年生のころから交換日記が大流行していた。

たしかに6年生ともなれば、そろそろ性の芽生えがみられる年ごろではある。でも、田舎の子どもは、男女一対一の日記を交わすほどには大人びていない。これらの交換日記はすべて女の子同士で回されていた。5年生のころは、クラスの女の子20人ほぼ全員が、どこかの交換日記に合流していた、なかには11人の大所帯で回していた日記もあった。

だが、小学校高学年のこの時期は、体も心も成長し、疾風怒濤ともいわれる思春期突入する。無邪気で素朴だった時代はいつしか過ぎて、自意識が芽生えはじめる。

特に変化が激しいのは、女の子だ。男の子にぐっと興味を示す集団があったり、アニメに入り込む子がいたりと、志向も別れて難しくなる。子どもたち同士のつながりも、大きな集団から、小グループへと次第に細分化していく。席替えすれば隣の子とすぐ仲良くなる、という時期から、趣味でつながりができる時期にうつっていくのだ。5年生のときには大人数で回覧され、オープンだった交換日記だが、6年生になると、特定の仲間うちでの秘め事の性格を帯びていている。

1冊目は「ファイル」:参加者、御手洗怜美、辻菜摘、他1名
2冊目は愛称不明:十数名に及ぶ大所帯のストーリー作成日記
3冊目は「マコレ」:イラスト満載で参加者、御手洗怜美、辻菜摘、他3名で作成。
4冊目は「Rose Girl」:日常のできごとを綴る、御手洗怜美、辻菜摘、他3名で作成。


img15.jpg
P.155 「謝るなら、いつでもおいで」

そんな「Rose Girl」に小さな綻(ほころ)びがみえたのは、5月初旬。加害少女が「今日は溜息が出るほど暇でやんす」とブログに寂しさをぶつけたゴールディンウイークの直後だ。

それは、やはり、ひとつの表現をめぐる小さなトラブルだった。

自分の分を書き終えると、次の仲間にノートを手渡していくのが交換日記のスタイル。「Rose Girl」では、別の子にバトンタッチするときに、「」次はミタッチ!(怜美ちゃんの愛称)」、「次はヒロ(仮名)ちゃん♡」など、日記のおかわりに、きちっと引き継ぎをアピールするのが約束ごとだった。またその「次は○○ちゃん」の自体にも可愛い飾りつけをデザインしていた。花のイラストで飾ったり、カラフルはペンで白抜き文字を作ったりと、それぞれ工夫が凝らされ、最後の一字一句にまで親密さがこめられている。文字が楽しそうに飛んだり跳ねたりするさまは、無邪気すぎて危なっかしくも受け取れる。

加害女児は5月ごろから、この「次は」の決まり文句を、自分のオリジナルな手法に書き換えていた。
「NEXT ミタッチ!」
のように、英語で飼い始めたのである。
小学生にしては気どった書きぶりが、子どもの目に、ちょっと新鮮に映ったのだろう。背伸び具合もちょうどよい塩梅だったのかもしれない。それまで「次は」と書いていた子も、一斉にこの「NEXT」を使いだした。

盛り上がったのだから、もちろん[NEXT]をありきたりに書くだけにはとどまらない。ゴシック体にしてみたり、ふちどりをつけてみたり・・・。バリエーションも増え、「Rose Girl」内でちょっとした流行の花が咲いた。

だが、このブームが加害少女の逆鱗に触れた。ノートの罫線を何行も使った大きな太い字で「NEXTの使用は禁止。パクらないで」と激しい調子で仲間を非難したのである。それは少し、上からの目線の通告でもあった。

(中略)

冗談と本気の間(あわい)。思春期の少女たちがつくる暗黙のルール。危うい境界線上で楽しむゲームの中で、少女はひとり素に戻ってマジギレしたのである。

少女の剣幕に驚いたほかのメンバーは、すぐ交換日記で謝罪し、「NEXT」の表現から手を引いた。少女の一方的な「使用禁止」宣言の後、NEXTの表記は日記から消えていく。

それでも、少女へのわだかまりは解消しない。少女が勝手につくりあげた戦場で、ほかの子はやむなく白旗をあげさせられたのである。仲間うちでもなんとなく関係がギクシャクし始め、居心地の悪さを吐露する子も出始めた。

キレた少女に距離を置く子どものなかで、一歩だけ踏み込んだのが、怜美ちゃんだった。「NEXTというのは、みんなが使える表現ではないの? 絵文字ではないし、英語だからパクではないような気がする。みんながやっていれば、当たり前になるのでは?」日記でそう彼女に投げかけたのである。怜美ちゃんの言い分は、正論だった。正論だっただけに、少女も返す言葉がみつからなかった、だが、悲劇だったのは、反論ができなかったかったために少女の感情に火がついたことだ。

(中略)

そして少女の反撃は思わぬ方向んに飛び火する。少女は自分が主導権を握れるインターネットの場に戦場を移したのである。

少女は5年生ごろからパソコンに親しみ、その知識はクラスでもきわだっていた。さらに、初心者の怜美ちゃんと少女は、ネットの世界では師弟関係にあった。

ふたりが楽しんだポータルサイト「Cafesta(カフェスタ)」。


P.159 「謝るなら、いつでもおいで」

加害少女は、5月末、このカフェスタの怜美ちゃんのサイトに勝手に侵入してブログの中身を改ざんする。さらに怜美ちゃんのアバターを、少女の顔からカボチャの顔に変える・・・。
怜美ちゃんのHPに手の込んだ嫌がらせをし始めたのである。

アバターは、ネット上に作り上げたもうひとりの人格。熱中した子どもたちにとっては、自分の分身だ。自分の知らないところて土足でサイトを踏みにじられて、いらだちを覚えない子はいないだろう。ふたりの関係は、さらにこじれていく。

だが、ひとつ疑問が生じる、いくらパソコンに詳しいとはいえ、なせ少女は怜美ちゃんのサイトにもぐりこむことがでたのだろう。

答えは、あっけないほど単純だ。実はふたりは、お互いのサイトを管理するパスワードを教えあっていたのである。

銀行口座やメールアドレスなど、個人情報を日常的に扱う社会人にとって、パスワードを人に教えないのは常識だ。だが、ネットに卓越した少女との間には、パスワードさえ共有してしまう結びつきがあったのだ。

しかし、いくら気安さがあったとはいえ、それはあまりに安易すぎた。ふたりとも、まだ自我や自己が本当の意味では確立していない。人を疑う前提条件がまだできあがっていないのである。どんなに背伸びをしていたとしても、ふたりとも幼い子どもだった。このパスワードの交換が、悲劇に向かう連鎖を生み出していく。

事件前の05月29日。怜美ちゃんは自分のブログにこう書き込んでいる。

「荒らしにアッタンダ。マァ大体ダレがやってるかヮわかるケド。心当たりがあるならでてくればイイし。ほっとけばいいや。ネ。ミンナもこういう荒らしについて意見チョーダ」

インターネットでの嫌がらせや妨害行為、俗にいう「荒らし」は大抵。匿名なのでだれがやったかわからない。だが、今回の場合は、怜美ちゃんにとって、だれのしわざかは明らかだった。

ブログからは、怜美ちゃんが少女との師弟関係からすでに脱却していることもうかがえる。
怜美ちゃんは学校では信望も厚く、友だちも多かった。「おとなしい子」として目立たない存在でありながらも、ネットの世界では怜美ちゃんを上回っていた少女は何を思ったのか。

一方で、怜美ちゃんはこの時期、寂しい思いもつづっていた。

「3年前に佐世保にきたけれど、前の方がよかった気がする。何か最近正直に言えないことが多い」

このトラブルで、以前暮らしていた長崎に一時的な逃げ場を求めたのかもしれない。だが、少女は攻撃の手を緩めない。サイトへの侵入は止まらない。最終的に少女は怜美ちゃんのHPを初期化までして、怜美ちゃんの存在をネット上から消してしまうのである。

05月30日。運動会のあった日なのに、怜美ちゃんのブログはまた荒らされていた。

「チッマタカヨ。なんでアバターが無くなったりHPがもとにもどちゃってるケド、ドーセアノ人がやっているんだろぅ」

ざわつく怜美ちゃんの心。この夜、怜美ちゃんは長崎時代の友だちに向けて手紙を書いている。便箋に綴られたやりきれない思いを後に知った御手洗(父)さんは、なぜ娘の気持ちがわからなかったのかと、しきりにせつながった。明るい怜美ちゃんが背後に隠していた寂しさ。転入してきて以来、クラスの中心にいた怜美ちゃんの胸の内には、周りに見せられないナイーブさが、潜んでいた。その思いに、少しでも少女が共感を寄せられていたら・・・。

だが、少女がその心情に共鳴することはなかった。充満した怒りをとうとう爆発させ、事件を起こした少女は、警察に補導された後、「事件数日前には『この世からいなくなってしまえと思った』と供述している。トラブルの原因は、ひとつひとつの小さな積み重ねだったのである。

ある捜査関係者は、僕の前で、深いため息を漏らした。

「どこにでもある子どものけんか。常軌を逸したレベルではないんだよ。それにもかかわらず、あの子は自分の報復に屈しない相手への憎悪を膨らませて、精神的に自分を追い込んでいっちゃったんだ・・・」

僕は事件の核心を知りたいと思って、交換日記の取材を進めていた。だが、それはただ虚しい思いを重ねるだけの結果に終わった。

なぜ、こんな幼稚なトラブルをきっかけに、怜美ちゃんが非業の死を迎え、御手洗さんも家族も、そして僕たちも、暴力的なまでに傷つけられなければいけないんだろう。なぜ、こんな小さな子どものケンカで、僕らが束になっても取り返すことのできないほど大きなものが失われて、大の大人が途方に暮れるしかないんだろう。

常識では考えられない不合理な物語が、ときにおこる。それが、僕たちが暮らしている社会の剥き身の姿なのかもしれない。

△TOP

11、少年法の壁とカフェスタへの書き込み

11歳の少女が12歳の同級生を白昼、小学校内の学習ルームで惨殺すると言う事件。二人の間に一体何があったのか?

P.102 「謝るなら、いつでもおいで」

凶悪事件では、警察は交流期間を最長である20日間丸々となり、その間にたっぷりと時間をかけて容疑者を聴取して調書をマク(作成する)のが、一般的だ。拘留期間中は、警察の事情聴取と並行して検察の聴取も行われ、有罪を勝ち取るのに十分な物的証拠と調書がつくられる。ところが、少女は刑罰を受けない触法少年のため、拘留もできない。県警が少女に聴取したのは最初の2日間だけ。検察官は会うことさえ許されない。したがって、事件の刑事記録はあそろしく少ないものになってしまう。児童相談所は捜査期間ではないから、事件の真相解明という点で言えばそもそもあてにならない。さらに少年事件の場合、少年法により審判は非公開とされている。「少年の更生を妨げない」という大義名分のもとに、発表される情報は限られてしまい、遺族にとっても、マスコミにとっても、事件の動機や背景を探るのはきわめて難しい作業になる。それはまるで、針の穴から中をのぞこうとするようなものだ。少年犯罪は闇のベールに包まれている。そんな指摘が多いのも、こうした事情があるためだ。

ただ、今回の事件では、少女の心を読み解く手がかりはあった。インターネットである。5年生の担任教師からパソコンが得意と言われただけあって、少女は早くからインターネットに精通し、その知識や縦横無尽な駆使ぶりは、クラスでも群を抜いていた。自分の趣味や自作の詩、友だちと他愛のないやり取り。少女はブログやチャットでその思いをたびたび綴っていて、彼女の心情がうかがい知れるような書き込みもちらほら見受けられた。

少女が作成したホームページ(HP)やネットでのコミュニケーションをもとに、その心の軌跡を、時系列の追うことができるのである。

それを道標に事件をたどってみる。

事件後、加害女児から直接事情を聞いたのは、佐世保警察署、佐世保児童相談所、弁護士、少年鑑別所・・肥前精神医療センター、児童自立支援施設 栃木の国立きぬ川学院の大人たちなのだが、その情報の殆どは原則非公開であり、我々一般市民は知ることができない。

よって、精神分析と言う、所謂、精神構造や、無意識:コンプレックス(複合観念体)から問題解決、解明の緒(いとぐち)を手繰り寄せようとするアプローチは極めて困難な作業となる。加害女児の口から発せられる「言葉」がなければ分析しようにもできないのだ。

img13.jpg

さて、本件の場合、加害女児の心の中をのぞく材料として取り上げられたのが、御手洗怜美さんと辻菜摘さんを含む同級生の交流ツールであったカフェスタ(下記参照)のブログと交換日記である。秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大の人となりや事件に至る経緯の分析材料として携帯電話の掲示板への書き込みが取り上げられたのと同じ構図。

カフェスタ

Cafesta(カフェスタ)とはカフェスタ株式会社が運営していたアバターを用いたコミュニケーションポータルサイトである。

P.103 「謝るなら、いつでもおいで」

カフェスタは小学生に爆発的なブームを呼び、会員数は160万人を超えていたという。子どもでも簡単に自分のHPが作成でき、しかも無料。ウェブ上の架空のキャラクター「アバター」を使ってチャットができるのも、子ども受けした理由だった。

2009年5月31日をもって閉鎖、現在は全てのサービスが終了している。サイトの主な機能としては個人が管理できる簡易WebページであるMyHP、ウェブブラウザベースのチャット、メンバー同士のサークル、オンライン時のメッセージの拡張であるちょこめ等がある。尚、閉鎖にあたってアカウント、並びに一部データは移行手続きを踏むことで、別サイトへ引き継がれた。

2002年7月24日、東京通信ネットワーク株式会社によるポータルサイトとしてサービス開始。
2004年1月19日、ゲームサービスをβとして提供開始。

ちなみにアメーバブログのサービス開始が2004年9月15日。Yahoo!ブログのβ版運営開始が2005年1月31日。 佐世保小6同級生殺害事件が2004年06月01日であるから、カフェスタのアバターを用いたネットサービスは先駆的であったと言える。さらに余談であるが、2003年4月より開始したYahoo!アバターのサービスも2012年10月31日を持って終了している。ネット上での自分の分身としてのアバター(化身)は面白い存在だったのだが企業収益に繋がらなければあっさりサービス自体が終了してしまうのは悲しいところ。もう一つ蛇足であるが、ジェームズ・キャメロン監督の映画「アバター」の公開は2009年。

img14.jpg

辻菜摘さんのカフェスタへの書き込み

タイトル:初めましてー★
作成者:デュオ
作成日:2004/03/14
アクセス数:4

友録ありが㌧♪
これから宜しく♪
(タメ語って有っすか?)

で、質問です><
いいですかね;

編集可能の所の壁紙貼ってますよね;
それってどうやってやるんですかぁ?
キラキラ文字は知ってつケド;

教えてくれると嬉しい限りです★

△TOP

12、インターネットと僻地の少女

P.144 「謝るなら、いつでもおいで」

少女の家は、小学校がある弓張岳のほぼ頂上にあった。市街地から遠く離れた山あいの小さな集落。民家もまばらで、同じ年ごろの子どもはほとんど住んでいない。友だちと遊ぶには、1時間おきのバスか、親の車で下山するしかなかった。

ほとりぼっちの少女にとって、外の世界と結びつく唯一の手段が、インターネットだった。しかし、それは刺激の少ない山奥に暮す小学生が、都会で生活する子どもたちよりも、偏った情報の海にどっぷり漬かる危険もはらんでいる。オカルト、ホラー、エログロ・・・。ネットという媒体は、大人であろうと子どもであろうと容赦なく、等価に情報を提供する。物理的な距離も空間もあっけなく超えてどぎつい刺激が、片田舎の少女の心に次々と飛び込んでいく。

もし、バスケットボール部を続けていたら。友だちと顔をあわせていたら。少女の気も晴れたのかもしれない。しかしそれは、もはやかなわぬ願いだった。

ヒッマだぁぁぁぁぁぁぁ~暇暇暇暇。

と書き連ねるほど退屈だった少女の休日。暇が少女の孤立を際立たせ、疎外感を育む温床になったのだろうか。大型連休だというのに、自宅にこもるしかなかった少女にとって、パソコンだけが遊び相手。駆り立てられるようにネットに耽(ふけ)り、憑かれたようにホラーやオカルトのサイトをむさぼる。僻地というハンディキャップもR指定もなく、クリックすればするほど、なだれ込む情報。つながりを失った少女は自由に暴走していく。
まだその危うさを知らない少女は、むしろ怖いものしらずゆえにネットの波間を軽々と泳ぎ、自分の中にイメージを膨らませた。少しずつ、少女の日常が壊れはじめていた。

情報の免疫のない子どもや若年者が、偏った思想やイデオロギーに洗脳され、とんでもない事件を巻き起こすことはありえる事。

地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教には、多くの優秀な学生や科学者、そして医師までも、結果として無差別テロに加担したではないか。無垢な少女が殺人マニュアル的な映像作品を鑑賞すれば、人の殺し方を学習していた事と一緒である。事実、御手洗怜美さんの殺害方法は「バトル・ロワイアル」のあるシーンそっくりだと言う。

img18.jpg

バトルロワイヤルより

七原、中川とはぐれた、中川のマブダチの江藤恵(女子3番:エトウメグミ、池田早矢加)はどっかの廃屋で片想いの三村(塚本高史)の写真を眺めながら途方にくれています。 そこに不意に何者かがやって来る。 スタンガンを構えて用心する江藤。 ゆっくり入ってくるその人は相馬光子(女子11番:ソウマミツコ、柴咲コウ) クラスの中でもちょいヤンキーっぽい怖そうな女子です。 懐中電灯で自分の顔を照らしながらおどけてる感じですが...油断してほっと落ち着いた恵に鎌を持って襲いかかります(×_×)哀れ恵は喉を鎌でかっ切られ血を吹き出して死亡する!

△TOP

13、事件の理解へのアプローチ「蠅の王」

2004年6月14日。長崎家裁佐世保支部は第1回審判を長崎少年鑑別所で開く(合議制)(異例の出張審判)。35分の短さは異例。加害女児の精神鑑定(情状鑑定)実施を決定。

事件の理解へのアプローチとして、興味深い記述があったので引用しておきます。

P.130 「謝るなら、いつでもおいで」

精神鑑定そのものの意義を考えると、その目的が達成できるかは、やはり不透明といわざるをえない。小学生の殺人事件は前例が少ないこともあるが、法務省によると、小学生への精神鑑定などほんの数件しかない。

「『蠅の王』って知ってる?」八尋弁護士は、唐突に思いがけない話題を切り出した。「ノーベル文学賞をとったウィリアム・ゴールディングの小説なんですよ。古典の『十五少年漂流記』のパロディ。漂流した少年たちが助け合って生きていくのとは逆でね。子どもたちが殺し合いをしていくわけ。

この事件を引き受けて、その小説を思い出したよ。彼女は戦場にいたような気持ちだったんじゃないかって。事件の記事で学校の先生が『十五少年漂流記』を奨めたいとか言っていてね。学校の先生の価値観っていまだにこうなのかなぁと思ってさ」

八尋弁護士は、こう力を込めた。

「清く正しく美しく、なんて教えようとするからダメなんだ。いま子どもに言えるのは、ボーッとしていいんだよってことだけだよ。ゆっくりしてていいんだよって」

調べてみると「蠅の王」の出版は1954年。日本では1975年の新潮文庫。1963年にはピーター・ブルック監督、1990年にはハリー・フック監督で映画化された。・・とある。少年が閉鎖空間で殺し合うという設定なので、元祖バトルロワイヤル的な位置づけの作品らしい。2回目の映画化が1990年というから、普遍的なテーマを描いているのだろう。

11歳の加害女児は佐世保市の山の上(弓張展望台)近くで、一人。ネット接続されたパソコンに向かい、疎ましい存在にになった同級生殺害を計画していた。その心境は既に『ねえ、友達殺したことある?』というキャッチコピーのバトル・ロワイアル化。殺人衝動のみが募り、リアルは閉鎖的な集落から殺し合いの物語の舞台の無人島(想像界)に立っていた。

△TOP

14、事件発生への経緯

無限回廊より引用

佐世保市立大久保小学校は市の中心部に近い高台に位置し、児童数は187人で1学年1クラスの小規模小学校である。被害者と加害者の2人の女児はクラスでもかなりの仲良しと見られていた。

2人は大久保小学校の5年生の4月、ミニバスケットボール部に入部。他に2、3人を入れて4、5人で交換日記をつけたり、事件の2ヶ月ほど前から加害女児が主導する形でそれぞれがホームページを立ち上げ、お互いに書き込みやチャットをして遊んでいた。

女児の殺意はささいなことが原因だった。5月下旬ころ、学校で遊びで怜美ちゃんが加害女児をおんぶしたとき、怜美ちゃんが加害女児に対し「重い」と言ったが、そのことで加害女児が腹を立て、怜美ちゃんに「失礼しちゃう」と文句を言った。そこで怜美ちゃんは自分のホームページの掲示板に<言い方がぶりっ子だ>と書いて、からかった。加害女児はその書き込みを怜美ちゃんの掲示板のパスワードを使ってその記述をいったん削除したが、事件の4日前の05月28日に再び同様の書き込みを見つけたことで「この世からいなくなってしまえ」と怜美ちゃんに対し殺意を抱いた。怜美ちゃんは自分のホームページの掲示板が勝手に書き換えられたことについて<荒らしにアッタンダ。マァ大体ダレがやってるかワかるケド>と書くと、加害女児は今度は怜美ちゃんの「アバター」というネット上のキャラクター人形も消去した。さらに、加害女児は怜美ちゃんに対し、交換日記での自分のオリジナルな書き方をマネしないでほしいと言った。

掲示板はその管理者しか書き込みを削除できない仕組みになっているが、加害女児が何らかの方法で怜美ちゃんの掲示板のパスワードを入手したとみられている。

加害女児が事件直前(正確な日時は不明)にホームページ上に書いた日記。なぜか日付が未来になっている。(句読点や行間、半角文字「クラス」「ヘタレ」など原文のまま/「うざったてー」は「うざってー」の誤り?、、、「うざったい」とゴッチャになった?)

日付 2011/12/26
うぜークラス
つーか私のいるクラスうざったてー。
エロい事考えてご飯に鼻血垂らすわ、
下品な愚民や
失礼でマナーを守っていない奴や
喧嘩売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレや
高慢でジコマンなデブスや
カマトト女しったか男、
ごく一部は良いコなんだけど大半は汚れすぎ。
寝言言ってんのか?って感じ。
顔洗えよ。

<『11歳の衝動 佐世保同級生殺害事件』(朝日新聞西部本社/雲母書房/2005)>

事件の2日前、加害女児は殺害方法を考えていた。手かヒモで首を絞めるか、アイスピックで刺すか、カッターナイフで切るかだった。結局、最後の方法を選んだ。また、事件の前日の05月31日にTBS系列で放送された『月曜ミステリー劇場-ホステス探偵危機一髪』のドラマの中で犯人がカッターナイフを振って被害者を襲うシーンが出てくるが、加害女児はこのシーンを観て殺害しようと思ったとも供述している。事件に使ったカッターナイフは普段から筆箱などに入れており、怜美ちゃんを連れ出す際は服のポケットに隠し持っていたと証言。事件前に特に購入したものではないという。

事件当日の06月01日、給食の準備が始まったころ、加害女児は怜美ちゃんを同じ3階にある学習ルームに連れ出した。中に入るとカーテンを閉め、怜美ちゃんをイスに座らせると、後ろから手で目隠しをするようにして一気に右頚動脈をカッターナイフで切った。鮮血が飛び散り、怜美ちゃんはその場に倒れ、大量の血を流し、次第に動かなくなっていった。加害女児はその様子を約15分間、じっと見ていた。さらに、足で体をつつき、動かなくなったのを確認した。

午後00時40分ころ、加害女児はカッターナイフとハンカチを持ち、返り血を浴びたまま教室に戻ってきた。教室にいた6年生の担任は加害女児を見て、「怜美ちゃんはどこにいるの?」と訊くと加害女児は「私の血じゃない、私じゃない」と言って、学習ルームを指差した。その後、担任が学習ルームに行ってみると怜美ちゃんが横たわっていた。

△TOP

15、辻菜摘(加害女児)と御手洗怜美さんのトラブルの経緯

11歳、小学校6年生。来春には中学生になるお年頃の女児の精神状態とは如何なるものなのだろうか?

Yahoo知恵袋から

2「初潮は小6~中学生になってから」が割と常識で5年生ぐらいで始まった子は「早いねー」という感じ。4年生だったら「親も先生もクラスメートもビックリ仰天」だったと思いますヨ。現在は、ちょっと体格の良いお子さんなら5年生ですでに初潮を迎えてるのもめずらしくないですし(なので、学校の保健体育での初潮教育も今は4年生の後半であります)学校の初潮教育が間に合わず、4年生のなかばで迎えるような子もちらほらいます。現在高校生のうちの娘の小学校時代の保健体育の教科書に「初潮を迎えた年齢のグラフ」があったのですが、なんと「6年生では75%ぐらいが初潮を迎えてる」というデータが・・

11歳の女児は実は「肉体的には既に母になれる年齢」であり、女性としての自我が芽生える時期でもある。「絶対痩せます」と言う書き込みはそのアピールで、大人からみれば些細なトラブルにみえる痴話喧嘩的な言葉のやり取り「体重が重い」「失礼しちゃう」「言い方がぶりっ子だ」は、ひょっとしたら発した相手に対して殺意を抱くにたりる凶器的言葉だったかもしれない。

更に、加害者女児が御手洗さんのHPの書き込みやアバターを削除した件は、HP(ホームページ)まさしく、他者の家へ侵入するハッカー的犯罪行為であり、被害者からみれば排除の対象行為となります。結果、この世から排除されたのは御手洗さんの方でしたが、二人の間が険悪な状況になっていくのは容易に想像できます。

更に気になるのは、加害者女児のBR(バトルロワイヤル)的世界感への傾倒です。作品そのものはR15指定なのですが、姉の会員カードを使用しレンタルで鑑賞し、BR的自作作品をHPに書き込んでいます。私はリアルに劇場で鑑賞したのですが、同級生に対して至近距離から笑いながら銃を連射するシーンは悪い意味で刺激的で、あまりよろしく思いませんでした。乾いた銃の発射音と絶命する同級生の断末魔。・・・加害女児の語りによると、カッターナイフで殺害したのは事件前夜に観たテレビの影響らしい。

05月31日にTBS系列で放送された『月曜ミステリー劇場-ホステス探偵危機一髪』のドラマの中で犯人がカッターナイフを振って被害者を襲うシーンが出てくるが、加害女児はこのシーンを観て殺害しようと思ったとも供述している。

11歳の女の子がテレビドラマをみながら「明日、この方法で邪魔な同級生を殺そう」と決めたのである。

要点抜粋

2004年01月   女児がホームページ(HP)開設。
2004年02月01日 HP上で日記を書き始める。
2004年02月02日 詩の書き込み。「虫も/魚も/動物も/木、花も/たった一つだけのかけがえのない、『命』をもっている」。
2004年02月07日 「レギュラーに入れてよかった」
2004年02月15日 07日からミニバスケットボール部の書き込みが続く。
2004年02月22日 この日を最後に日記中断。この後、ミニバスケットボール部を退部。
2004年02月下旬 「バトル・ロワイアル」に似せた自作小説をHP上で書き始める。
2004年03月   御手洗さんら級友4~5人と交換ノートを始める。
2004年04月08日 日記を再開。「暇すぎ(中略)暇暇暇暇」このころからHP上で掲示板を開設。御手洗さんら級友とやりとりを始める。(`〓´)などいわゆる「2ちゃんねる系」の顔文字や表現が目立ち始める。
2004年04月30日 「GW明けになると私の本性見えちゃうかも」。
2004年05月初旬 「バトル・ロワイアル2」のDVDを借りる。
2004年05月03日 「この頃記憶が所々飛んでます」。
2004年05月05日 「バトル・ロワイアル」に似せた自作小説をHP上で完結。
2004年05月10日 「30キロ台に痩(や)せるどーっ!中肉中背だけどね、絶対痩せます。
2004年05月下旬 御手洗さんと遊んでいる最中に「体重が重い」と言われる(県警への説明)。御手洗さんの掲示板で「ぶりっ子」などの記載を見つけ、削除(同上)。
2004年05月28日 御手洗さんの掲示板に再度、同じような書き込みを見つけ、「殺害を決意」(同上)
2004年05月30日 大久保小で運動会。HP上に最後の書き込み。御手洗さんが自分のHPの日記に「アバターが無くなったり、HPがもとにもどっちゃってるケド、ドーセアノ人がやっているんだろう」と書き込み。
2004年05月31日 運動会の代休。
2004年06月01日 大久保小の学習ルームで御手洗さんをカッターナイフで殺害。長崎県警に補導される。

△TOP

16、その後の加害者(辻奈摘)中学校卒業

10年前、事件が起こった時の法律がどうだったかわからないが、現在の日本の法律でも、(刑法上14歳になると「刑事責任年齢」となり、罪を問われ、法の裁きを受けることになる)・・・と言う事は13歳までは刑事責任は問われないし、逮捕もされない。要は何をしても法的な責任を問われる事はないのである。佐世保小6女児同級生殺害事件においても、加害女児は送検される事はなく、家裁に送致、少年鑑別所に収容、観護措置、精神鑑定を経て肥前精神医療センターに一時留置。その後、児童自立支援施設「国立きぬ川学院」への送致。結局、2004年06月01日事件発生から三年十ヶ月後の2008年03月31日院内の公立中学校を卒業した。11歳で同級生を殺した女児は佐世保から栃木県さくら市へ移送され15歳の春を迎えたのであった。その後、少女の消息は不明。下記の関係機関の動きをみても11歳の殺人者の処遇をどうするのか?大変苦慮している様子が伺える。

無限回廊より引用

2004年(平成16年)06月02日午前、捜査員が佐世保市内の加害女児の自宅を訪れ、保護者から事情を聴くなどした。通告を受けた佐世保児童相談所は、加害女児の処遇を決める会議を開催。佐世保署内で相談所職員が加害女児や家族らと行った面談内容を確認した。そのうえで同日午後、加害女児を長崎家裁佐世保支部に送致した。

長崎家裁佐世保支部は加害女児と面談し、性格や生活環境などを調査。加害女児の更生方法を探るため、少年鑑別所に収容する「観護措置」(最長4週間)を取り、家庭環境や心理状態などを詳しく調べたうえで少年審判を開始するかどうかを判断する。

06月03日、長崎少年鑑別所で加害女児が付添人の弁護士に面会したが、そのとき次のようなことを言っている。

「何でやったのかな。よく考えて行動すればこんなことにはならなかった。御手洗さんに会って、謝りたい」

加害女児は人の命を奪ったことを理解していなかった・・・?

同日午後、長崎家裁佐世保支部は加害女児の2週間の観護措置を決定した。

06月14日、長崎家裁佐世保支部(小松平内[へいない]裁判長)は第1回審判を家裁ではなく収容先の長崎少年鑑別所で開いた。審判の進行は小松裁判長と女性裁判官2人の計3人による合議制により行われた。少年法の改正によって少年審判でも合議制での審理は可能となったが、過去の例からも今回の合議制はきわめて異例のことだった。もうひとつの異例は裁判長が担当調査官をすべて女性にするよう関係者に指示していたことだった。ここで加害女児の精神鑑定実施を決定した。

精神鑑定とは一般的に責任能力があるかどうかを調べるために行われるが、今回の事件の加害女児は14歳未満であり、基本的に責任能力がない。ということで、加害女児への精神鑑定は「情状鑑定」と似たようなものになっている。情状鑑定とは被告に心神喪失や心神耗弱などの責任能力について疑う事情はないが、どうしてこのような犯行に及んだのか動機がよく分からないという場合に行われる。最高裁によると、小学生の精神鑑定は過去に11歳と12歳の小学6年生の2例が確認されているだけだという。

06月15日、この日から08月14日までの61日間、長崎家裁佐世保支部は加害女児の鑑定留置することを決定した。刑事責任を問われない14歳未満の触法少年への精神鑑定はきわめて異例である。留置場所は長崎少年鑑別所から佐賀県にある独立行政法人国立病院機構・肥前精神医療センターに移された。

08月05日、長崎家裁が加害女児の精神鑑定留置を1ヶ月延長し、09月14日までとする決定を下した。

09月06日、中断していた少年審判が再開された。鑑定人が長崎家裁佐世保支部に鑑定書を提出した。

09月14日、精神鑑定の結果、人間関係を築く能力などに遅れがある広汎性(こうはんせい)発達障害の可能性が指摘されたが、診断基準を満たすまでの顕著な症状がなく、特定の精神疾患などの確定診断には至らなかったことが分かった。

09月15日、長崎家裁佐世保支部は「審判決定要旨」を発表。「コミュニケーション能力の低さや共感性の乏しさ」を指摘し、2年間の児童自立支援施設への送致を決定した。

加害女児は栃木県氏家町(現・さくら市)にある「国立きぬ川学院」の特別室に収容されることになった。きぬ川学院は全国に58ある児童自立支援施設の中でも、女子専用としては唯一、強制的に行動の自由を制限できる施設である。定員100名で、集団生活をする寮以外に、外からカギがかかる個室があるのが特徴。精神科医や専門員が常駐しており、個別指導を通して、人間関係や社会性を身につけるよう支援する。

2006年(平成18年)06月30日、佐世保児童相談所は加害女児について長崎家裁佐世保支部に対し、2006年(平成18年)09月15日から向こう2年の間に通算で最長90日間、行動の自由を制限できる強制措置の延長を申請した。加害女児は既に個別処遇から集団生活に移行。院内にある公立中の分校に通い、日常生活や行事を通じて対人関係を築く訓練を積み、定期的に専門家のカウンセリングを受けている。

09月07日、長崎家裁佐世保支部(森大輔裁判官)は児童自立支援施設に入所している加害女児について少年審判を開き、施設内での行動を制限できる強制的措置の延長を決定した。09月15日以降の2年間で通算50日間、強制的措置を取ることが出来るとしており、同措置が異例の長期に及ぶことになった。

2008年(平成20年)05月28日、県佐世保こども・女性・障害者支援センター(児童相談所)が、児童自立支援施設「国立きぬ川学院」に入所する加害少女(当時15歳)について「強制措置」の処遇を延長しない方針を固めたことが分かった。少女の更生状況や心身の成長から、行動の自由を制限できる措置は不要と判断したとみられる。強制措置が解除されても同学院に残れるが、別の施設に移るなどの処遇も可能になる。関係者によると、加害女児は施設で暴れたり自傷行為をすることもなく、鍵のかかる個室に入れるなどの強制措置はほとんどなかったとみられる。加害女児はスタッフや同年代の少女と集団生活を送り、人間関係を築く取り組みをしていた。精神科医などから定期的にカウンセリングも受け、同年春、学院内の中学を卒業した。

△TOP

17、10年後

無限回廊より引用

2014年(平成26年)06月01日、事件から10年を迎えたこの日、現場となった市立大久保小学校で、「いのちを見つめる集会」が開かれた。参加した児童や教員、保護者は「自分、友達、生き物の命を大切にしていこう」と決意を新たにした。

△TOP

18、精神分析的視点での考察

本件の加害者である辻菜摘さんは、事件発生当時、触法少年(11歳)であり、更生を前提に法律(刑法)上、罪にも問われない。日本の刑法では、触法少年は罪を起こさないし、もし罪を犯しても、立派に更生する事を前提に、その処遇は家庭裁判所と児童相談所で決定される。本件の加害女児は栃木県の「きぬがわ学園」に送致され中学校を卒業した後、その消息は伏せられたまま。

加害女児(辻菜摘さん)は大久保小学校(事件現場)から、佐世保警察署、児童相談所(少年鑑別所)、肥前精神医療センター、更生施設の「きぬがわ学園」への送致となった。

よって、事件発生後、加害女児が発する言葉を直できいたのは、ごくごく一部の大人たちしかいない。

少年犯罪はベールにつつまれたままで、真相は闇から闇へ葬られることとなる理由がそれである。

加害女児の辻菜摘さんは「一人で悩んで一人で考えた」「よく考えて行動すればこんなことにならなかった」「御手洗さんに謝りたい」という言葉だけを残して我々の手の届かない世界に行ってしまった。

精神分析は「言葉の学問」であり「無意識の言語化」がその主たる作業なので、本件については、憶測、推測の域を出ないのである。

「星の王子さま」でサン=テグジュペリはこう言ったと言う。

星の王子さま 内藤濯訳 岩波書店

おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

事件の加害女児の辻菜摘さんは11歳、殺された御手洗怜美さんは12歳。来春は中学生になっていた筈の二人の精神構造はいかなるものだったのだろうか?体と心の変化が疾風怒濤の思春期の二人である。

自分の周囲の人々に聞いてみた。サンタクロース(クリスマスに望むおもちゃをプレゼントしてくれる)は何歳まで信じていた?テレビの怪獣映画のゴジラやガメラやウルトラマンや仮面ライダーの存在は物語の中の存在であって、現実には生身の人が着ぐるみやコスチュームを身につけて演じているものなんだと認識したのは何歳の時?と・・・

我々の世代の人たちは、殆ど、小学生高学年の頃までに、現実と創作されたされた空想物語の区別がついていたようだ。

変身ポーズをとれば正義の味方に変身して悪者を撃退できる。ヒーローの名前を大きな声で呼べば助けにきてくれる。・・という物語を一旦信じる事ができても、現実の世界は、社会を構成する国家や宗教、地域や組織各々の「正義」と個人の「感情(精神分析的に言えばコンプレックス)」で動いている事を「大人になる」につれてわかってくるもの・・・。そして我々は青春の門をくぐり、物語をエンターテーメントとして消費できる「大人になる」のである。

辻菜摘さんがはまっていたバトルロワイヤルはR指定【R15+】であった。

R指定

《Rはrestricted(制限された)の略》映画観覧の際に年齢制限が設けられていること。また、その区分。日本の映倫規定では、15歳以上が観覧できるとするR15+と、18歳以上が観覧できるとするR18+がある。また、12歳未満は保護者の助言・指導が必要とするPG12の区分もある。

子どもから大人に精神が発達していく過程の中で、激しい殺戮シーンがふんだんにでてくる中学生同士の殺戮映画を物語と現実の境界があやふやな年頃に鑑賞したのは宜しくなかったに違いない。

普通の小学生・・佐世保市立大久保小学校の6年生の辻菜摘さんの現実と物語の境界にバトルロワイヤルの世界観が侵入してしまい、友人(御手洗怜美)さんとのトラブル発生の手段として「殺害」という物語の中の手段(方法)を使ってしまった悲劇と解釈するしかない。
img21.jpg

子ども達は我々大人が考えているよりずっと子どもで、ずっと大人なのだ。毎日、常識だの社会規範に則って(意識して)生活しているつまらない大人より、ずっと奇想天外な日々を送っているのである。

最近、面白い動画をみつけた。『探偵!ナイトスクープ』で「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」・・を調査するというもの。興味深く拝見していると、通りすがりの一般人の女性達が練習するわけでもなく、いきなり音楽がかかりイントロが流れ出すと同時に完璧にピンクレディーの振り付けを披露するのであった。精神分析の世界でも「三つ子の魂百まで」というフレーズはよく出てくるが、精神の発達過程(子ども時代)の体験は一生身に付いたままなのだなぁとシミジミ思った。子ども時代は本当に重要なのだ。


ウィキペディア

当時の子供向けテレビ雑誌「テレビマガジン」(講談社)、「テレビランド」(徳間書店)、「てれびくん」(小学館)誌上における短期グラビア連載を展開した他、女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行した。『探偵!ナイトスクープ』2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた。当時フィーバーやアパッチ、キャッツ★アイなど、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。

あともう一つ、精神分析的語りをすると、辻菜摘さんは、自身のブログの中で自分のハンドルネーム(HN)をデュオとしていた。小学校高学年の女の子が自身をデュオと象徴したのはいかなる意味があるのだろうか?これも推測の域をでないが、素直に「デュオ」の意味をネットで検索すると以下の様である。

デュオ

デュオ (Duo、英語発音: デューオゥ) - 英語で使われるduoは、元々ギリシャ語で2を意味する言葉が語源である。二人組の事。人間が組織で活動する際の最小単位であり、様々な分野で見られる。ポピュラーソングの分野における同性二重唱。男女二重唱をデュエットと呼ぶのに対する対義語。

同性二重奏で私の世代では、男性デュオと言えば「狩人」、女性デュオは・・・。辻菜摘さんは自分を「デュオ」と定義した。「2」・・・。自分は2である。1でなく2。辻菜摘さんはひょっとしたらもうひとりの自分の存在を無意識に意識していたのではないか?
さらにもう一つ私が「ん?」と思った事を書き留めておきます。御手洗さんと辻さんがクラスの中で回していた交換日記がテレビのバラエティで放送された時の事。そのテレビ画面のスクリーンショットがネット上にアップされていました。その映像は小学生(辻菜摘さん)が書いたであろうお人形さんのような絵。ところが、その絵の片隅には裏面の記述が透けてみえていて確かにひらがなで「なつみ」と読めてしまう事がネットで指摘されていた。本来伏せて報道される筈の加害女児の名前が放送されていますよ・・・という指摘なのだが、私はその「なつみ」の後部に丸Cのマークが書かれている事を見逃さなかった。

丸Cマークとは。

ネットから引用

まるRは Registered Trademark つまり登録商標で、この商標が登録されているので勝手に使ってはいけませんと言う意味です。まるCは CopyRight つまり著作権保持者の表示です。著作に関することは私・会社に連絡してくださいと言うことです。(C)と表示することもありますが、この場合は CopyRightを併記します。

わずか11歳の女の子が同級生と回覧している交換日記に書いた絵またはテキストに関して「真似しないで」「この表現方法は私のものよ」と著作権を主張しているのだ。

ウィキペディア

オリジナル (Original) とは、何かに加工されたものの元となるもの。特に、複写、複製等に対して用いられる。また、「独創的」「独自のもの」という意味もある。

これは何を意味しているかと言うと、私のコピーの存在は許さない。この世に存在している私は唯一私だけと言う意味付けをしていると思える。前述された「NEXT」表記の件もそうなのだが、何故、辻菜摘さんがそのような意味付けをするにいたったのかはわからない。彼女の生活環境や養育史上、同級生に対して強く主張するに至る何かがあったのだろう。

辻菜摘さんの強い主張は、支配的であり、同級生に圧迫感を与えた。そして、軋轢を生じ、御手洗怜美さんに対してはその存在そのものを削除しようとしたに違いない。

△TOP

19、終わりに

今号の月刊精神分析はいかがでしたでしょうか?

「佐世保小6女児同級生殺害事件」の情報を集めているうちに、実は、事件現場を通った事を思い出したり、改めて報道の難しさを知ったりしました。精神分析的な内容は希薄だったかと思いますが、子ども時代は疾風怒濤な毎日だと言うことを再認識しました。

2014年 平成26年08月31日 月刊 精神分析 編集部A

感想のメールは lacan.fukuoka@gmail.com までお願いします。

△TOP

20、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



より大きな地図で インテグレーターマップ を表示

 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

△TOP

資料1:king-biscuit works

2004/06/22 (火) 諸君!

ゐなか、の、じけん


事件現場となった佐世保市立大久保小学校のすぐ脇のバス道にある「大久保小学校上」の停留所。校庭の右手からずっと昇りで続いてきたバス通りの坂道が左手に巻き込むように曲がり、さらに昇りになって登ってゆく、その途中にちいさな日除けとともにしつらえられている。停留所の標識は縁が錆びて、わずかに曲がっていたりするのはその程度にこの場所になじんでいる証拠だろう。
校庭の高さから昇ってきたこのあたりは、ちょうど三階建て校舎の三階くらいの高さにあたる。それくらいの高低差が、学校を四分の三ばかりを取り巻くこのバス道に与えられていることになる。
この季節だけに陽はたっぷりと長い。そのせいか、校庭にはちらほらと遊ぶ子供たちの姿がまだ見える。いまどきの金属バットに、あれはテニスボールだろうか、やたらよく飛ぶボールでの野球のまねごとは、それ自体は今もどこにでもありそうな子供の風景だ。
この大久保小学校、山道の途中にあるせいか、実は正規の校門はこのバス道と逆の方、先の停留所から小さな石段をおりていった下の方にひっそりと開いている。バス道を登ってくる生徒もいるものの、登下校する生徒の多くはこちらから入るのが日常らしい。クルマもうまく通らないくらいの狭い路地のような坂道をたどってゆけば、子供たちの足でも十分もあれば下の平地、市内を南北に流れる佐世保川流域に広がるふもとの市街地にまでたどりつくだろう。
実は最初、そうやって現場の大久保小学校にたどりついた時から、「あれ、なんかヘンだぞ」と思ってはいた。
佐世保の市街地の北西側の山腹にある小学校、というのは報道などで見知っていた。地図で確認もしていたし、弓張岳に向かうバス道の途中というのもすぐにわかった。
このバス道は、佐世保の市街から西方にある弓張岳山頂の展望台に向かう、言わば観光用に開発された道路である。他の地域ならば、そう、たとえば神戸市街から六甲山、あるいは摩耶山山麓に至る山道、ないしは、札幌市内から藻岩山に登ってゆく道路などを思い浮かべてもらえば、その印象は比較的近いかも知れない。片側一車線の舗装路、とは言え道幅も路線バスがようよう行き交えるくらいのもので、右に左に、時にヘアピンに等しいようなカーブが急坂と共にしつらえられている。山道ではあるけれども、人がおのが足で歩くことで自然に切り開かれた道、ではない。そう、明らかにエンジンの馬力によって一気に乗り越えることを前提にしたつくりの道。
大久保小学校のまわりの家並みは、地名としては大久保東と比良町というふたつの区画に属している。だが、こちらの方はそのひと筆描きのようなバス道と対照的に、言わば人の足、生きた暮らしの呂律によって少しずつ積み重ねられ、開かれてきた風景である。入り組んだ坂道、狭い路地、崖に貼りつき、時に小さな切り通しに臨みながら、ささやかな家並みが岩肌の苔のように重なっている。それらの堆積のいちばん上のあたりにひとつ、白い箱のような校舎が置き忘れられたようにそびえていて、そしてくだんのバス道はそんな風景を一気に切り裂くようにうねりながら、しかしはっきりとある意志を示しながら通っているように見える。

●●
夕方、この大久保小学校から弓張岳展望台行きの最終バスに乗ってみた。
加害者児童、と今回、一連の報道を通じて歯切れの悪い呼び方をされている十一歳の彼女が日々、通学の途上で見ていたであろう風景を、まず確かめてみたかったからだ。
このバス路線、佐世保市営バス佐世保駅~弓張岳展望台前間の便は現在、一日わずかに七本。三月まではもう一、二本多かったのが、年度変わりの四月からさらに減便されてこの数になったという。彼女はこのわずか七本しかないバス便で、山の上にある実家から小学校に通っていたことになる。
学校からの帰りは16時45分発の便にたいてい乗っていた、と報道されている。けれども、何かの都合で乗り遅れれば次の便は一時間半以上あとになる。何より、好きだったというバスケットの練習などで遅くなることもあっただろう。現地に着いたのがちょうど夕方だったことあり、19時前の最終便にあわせてバスを待つことにする。
18時50分過ぎ。市営バスはゆっくりと坂をのぼってきた。市内との通勤路になっているせいだろう、交通量は案外多い。たまに路側に寄って対向車をやりすごしながらやってくる。学校帰りなのだろう、白いキャップをいま風に少しあみだにかぶった坊主頭のやせた男の子がひとり、停留所で待っていて、先にステップを登った。ワンマンなので整理券をとって乗り込む。整理券の券面に記された番号は13番。あらかじめ車内にいた乗客は二人。そこに先の男の子とあたしが加わって四人になった。
発車してすぐに坂はさらに急になり、左手にパノラマのように佐世保湾の夕景が広がって行く。高度があがるにつれて、その画角はさらに広がり、折からの夕日に陰影も濃くなって行く。
大久保小学校小学校上から(ひとつめは西大久保)ふたつめ、上矢岳という停留所でひとり、高校生くらいの若い女の子が降りていった。このあたりにも民家が少しかたまっている。が、バスがさらに山の上へと登ってゆくと、もうそこは周囲が山林だけの急な山道になってゆく。車内に残されたのは男の子ともうひとり、中年の女性、それにあたし。下弓張中弓張登山口とぽつりぽつりと連なる停留所では乗降する人もいないまま過ぎ、カーブをゆられながら眼下に広がる佐世保湾の風景を確かめてゆく。
 うど越という停留所までくると、ようやくあたりも薄暗くなってきていた。山道はこのあたりにきて、少し開けたところにさしかかる。が、男の子はまだ降りない。その次、弓有という停留所にさしかかる前で彼はようやくボタンを押した。そして、もうひとりの女性と共におもむろに降りていった。その手に握っていただろう13番整理券の運賃は、運賃表の表示を見ると、ここまでで190円。
時刻は19時をまわったあたり。大久保小学校下から時間にしておよそ十分ちょっと。そう、わずか十分ばかり、距離にしても数キロというこの地理的落差が、かの加害者児童の実家と大久保小学校との間によこたわっていたにすぎない。すぎないのだが、しかし同時に、それら地理的落差とはうまく同調し得ないまた別の種類ののっぴきならない「違い」が、果たしてどれだけ膨大に、容易にそれとは気づかれないような形でそこに、そして何より彼女の内側にはらまれていたのか。そのことを、今回の事件についての報道は未だうまく察知していないのではないか。

●●●
すでに報道されているように、加害者児童の彼女の家は五人家族である。
父親は入り婿で、家そのものは母親の実家。東京で知り合って、いわゆる「できちゃった婚」だったらしいが、さて、ならば東京のどこでどのように知り合ったものかは未だによくわからないし、また週刊誌以下、例によってのマスコミの執拗な取材に対してさえも、具体的なことはほとんど聞こえてこないという。
子供は彼女ともうひとり、上に姉がいる。こちらは市内の商業高校に通っていたが、どうやら事件後に中退してしまった由。そしてもうひとり、母方の祖母が同居していて、家の裏にある小さな畑などは主にこの祖母が面倒を見ていたようだ。
六、七年前に脳梗塞か何か、具体的な病名は特定できないものの、いずれにしても脳関係の病気を患って倒れ、父親は仕事を辞めざるを得なくなった。自宅のクルマにも身障者マークが貼られていたというから、多少の障害めいたものは身体に残ったのだろう。以後は、自宅で保険の代理業を営みながら、アルバイトのような仕事を続けながら収入を得ていたらしい。事件当時は、市内でおしぼりの配達をやっていたようだが、それで一家の暮らしが支えられたとは考えにくく、主たる収入は母親のパートからだったのだろう。母親が働いていたのは佐世保市内、というよりも市内から少し離れた郊外の大型スーパーの下着売り場だったらしい。具体的には、大塔というところにあるジャスコである。
佐世保市内、市街地にもジャスコはあるけれども、この大塔のジャスコはそれよりもひとまわり大型の、立体駐車場も備えた大規模なものだ。大塔、早岐といった市街地の東側、佐賀県側から佐世保市街に入ってくるその入り口付近、近年みるみるベッドタウン化していった地域の消費者層をねらって作られたものと思われる。弓有の家から大塔までは、クルマでおよそ3~40分ほど。ただ、市街地へ向かう入り口にあたるせいで、朝夕は通勤渋滞が起こることが多く、日によっては一時間以上かかることもあったのではないか。
いずれ母親はそのような距離を通勤し、父親もまたたまに市内におりてゆく。どちらもクルマで、あのバス道をクルマの速度で。そして当の彼女はというと、基本的にバス通学。まごうかたない佐世保市内、構造的な造船不況でまち自体は長らく沈滞しているとは言え、それでもほぼ二十五万近い人口を抱える九州では小倉や門司などと並ぶ近代黎明期以来の新興都市のふところに抱かれているこの家のある集落に、しかし「いなか」はぽっかりとその口を開けていた。
そう、誤解を恐れずに言ってしまえばこの事件、つまり「いなか、の、じけん」だったのではないだろうか。
いまからおよそ80年ほど前、大正末から昭和初年にかけて、おそらくは北九州のムラで起こった奇妙なできごとを、正しく民俗学者の視線と身体、そして筆致とで淡々と作品化した一連のテキスト。作者は、夢野久作。掲載誌もあれは確か『猟奇』とか『探偵趣味』とかのちとあやしげな雑誌だったはずだが、まあ、そんな文学史的なディテールはひとまずどうでもいい。要は、やれインターネットだ、チャットだ、そこでのトラブルがきっかけだ、またもやバーチャルリアリティの問題だ、といった部分だけがどんどんクローズアップされていったきらいのあるこの事件、いや、もちろんそういう要素も重要なポイントであることは間違いなのだけれども、しかし、なのだ。
 そのような表層の向こう側、ひとまずのっぺりといまどきな子供たちの生活世界としか見えないところから一歩踏み込んでみたところに、なんと言うか、どうしようもなくドメスティックな領域がじっとひそんでいる。子供たちがあたりまえにパソコンを叩き、インターネットにアクセスしてしまういまどきの情報環境だからこそ、これまでとはちょっと違う、おいそれとは見えにくい形で、しかし確かに立ち上がってしまった「いなか」――その底知れなくも不気味で、でもだからと言ってそうそう簡単には変わりようのないニンゲンの生の逃れられなさのくらがりが、この眼前に広がる風景の中にきっと、こわばった相貌を見せている。

●●●●
「戦前はここにも料亭なんかあってね。あたしの死んだ亭主ももともとそこで働いとったとよ。板前やったけ。花見の時なんかには人がたくさん登ってきてにぎやかやったぁ」
辻家のある集落から少し下にくだったあたり、弓有のひとつ手前のうど越バス停の脇、ちょっとした広さの駐車場になっている前に棲むばあちゃんはそう言う。
古い平屋のつくりは、かつてそこが客商売をしていた名残りだろう、いまも休憩所のようになっている。波うつガラスのはまった飾り棚にはいずれどこかの土産物とおぼしき土人形や飾り物がすすけたまま並べられている。自動販売機のモーターのうなりがひさしにはねかえる。
「バス道路はその頃からもう通っていたよ。ただ舗装はちゃんとしとらんやった。それこそバスの轍の所だけアスファルトで簡単に舗装して、残りの部分はバラス敷いただけやったから土ぼこりが大変でね。桜道の方は地道やったけど、一年の稼ぎの大部分を花見の頃に稼いでしまうくらい人出が多かったんよ」
桜道、というのは、いまもバス停などに名前だけは残っている。
かつては市内のSSK(佐世保重工業)のすぐ裏側、御船町からまっすぐ北側に登ってゆく登山道の両脇が桜並木になっていて、そこからここ鵜渡越までの山道がいわば観光道路として賑わっていたという。この鵜渡越地区の開発を行ったのは、地元篤志家のひとり松尾良吉。ふもとの町の青年団が人力奉仕のような形でこれを手伝ったと伝えられている。
「大正五年、翁一日鵜渡越に登り、たまたま偶々山水の布置凡ならざるを見、奇勝かくの如くしてあに豈久しく埋没せしむべけんや、吾必ず荊棘を刈りて道路を通し、以て都人士をして雅懐を養はしめんと、愛好する古画を売りて其の資にあつるに至る。琴平青年団の有志、佐世保市これを聞きて協力するあり。勝地始めて世に現わる...」
また、大正九年、当時の佐世保鎮守府長官財部大将が、ここ鵜渡越からの佐世保湾内の景色を老いた母親に見せたいと、九十を超えた老母を背負って登ったというエピソードが地元で美談になった「扶老坂」という名前もまた、わずかに残っている。とは言え、いずれ市史の片隅にエピソードとして記されている程度ではあるのだが。
『佐世保市史』以下の"書かれたもの"によると、昭和7年に山の中腹を東西に横断してゆく鵜渡越道路が開通、翌8年からバスが通るようになった由。しかし、早くも昭和9年に観光制限が加わり、周囲の山にも一般人は立ち入れなくなったという。以後、戦後昭和24年にバス路線が復活するまで、この界隈のにわか観光商売は成り立たなくなった。
「戦争になって、要塞地帯ちゅうことで出入りができんようになったんでお客さんが減って、父ちゃんの勤めてた料亭も一時休まんといかんようになってね。どうしたかって? しょうなかろうもん、あたしら、畑でほんと自給自足の暮らしやったよ。それでも、戦後はまたバスがたくさん登ってくるようになってね。しばらくはまた、盛り返した頃もあったんよ」
いまの弓張岳展望台につながる路線が通るようになるのが昭和31年。ここらあたり一帯が西海国立公園に指定された翌年で、これはまあ、全国的にも大型バスによる「観光」ブームが始まる頃と一致する。となると、ばあちゃんの語る"むかし"も主に戦後の記憶が下敷きになっていると考えた方がいいかも知れない。
その頃は鵜渡越のこのあたりにも、店舗がいくつか並んでいたのだという。いまは市街地からやってきた元は酒屋だったという小さな喫茶店と、建物はいまどきのログハウス風ながら、前庭の水の半分干上がったような池に錦鯉がアップアップし、掲げられた看板はと見ると、なぜか鯛の活きづくりとタラバガニの料理が売り、という、素朴に考えてもちとムリのあるペンション兼レストランが営業しているくらい。頂上にある観光ホテルに泊まる観光客はいても、ホテルの送迎バスか自家用車で直行するばかりで、この界隈にわざわざ足を留めてくれることはまずなさそうだ。バス道ができたこと、そしてさらに上に展望台や観光ホテルができたことで、かつては地元のささやかな行楽地として賑わっていた鵜渡越もさびれていった。


実は最初、加害者児童の実家があるのは、この鵜渡越だと思っていた。
白状すれば事件勃発当初、名前も家庭背景もはっきりとさらされていた被害者児童に比べて隠されていた加害者児童についての情報が聞こえてきて、実家の場所を特定しようと動いていた時に、付近に同じ苗字がいくつかあるということで、申し訳ない、この鵜渡越地区の別の家をあたしゃ誤爆したりもしていたのだ。
実際、そのあたりの景観は印象深かった。山腹に貼りついたような集落。とても家の前までクルマの入りそうにない入り組んだ道と、せまい石段と坂道とで通じあうしかない家々。眼下にSSKと米軍埠頭、大きな灰色のいくさぶねが常に数隻。その間には市街地の街並みと、合間には高いマンションやホテルなどさえ立ち並ぶ。うわ、こりゃすげえ。どこかでこれは階級的落差を反映した景観であることは直感的に感じた。
後に、加害者児童の実家があるのは鵜渡越じゃない、小野町だ、と教えられた。場所を確認すると先のうど越停留所のすぐ上、弓有停留所付近。え、これって鵜渡越地区じゃないの? 不思議に思って地図を改めて確かめてみると、なるほど、鵜渡越町と小野町の間には境界線が走っている。それはまさにうど越停留所のすぐ脇、これから先は観光地、と言いたげな「弓張岳展望台」の石碑が建っているあたりを境界にしているのだった。そこから先が小野町、なのだという。
うど越から次の停留所弓有まで、距離にしておそらく二百メートルくらいのものだろう。もちろん坂道ではあるけれども、もうそこらへんはゆるやかになっているから歩いてもそうきついものではないし、何より山道がようやく少し開けた場所にたどりついたあたりだから景観としては同じまとまりだ。けれども、そこから彼女の実家のあるあたりまでに、うまく言えないのだが何か、場の空気が変わるのだ。
集落としては鵜渡越も小野町も、まあ、ひと続きである。眼に見えるところで何か具体的な線引きがされているわけではない。だがしかし、確かに「違い」がある。そうとしか言えない。
まず、神社も寺も見当たらない。というか、集落の中心自体、よく見えないのだ。
家は何軒か肩寄せ合うように集まってはいるし、山あいのこと、畑もあれば、わずかながら水田だってなくはないのだけれども、でも、いわゆる「ムラ」としてのかたちが見えてこない。輪郭がはっきりしない。だから、なんというか、ありていに言って居心地がよろしくない。
はばかりながら、あたしゃこれでも民俗学者、である。もちろん、学者としては捨て育ち、自慢じゃないが素性も札付きの外道であることは言うまでもない。民俗学本来の現場だった第一次産業主体、正しくゲマインシャフトの農山漁村で、すでにあるかなしかになってしまっている(あたりまえだ)近世以来の"伝承/生活/常民文化"="民俗"を痕跡含めてむりやり探してまわることよりも、むしろ近代化と工業化、大衆社会化の荒波をかぶったそんな眼前の〈いま・ここ〉から、かつては確かにそんな農山漁村出自の暮らしの来歴を持っていたはずのわれら「常民」が、さてどのように七転八倒、あっぱれ生きてきたのか、その未だ語られぬ来歴をこそまるごととらえなおしたい、という、むしろ近・現代史そのものに殴り込みをかけて喧嘩を売るような角度から言わば逆落としに民俗学を志していた。それでも、大学院時代には型通りの民俗調査というやつには何度もつきあわされていたし、先輩や後輩含めた仲間うちには折り目正しい農村漁村を相手どった民俗学者もあたりまえにいた。だから、そういうどこにでもある素朴なニッポンの「いなか」については、それなりに歩き、そして見聞きしてきたつもりではあるのだ。
そういうあたしの感覚からして、この被害者児童一族のかたまっている集落は、居心地がよくない。しっくりこない。なんかヘン、としか言いようがない。
人が棲んでいる、そこで暮らしている匂いというか、日常がある、そのたたずまいが薄い。ふつうどんな場所であれ、暮らしの痕跡はそれなりに感じられるものだ。豊かであれ、貧しいものであれ、人が生きてそこにいる、そのどうしようもない空気、そして手ざわり。そんなものが希薄で、ぼやっとぼやけた印象しかない。たまたまいまがそうなってしまっているのか、はたまた昔からそうなのか、そのへんは慎重に留保するにせよ、この土地の〈いま・ここ〉はやっぱりヘン、なのだ。

○●
偏見だ、先入観だ、と言われるかも知れない。だが、こういうこともある。
この鵜渡越から一気に山のふもと、南側におりたあたり、市内の御船町から金毘羅町にかけての界隈などは、もう一歩足を踏み入れただけで明らかに「漁村」なのだ。狭い路地、手でこねたような石段、低い軒を連ねた家々、そして何より通学の子供たちの姿があり、道の片隅にたたずむ年寄りたちのしゃべり声があり、言うのもこっぱずかしいが、えい、あたりまえの生きた暮らしの空気が感じられる。
佐世保に鎮守府が建設され、海軍工廠ができていった時にこのあたりには、職工さんたちの住宅がたくさんできてゆき、もともとの漁村のありようの上にそのような新たな工業地帯の暮らしが重なっていった、そういう来歴がちょっと歩いただけで肌身で感じられるのだ。実際、少し気をつけて見てみると、未だに単身者用のアパートの名残りが残っているし、町家の商店でも、くすんだ美容院や小さな書店といった店が傾きながらもいまも残って健気に営業している。そんな並びの中に場違いなマンションだってたまにさしはさまれ、これはおそらく佐世保市内のカネ持ちが買うのだろうが、それでもそんなアンバランスもまたひとつの景観としてなじんでいたりする。
対して、山の上、鵜渡越からさらに入った小野町の弓有にある彼女の家のまわりには、そういうたたずまいは感じられない。
あれは『週刊新潮』だったか、この集落をさして「隠れキリシタンの里」といった煽り文句で記事を作っていた。彼女の苗字の一部に十字架が隠されているから、とかなんとか、おいおい大丈夫か、と突っ込みたくなるような解釈まで紹介して頑張っていたけれども、でも、あれとて最大限好意的に解釈すれば、おそらくはそういう違和感、あたしが感じたのと同じ、この土地ってなんかヘン」、という感覚を、現場を踏んだ記者が感じとっていたからではないだろうか。
もちろん、そういう違和感は次の瞬間に、「隠れキリシタン」はもとより、「同和」だの「在日」だのといった表象と安易に結びつけられてもゆく。
実際、結びつけられた。加害者女児が残したイラストの脇にハングル様の文字で書かれた文章が添えられていた、というのを、フジテレビが夕方のニュースで強調して流したことがきっかけに、加害者児童=在日説は、一時インターネットなどではまことしやかに流されていた。現場の事情を尋ねてみれば、あれもそのイラストが載っていた交換日記の原本の奪い合いのようなことが取材陣の間で起こっていて、そのすったもんだの中でうっかりと出てしまった報道だったらしい。あげく、あわてたのかテレビではその日記を撮影した画面にモザイクはかけたものの、日記の原本を提供した人物の肉声はそのままナマで流してしまったので、今度はその人が特定されてしまって、大久保小学校のPTA間で糾弾されることにもなったとかならなかったとか。
けれども、そのハングル様の文字の添えられたイラストは、その他のページで韓国の詩人の詩をことさらに引用していたことなどとあわせて、加害者児童=在日朝鮮人説、を補強してゆくことになった。在日だから、という「説明」は、事件の異様さ、凄惨さにまつわる違和感を未だ一気に解消してゆく処方箋になるらしい。それは「ネットに関わっていたから」「映画『バトルロワイヤル』を見ていたから」といった「説明」が発動されてゆくメカニズムとも基本的に同じである。
だが、問題はそのような「説明」が発動される違和感のありかのはずだ。「なんかヘン」という感覚がある、あって、ならばその違和感は何に由来するものか、そこをできるだけゆっくりとつぶさに小さな言葉に還元しようとしてみる、そんな積み重ねの必要。確かに抱え込んでいる違和感を「在日」だの「同和」だのといった既存の表象に一気にくくってしまうのでなく、また、「人権」だの「差別」だのといった別の表象でその違和感そのものをあってはならないものとしてゆくのでもなく、違和感をなるべくその違和感のまま、暮らしの場、土地と風土の側にもういちど差し戻してみようとすることの意味は、こんな時代、こんな情報環境だからこそ大きい。

○●●
何にせよ、こういう集落に神社や寺が見えないままだと、民俗学者としてはやはり納得がいかない。
調べてみると、鵜渡越地区はすぐ下の金比羅町にある金毘羅神社の管轄になっていた。佐世保に鎮守府が開かれる以前からある古い神社。寺もまた、宗派に違いはあるにせよ、基本的にその同じ界隈の寺の檀家になっている。
対して、小野町に属する集落の方はというと、こちらは佐世保ではなく山を西側に越えてくだったところにある相浦町にある神社や寺と縁がつながっていた。
相浦の市街地に、飯盛神社がある。愛宕山と呼ばれる、まるでにぎり飯をひとつポン、と置いたような、それこそ子供が描いた絵の「おやま」そのままの山の麓にあたる。この飯盛神社が、弓有の集落も含めて小野町の多くを統括している神サマである。
もともとはいまある場所のもっと東側、弓張岳や将冠岳の山なみから西へと流れ出す相浦川流域を山の方に入った小野という集落にあった神社だった。いまでも、熊野神社と名を換えて残っている。飯盛神社の宮司さんは「もとのお社も、流谷や弓張の人たちが当番で掃除に来てくれているはずです。いまでもよくやってくれていますよ」と言っていたが、小さな石段には雑草が生い茂り、古びたいい感じの石の鳥居にかけられたしめ縄も半ば朽ちているような状態だった。川の流域に水利を求めて水田を開き、そして両脇の山のふもとに屋敷森を背後にしたがえるような形で民家がずっと並ぶ。どこにでもある山あいの農村の風景。そう、これならまだわかる。いまどきのニッポンの"ムラ"の景観なのだ。
相浦川の流域をさかのぼり、弓張岳の方へとたどってみる。もともとの踏み分け道に、いまどきのこと、簡単に舗装だけはしてあるからたまに地元の人だろう、軽自動車くらいは通る。けれども、対向車があると行き交うのはひと苦労だ。「マムシに注意」の手書きの看板が目につく。 
あの被害者児童の一族が、いつ頃から弓有に棲みつくようになったのか、それはよくわからない。もともとこの小野の方から、こんな道をたどって山へ向かったのだろうと推測されるけれども、地元でその間の事情を憶えている人もほとんどいない。何か事情があったのだろうが、その事情もいまはひとまず歴史の彼方だ。
弓有は、古文書などをたどると古くは「弓鑓」という表記も残されているという。発音として「ユミヤリ」から「ユミアリ」「ユミハリ」というのは転訛しやすそうだ。
明治時代の始めにはもう、あの一族はあの弓有にいたのだろうと思う。近世末からこの小野町の山にも小さな炭鉱ができていたというから、その採鉱の仕事などに加わっていた可能性も含めて、いずれ山の人生。といって高知や和歌山、岐阜や静岡、いや地元九州でも日田地方などといった、本格的な山仕事で食っていたような地域でもない。何かわけあって、近くの山にちょっと入った、そしてそこに棲むようになった、そんな感じだったのではないだろうか。そういうきっかけで人が山に入る、入って棲みつくことも、実はかつてはそんなに珍しいことでもなかった。東北地方の山村でさえも、飢饉の時などは山に入った方が食べてゆきやすかったと言われている。西南日本の温暖な地域ならばなおのこと。山が浅く、またそれほど高くもないこのあたりならばそういう発心もさらに不思議はない。
しばらく登ると、ふいに流谷という集落に出る。ここもまた弓有などと同じような山あいのひっそりとした部落。畑仕事をしていた地元の人に、弓張の集落とのつきあいを尋ねてみる。簡易水道が弓張と共同なので、その管理などでつきあいがありますけどねえ。もともとはあっちの方が山や土地を持って裕福だった由。畑や山もあっちから売ってもらったのだという。
けれども、素朴に見ても、こちらの流谷の集落の方がまだずっと"ムラ"としてのまとまりが感じられる。徳島県の祖谷地方や、あるいは和歌山県の龍神村といった深い谷の両側にはりつくように集落の点在するいわゆる型通りの「山村」とまではゆかなくても、平地で水田を中心にこさえる暮らしをしてきたムラとは微妙に違う、山暮らしのムラ。だが、被害者児童の弓有の集落は、そんな山暮らしムラのあたりまえからもどこかはずれた雰囲気があるのはなぜだろう。

○●●●
ネット上に残されていた加害者児童の日記によれば、事件の前、ゴールデンウィークの間も彼女はどこにも行かず、あの山の上の実家でほとんどひきこもっていた状態だったらしい。ネットへの書き込みも、その時期はいつもより増えていたようだ。
大久保小学校自体、一年生からクラス替えもない学校だったとも伝えられている。流動性のないことが問題だったのでは、という意見も出ている。だが、少子化が進んでいる現在、ひと学年のまクラスが少なく、しかもそれがある程度固定化されてしまっている学校はそんなに珍しくないだろう。それよりも、あたしがどうしても気になるのは、現実的にも、そして出自来歴としても"山の子"である彼女が、おそらくは自分でもうまく自覚できないままに抱え込んでいたかも知れない「落差」、の方だ。
家のまわりに同年代の友だちもいず、外で遊ぶこともうまくできないような環境。実際、まわりの家の人でさえも、彼女の顔はあまり見たことがなかった、と証言している。学校の友だちも家に遊びに来たことはなかったようだ。それはそうだろう、なにせバス便が一日七本。遊びに来てうっかり夜になったら、親に迎えに来てもらうか"お泊まり"するしかない。何より、親同士のつきあいからして疎遠にならざるを得ないだろう。人柄とか相性以前に、物理的な「落差」がまずあり、そしてそこに「いなか」が影を落とす。
繰り返すが、小学校から時間にしてわずか十分ちょっと、距離にして数キロの場所である。大人たちは佐世保の市内に通勤しているし、事実、朝の通勤時間帯はこのバス道は佐世保へ通勤するクルマの抜け道になっているのだろう、ちょっと意外なくらいの交通量があったりする。山の暮らしと言っても決して深山幽谷ではないし、よく想定されるような山奥にある「過疎の山村」というのでもない。眼下には佐世保湾と米軍埠頭。夜ともなれば、街のあかりは絵はがきの夜景のように広がっている。夜ともなれば、地元の若い衆がクルマでやってくるデートコースになっている、そんな場所、なのだ、彼女が生まれ育って棲んでいた場所は。
そんな場所へ、そんな自分の家へ、彼女はたったひとりで帰っていた。いや、現実には数人、同じ方向に帰ってゆく小学生はいたようなのだが、それとて集団登下校でもなく、また、少し時間がずれてしまえば事実上ひとりだったはずで、心の中の孤独、抱え込んだ疎外感は、地理的に条件などから考えられるよりもずっとのっぴきならないものとしてよどんでいたのではないだろうか。決してそうは見えない、自分ひとりが対峙してやりすごさねばならない「いなか」として。
 なんだかなあ、これって「いなか、の、じけん」で、なおかつ、そう、「泣いた赤鬼」でもあるんじゃないだろうか。
濱田広介の手によるあの童話の名作。山に棲む赤鬼が村人たちと友だちになりたくて仲間の青鬼に相談する。青鬼は狂言まわしになって赤鬼を"いい鬼"として印象づける役回りをやってくれるが、めでたく村人に受け入れられた赤鬼の前から、彼は身を引き、永遠に姿を消す。「友情」がそのままうっかり「恋愛」のシミュレーションになっていた時代のいいおはなし、なのだが、あの赤鬼のように、彼女はあの被害者とともだちになりたかった、のではないか。山のふもと、街なかに住む新聞記者のお嬢さんで、おそらくは成績もよくリーダーシップもあり、服装なども大人が期待する"子供らしさ"そのままにプーさんのトレーナーなどをきていたあの被害者とともだちに。
山に棲む子、と、街に棲む子、の間に確かに感じられていただろう、しかしうまく言葉にもされていなかっただろう「落差」の感覚。見えない「いなか」のくらがり。事件に インターネットが介在していることは事実であり、小学生ながらホームページを開設し、チャットでやりとりをしていたことも事実だろう。けれども、そこにばかり焦点を合わせていては、その背後にあたりまえに横たわっていた日々の暮らしの中での手ざわり、子供なら子供なりにそうそう変わりようのない生きる手ざわり="リアル"の水準までも、いきなり見えなくしてしまう危うさだってある。
 山に棲む小さな赤鬼が抱え込んでいた心の「落差」。二十五万都市の足もとに、ぽっかり口を開けていた見えない「いなか」。そんな場にインターネットという飛び道具がうっかりと入り込んできた、そしてそれがそんな赤鬼のココロにまっすぐにアクセスするようになっていた、場とメディア、情報環境と人のココロの相関がつむぎ出してしまう何ものか、それこそがおそらく最大の問題であり、今回の事件が〈いま・ここ〉に示そうとしている時代の比喩なのではないか。
当初の方針が一転、弁護士から精神鑑定を請求された彼女の留置鑑定期間は61日。期限は8月 日。「いなか、の、じけん」は、まだ完結しない。

△TOP

資料2:カフェスタに辻菜摘さんが投稿した日記

2004/02/01
詩@それが全てではないのだから・・・
闇をこえてこそ光はきっとある―――
影、漆黒の才が闇を満たしていようと
構わない。
今の私は私。それが全てではないのだから。
いくら奈落の底まで落とされ、絶望を
味わおうと、無意味ではない。
苦汁、絶望、苦しみが私を支配するけれど、
全てと戦い、闇を葬り
光とこの身の有り難さをそのぶん欲したい。
そう、雲で隠れた月は地上に光を与えない
けれど、光は存在するから、だから、
真っ暗になってもずっと月にたよらないで、
皆で頑張ると、月よりも明るく
照らし合えるはず。
七転八起 私は最初は転んでばっかり、
でも、最後は起き上がるのもいいと思う。
***********************************
いゃ~(汗)へちょい詩でぇ(汗汗)
何これぇ!!あ~、あなた、こんなの
書かなくていいから。は禁句です(><)
ぇっと、ぅ~ん・・・・あとがきって、いるのかな・・・・・・・・・。ほんとに、うん。
んじゃ、ヘリで逃亡!!でゎ~
-------------------------------------------
2004/02/02
詩@嘆きの賛美歌
闇夜の空に沢山の星がちりばめられる、夏の空
心地良い草の香りのする草原、リンリンと鈴虫の鳴く音
田舎だが、私はこの環境がすきだ。
都会に無いモノがあるのだ。
人間は自分たちの生活が豊かになるために、
木を沢山切ったり、ゴミ、不燃物などを平気に捨てたり・・・
そんな事をしているらしいが本当に豊かなのだろうか?
熱帯雨林、環境破壊、有毒ガス、生活が豊かになる一方、
数え切れないくらいの自然破壊が多数ある・・・
川が汚れ、魚たちが死にいたり、森も破壊され
生き物たちの生きる場を失っている。
聞いて欲しい、人間の生活が豊かになるのはいいが
私たち、生き物・自然に迷惑をかけないで、
この地球に住んでいるのは、人間だけではないのだから。
わかっているのでしょう?
自然や生き物のこのままでの未来が。
わかってよ・・・・
今では人間が生き物を殺すと何もならないことが多いけれど、
私たちは人間が生き物と同じ、
虫も
魚も
動物も
木、花も
たった一つだけのかけがえのない、
「命」をもっているのだから・・・・・
殺さないで、沢山殺して殺して殺して殺して・・・・
森の木も人の手によって焼き払われたりしたよ。
「自然も生きているのだから、息をしているのだから」
木や花も動いたり、話したりはしないけど、
生きているのだよ・・・・・・・。
生きているのだから、全て生きているのだから。
神様はいるのですか・・・・・助けて下さい・・・
**************************************
こんにちゎ。おわり。(待テ)
ちなみに動物を殺すと器物損害罪だそうです。
じゃ、おわる。(ブチッツーツーツー)
(電話だそうで、オーケイオーケイ)
-------------------------------------------
2004/02/04
詩@夕暮れの影
夕暮れの影が物からどんどん伸びる――――
逆光した建物が私の目を捉えていた。
空は満月が見え、星をちりばめていた。
くたびれたジャンパーを来た中年男性。
ベンチに座り足組みをしながらケータイをいじっている女子高生。
おつかいのため片手にスーパーの袋をふりまわしながら帰っている小学生。
公園でイチャイチャしているカップル。
犬の散歩をしているおばさん。
手を繋いで歩いている幼稚園帰りだろう子供と薄く化粧をした20代半ばの母親。
すぐ暗くなったこの夜景に街にはイルミネーションが灯り、明るかった。
橋がかかっている川には、自分の顔が見える――。
そして、周りの建物もぼんやり見えていた。
のびた影、夜空の夜景が皆の心をやさしく包んでくれる――――。
すべてはこの時代のごく平凡で日常的だが、
とても楽しい
だけれど、今、この時、この時間、貧しくて、苦しんでいる人間がいる。
この時間で色々な状況の人はいるだろう。
戦争をしている人々、殺され息を引き取った人々、もがき苦しんでいる人々、
これがいつもの時間、日常かもしれない。
皆がこのつながっている「地球」にいる。
忘れないで欲しい。
今この時間「苦しみ」の呪縛を解き放てない人々を
******************************
こんばんわぁ~さよ~ならぁ~
(終わりかョ)
-------------------------------------------
2004/02/05
詩@不揃いな棒
不揃いな棒が延々と平行に並んでいた
すべての棒の長さ、色、太さは違う。
不思議に思った。
そして棒の長さ、色、太さが同じ棒を探してみた。
でも、同じなんてなかった
もっと根気よく探してみた。
ず――――っと探した。
疲れた。それでも探した。
でも全てが同じ、同じ棒は見つからなかった。
すべての、果てしなく続く棒の列の中にも
とうとう1組も見つからなかった。
ずっと歩いて探したしたけれど、見つからなかった。
すべてが不揃い。
人も黒人もいたら白人も居る。
背が高い人もいたら低い人も居る。
太っている人もいたら痩せている人も居る。
差別はいらない。
すべて不揃いなのは
必然的なことで。
みんな違って、みんな良い。
それが個性なのだから。
***************************
まんま私の思ったことで。
まぁ、世界中カオが全部同じなら・・・
①号②号③号・・・・・・・・・
ほらほら、個性だ個性だ。ね?(汗)
感想、暇なら下さい。
悪口以外。
ぇ?贅沢するなって?
ぁ、ごめんがばちょ(強制終了)
-------------------------------------------
2004/02/07
日記@バスケの試合ですた☆
今日(2月7日)試合でした!(長崎の佐世保)
八幡小、早岐小とやって、
どっちとも勝ちました☆
で、インタビューされて、テレビ佐世保で
放送されたっぽいです。
背番号は8番です。
大久保小ぉぉ(暴露)
レギュラーに入れてよかったvと思v
ちなみに新人戦ですv
明日もあるのでガンバロー☆

-------------------------------------------
2004/02/08
日記@続き。
続き。
今日は新人戦で木風とあたりましたー。
今日は死に物狂いでなんとかレギュラーで
1・3・4クォーター出た~v
大久保では6年生が一人抜けて、木風では6年生が3人抜けました。
新人戦は5年生以下なので(汗)私は5年生でス。
試合は・・・・結構カットしたりシュートしたりしましたv結構ジャンプボールになったけど(汗)
結果は・・・・、30-34で負けました(><)
で、木風は大久保に勝ったので、次は山手と木風はしましたー。
負けたそうです(><)
おゎり。バイバイキ~ン(待テ)

-------------------------------------------
2004/02/11
詩@韓国詩(2つ掲載)
下の詩は「チェスンホ」という詩人が書いた詩です
*チェスンホ(1954年生まれ)は今最も注目されている詩人。
金スヨン文学賞、イサン文学賞、現代文学賞など多数受賞
人魚についての想像
地下鉄の良才駅で
マルジュック通り市場の方に
下半身を丸ごとゴム皮で包んだ一人の男が腹ばいではっている
コイン数枚入っている器を
歩道ブロックから歩道ブロックに押して行く
その遅さにいらいらして
苦痛だ
両棲類的想像力から
人魚たちが生まれたと
ぼくは思う
下半身が魚である人魚がいるとするならば
魚の頭に人間の下半身を持った人魚もいる
その二人の人魚が海辺で
結婚式を挙げると想像してみろ
記念写真を撮ってもその夫婦ほど
グロテスクな孤独があるだろうか
下の詩は「羅喜徳(ナヒドク)」という詩人が書いた詩です
*羅喜徳(ナヒドク)1966年忠南市ノンサン生まれ。「忠アン日報」新春文芸で登壇。
詩集に『根に』『その言葉は葉を色づけた』『それは遠くない』『暗くなるもの』など
金スヨン賞受賞
乾いた魚のように
闇の中であなたはつかの間だけ一緒にいようとした
愛なのかもしれない、と思ったけれど
あなたの体が手にふれた瞬間
それが不安のためだということが分かった
あなたはすっかり乾ききった泉の底に横たわった魚のように
力をふりしぼってぴちぴちしていた、
私は凍って死なないために体をこすらねばならないように
あなたをぬらすためにしきりに唾を吐いた
あなたのうろこが闇の中で一瞬輝いた
でもわたしの不安をあなたが知るはずがない
外が少しずつ明るくなってくることが、
光が水のように
流れ入ってきて闇をぬらしてしまうことが不安だった
私はしきりに唾を吐いた、あなたの弱ったうろこの上に
とても長く時がたって
私は古いお膳の上に置かれた乾いたウグイ(石斑魚)を見た
ウグイを見たことはその時が初めてだったが
私はあなたを一目で分かった
そのウグイは冬の夜 南大川上流の氷の上に
釣り人が座って捕まえたものだそうだ
しかし ひれはへし折られて 
その輝く目もうろこもすっかりひからびてゆく
古いお膳の上で冬の日差しを受けている乾いたウグイたちには言葉が無い
********************************
韓国の詩です(↑)
乾いた魚のように は佐川亜紀さんと言う人が翻訳しています
-------------------------------------------
2004/02/15
日記@バスケの試合で・・・・・・
昨日試合ですた!
烏帽子岳ニューイヤー福田外科杯だったと思います。
トーナメントで最初は祇園(祇園)とだったけど、その祇園は棄権で不戦勝!
(祇園に勝った事はありますョ)
で、次はシードで出場の山田小とでした!
(山田は学校の名前ですョ)
山田とは30点以上の差で勝ち☆
で、決勝にコマを進めて、広田(ひろだ)小とです☆前半は負けてた(汗/1ゴール差)
で、後半では逆転勝利☆★☆
20点差でぇ勝ちです☆
もしかして優勝(一位)!?
で、表彰式になりました。
結果は、
一位:大久保(私たち)
2位:広田
3位:潮見(しおみ)、山田
4位:黒髪
5位:志左
でした☆
ちなみにCクラスのトーナメントでした!
男子はAクラスのトーナメントで優勝☆
男女、優勝(一位)でした☆★☆

-------------------------------------------
2004/02/18
詩@許せない
皆は親なんていなかったら良かった・・・・・
なんて言うけど、不思議だ。
私なんて親が死んでもう、親なんて・・・・・いないのに。
とにかくずるい。
恨めしい。
親なんていらないなんて・・・・・。
親を亡くした私の気持ちわかる?
親がいなくなったらこんなに・・・・・・。
さみしい
親のいる人が羨ましい
家事とかの問題では無い。
心の事だ。
楽しかった時には戻れない。
親に怒られててもそれはそれで良かった。
あなたの親がいなくなったらわかることでしょう。
親に限った事ではないけれど、身内の人が死んでも
悲しいでしょう?
なのに皆はいなくなって欲しいと言った。
その皆の親がいるのがずるい。
*************************
ぉゎり~
あと、私に親はいますので(汗)
架空の中の詩なんで(汗)
-------------------------------------------
2004/02/22
日記@県下招待新人戦
今日ゎ佐世保から長崎まで試合に行きました。
会場は御館山(みたちやま)☆
(ごかんざん?みかんやま?とか思ってますぃた><)
戦ったチームは御館山と稲佐☆
どっちも長崎のチームです。
みかんやま・・・・・・・じゃなくて御館山には負けた><
御館山強いよぅ。背高いし、私がスローインしてる時、相手のプレスがキツカッタ><
稲佐には勝ち☆文句なぃョ♪
一番印象に残ったのはぁ、御館山の体育館は綺麗&広い&体育館(コート)がすべらなぃ♪
庭?は植木とかあったり、ヒロ~ィから私んとこガッコなんかよりもスゴィ♪
独り言おゎり。(なら書き込みすんな)

-------------------------------------------
これより4月、6年生に進級
-------------------------------------------
2004/04/08
日記@暇すぎо
ヒッマだぁぁぁぁぁぁぁ~><
しかもアイス食べたから寒い><
さっむ!ひっま!
ぁ~、
暇暇暇暇
あと小説書き直します。
暇暇暇(略)
-------------------------------------------
2004/04/15
日記@あの食べ方、まじでキモイ
今日、給食でAcが口をあんぐり開けながらカレーを食べるんです!
口の中のご飯とカレールーのミックスがもろ見えで・・・・(汗)
口の中を見せながら食べるのって食事のマナーが・・・・。
この前なんか肉じゃがが給食だったんだけど、Acゎちょっとだけ、げろっと
吐いちゃったんですね。
それなのに、
口をゆすいでない!!
口元に吐いたものがついてるんです!
あと、いつものように口を開けて
食べ物をクチャクチャ(><)
皆班の人ヤ周りの人ゎもうそれを見て
げろげろと言ってました。
私なんか吐きそうになったんだ(><)YO!
なんか共感する事あったらカキコしてね☆
-------------------------------------------
2004/04/27
【趣味】アンケ結果
投票数がまずまずだったので結果だしましたー。
(趣味、っていうアンケ事体が駄目だったんでしょうか?)
① スポーツ(外で遊ぶも含める) 7票
② PC 10票
③ 絵を描いたり、ゲームなどをする事 8票
④読書(小説、漫画など) 5票
⑤ その他 9票
***投票者(有難う御座います)のコメント***
湯 : ①これが無きゃ人生つまんない~!!(ぇ
natu : ⑤です。チャットするのが最近の趣味かなぁ~♪
きょぴい : やっぱり②です!
プレゼントほしい!! : パソコンないから、④番・・・。
ドス黒猫 : バスケとかするよ☆
☆★みさ☆★&レイナ? : ファッション系をします。
みゆ : イラスト書くのスキ!
いつみ : 最近バトロワⅠ読み終わって、今レクイエムょんでます^0^☆
菜月 : ④本読むの大好きだよw
苺 : PCカフェスタが趣味だよ(^~^)仕事終わったらすぐカフェにログインだよ(^~^)
マナ : 絵を描くのがすきです
シーク : 4。読書はよいです。音楽聴くのも好きだけどv
MIKE : 1どえ~~す
知沙 : スポーツは、とても運動になってよいよ!!
ゆぅ : 私はねェ絵ェ書くのすきなんスよ。自慢じゃないけどよく「絵ェ上手だね」といわれます
ありんこ : 最近は、ネットゲームしまくりでつ?
aki : 5:その他 料理
ヤス : ①です。♪♪
ュピDHR : 5で。音楽聴く事ですねぇ。
vino:ライブ通いと日曜大工
kenken : ①ファンスキーとフットサル
ちぐりん : ⑤趣味はピアノでーすぅ
百花繚乱 : ③PCではCG描いたり。普段は、顔彩などやってます。
せい : ④読書です。漫画も小説も☆
ともこ : 音楽聴いたりエレクトーンを弾いたりすることが好きです♪
アスカ : ②かな☆
ふんわ~り : 1:バレエに乗馬デス☆
投票ありがと(σ´∀`)σNE!!
-------------------------------------------
2004/04/30
?明日ヵラGW?
明日ヵら5連休(GW)だァ?
ごろごろシタリ、最新シタリ、小説書くのに力入れますヨ(゜∀゜●)ノ
多分(ェ)GWの日記(無論ですが暇人の私はドコにもいきましぇん。)だから付けようト思いマス??
うふふ????(キモ)
覚悟しときーや、おまえさん。(問題発言)
多分GW明けになると私の本性見えちゃうかもぉぉ♪♪
いや~んこまっちんぐぅ~~~~??(オエ)
この記事みてる数少ない人~、嘔吐しないようにね??
-------------------------------------------
2004/05/03
記憶たどり。
GW三日目。どこにも行ってません。
暇。
今日は7時に起きて顔洗ったりして、居間に誰もいないヵら1時間そこで勉強して、そのうち朝飯食べたくなって食パソ食べて、10時にまた寝ちゃいました。(あ)
つーヵこの頃ヤバイッス。
なぜかって?
この頃゛記憶〟が所々飛んでます。
まじ。
昼飯たべてヵラ何をしたヵ記憶にナイ。
勉強は朝したでしょ?10時にまた寝たでしょ?
じゃぁ昼飯後は何したんだろ?
アハハ(´∀`)スッカラカン。
記憶たどりシテマス(´∀`)
-------------------------------------------
2004/05/04
ポイント稼ぎ㊥
今ポイント稼ぎ㊥です。
もうすぐ500P☆★☆
商品券1枚代え(´∀`)ジャン
なので掲示板にカキコやメッセージ送って??
今日は溜息が出るほど暇でやんす。
友達と遊んだりシナイヵラ(゜∀゜)
σ(゜∀゜)の家ゎ山!!の中腹?ぐらいで
住宅地に離れてるんで。
遊びに行くの(`∀´)メンドクセーーー!!
なんで。
あヒぃぃぃぃぃぃ~~~~~~。
そりゃ山の頂上で叫びたくなりますよぉ。
でも友達と遊ぶのそんなにスキでわないんで
別にいいでやんす。(ハ)
そういえば日記の書く量でpt変わるって聞いたけど
ホント?
返事頂戴~~~~~~
-------------------------------------------
2004/05/05
やいやい、
やいやい、GW最終日(`∀´)!!
デモォ最後(`∀´)ヤダー!!!
デモォ早くガッコとか行きたいってヒトもいるヵナ?
今永遠の君へだっけ?たまたまチャンネル付けたらありました。アンマリ見てないヵラよくワカンナイ
やいやい、今「ブック」で小説書いてるぞやいやい。
-------------------------------------------
2004/05/07
ズ〇休み(゜∀゜)シタ―!
ガッコのダチのキララとお嬢とチャットお久しにしたv
昨日学校、ズ〇休みしちゃいました。(ぅゎ)
オーケイ?了解した?
〇ル休み。(バレるって)
ざけんなよ、は禁句(アヒャヒャ)
-------------------------------------------
2004/05/10
減らすどーっっ!!
私 は 今 宣 告 す る
30㌔代に痩せるどーーーっっ!
中肉中背だけどね、絶対痩せます。
間食をしない事を誓います。
筋トレや色々頑張ります。
今日は腹筋333回と、何だっけ、、、あれを200回しまスタ。まぁ、楽しくやったケド;
腹筋楽しかったッス。(ぇ)
痩 せ ま す 。
アドバイスあったらカキコしてv
-------------------------------------------
2004/05/12
人生げぇむ
つーか携帯で人生ゲームminiと太鼓の達人したわけで。
太鼓の達人ハ、ぃぇーぃめーっちゃホーリデェェェとヵさくらんぼとか大切な人トヵシマシタ。
つーヵね、つーヵね、終わり。(早)
-------------------------------------------
2004/05/13
449!!でいやぁぁ
今ポイントが499やねん。
あと 1 !!
商品券
ゲェ―――――ッツ!!
(жVж`*)
-------------------------------------------
2004/05/14
バレー見てまぁす。
日本VS韓国見てます!!
今の所日本2セットとってマス!あと5ポイント!
ぉおおお!!日本が勝った!!
おめでとう全日本女子!
アテネオリンピック出場決定!!
ってぇ出てますv
ナマ半端な気持ちではオリンピックに行けないんだ!
って実況の人が言ってます☆
ミンナ見た?
-------------------------------------------
2004/05/19
髪型。
ミンナの髪型は何型?
私はショートですv肩口ぐらい。
ストパーかける時に髪の毛切っちゃったYO!
髪の毛切る前にストレートにしたら背骨くらいの髪だったのになあ。(イミフ)
-------------------------------------------
2004/05/21
ウルトラマンに変身しちまった
男になっちまった~~
ぷぷぷ・・・・・・・
うけるー!!!!
でも直るんだろか(汗)
明日ページ開いた時に女に戻ってますように・・・
-------------------------------------------
2004/05/30
ギャグ漫画並みに
今日運動会だったんだけど、
バナナの皮で滑ったら・・・・・(ウソ)
移動中にこけました。
ギャグ漫画並みにずるっと。
Rサンによると私は手を伸ばしてうつ伏せで。
つーか、両肘両膝すりむけた。
骨盤うって腫れた。
でこも土がついた。
でこは関係ねー(笑)
し か も
曇りのち雨。
うぃー。
-------------------------------------------
2011/12/26
うぜークラス
つーか私のいるクラスうざったてー。
エロい事考えてご飯に鼻血垂らすわ、
下品な愚民や
失礼でマナーを守っていない奴や
喧嘩売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレや
高慢でジコマンなデブスや
カマトト女しったか男、
ごく一部は良いコなんだけど大半が汚れすぎ。
寝言言ってんのか?って感じ。
顔洗えよ。
不快でも苦情は出さないでクダサイ。

△TOP

資料3:御手洗恭二さんの手記 2004年06月07日

 被害者の父、御手洗恭二さん(45)が7日公表した手記の全文は次の通り。

 さっちゃん。今どこにいるんだ。母さんには、もう会えたかい。どこで遊んでいるんだい。  さっちゃん。さとみ。思い出さなきゃ、泣かなきゃ、とすると、喉仏が飛び出しそうになる。お腹の中で熱いボールがゴロゴロ回る。気がついたら歯をかみしめている。言葉がうまくしゃべれなくなる。何も考えられなくなる。  もう嫌だ。母さんが死んだ後も、父さんはおかしくなったけれど。それ以上おかしくなるのか。  あの日。さっちゃんを学校に送り出した時の言葉が最後だったね。洗濯物を洗濯機から取り出していた父さんの横を、風のように走っていった、さっちゃん。顔は見てないけど、確か、左手に給食当番が着る服を入れた白い袋を持っていたのは覚えている。  「体操服は要らないのか」  「イラナーイ」  「忘れ物ないなー」  「ナーイ」  うちの、いつもの、朝のやりとりだったね。  5人で、いろんな所に遊びに行ったね。東京ディズニーランドでのことは今でも忘れない。シンデレラ城に入ってすぐ、泣き出したから父さんと2人で先に外に出たよな。父さんは最後まで行きたかったのに。なんてね。  でも、本当にさっちゃんは、すぐに友達ができたよな。これはもう、父さんにはできないこと。母さん譲りの才能だった。だから、だから、父さんは勝手に安心していた。いや、安心したかった。転校後のさっちゃんを見て。  母さんがいなくなった寂しさで、何かの拍子に落ち込む父さんは、弱音を吐いてばかりだった。「ポジティブじゃなきゃ駄目よ、父さん」「くよくよしたって仕方ないじゃない」。何度言われたことか。  それと、家事をしないことに爆発した。ひどい父さんだな。許してくれ。  家の中には、さっちゃん愛用のマグカップ、ご飯とおつゆの茶碗、箸、他にもたくさん、ある。でも、さっちゃんはいない。 ふと我に返ると、時間が過ぎている。俺は今、一体何をしているんだ、としばらく考え込む。いつもなら今日の晩飯何にしようか、と考えているはずなのに、何もしていない。ニコニコしながら「今日の晩御飯なあに」と聞いてくるさっちゃんは、いない。  なぜ「いない」のか。それが「分からない」。新聞やテレビのニュースに父さんや、さっちゃんの名前が出ている。それが、なぜ出ているのか、飲み込めない。  頭が回らないっていうことは、こういうことなのか。さっちゃんがいないことを受け止められないってことは、こういうことなのか。これを書いているときは冷静なつもりだけど、書き終えたら元に戻るんだろうな、と思う。  さっちゃん。ごめんな。もう家の事はしなくていいから。遊んでいいよ、遊んで。お菓子もアイスも、いっぱい食べていいから。2004年6月7日  御手洗恭二(原文のまま)

△TOP

資料4:御手洗恭二さんの手記 2004年06月12日

P.126 「謝るなら、いつでもおいで」

06月12日。八尋光秀弁護士が記者クラブの要望を受けて会見を開き、御手洗さんの近況を説明した。御手洗さんは今回も姿を見せなかった。(中略)。御手洗さんは、手記のみを公表した。そこには事件後の心情がつづられていた。

仕事も家事もしていないのに、体だけは疲れています。子どもたちも疲れているようです。でも、みんな寝込むという状態ではありません。食事も、支えてくれる友人らのおかげで、きちんと取っています。

表面的には、休日がずっと続いているような感じでしょうか。ただ、そこに怜美がいないんです。それが、どうしても「不思議」です。

私自身の大きな変化は、テレビを見たいとも、本を読みたいとも思わなくなったことです。それでも、朝は新聞を読み、ニュースの時間になるとテレビをつけてしまう、という長年の習性が悲しいのですが。

そしてニュースや記事で怜美の名前や写真が出ると、事件のことを突きつけられるような感覚になります。勝手なことなのですが。「もう名前や写真を出さなくてもニュースや記事としては成り立つのでは」と思ってしまいます。

これを書いている時に、背中がかゆくなりました。背中がかゆくなると、僕は(孫の手代わりに)「娘の手!」と呼んでいました。怜美は部屋のどこにいても「ハイハイ」と言って来てくれました。こんな些細なことでも、もう呼んでも来ないんだという現実が、じわじわ迫ってきています。

最後に、多くのお便りをいただいております。まだ全てに目を通す心の余裕はありませんが、少しずつ読ませていただいております。本当にありがとうございます。

△TOP

資料5:御手洗恭二さんあいさつ文 2004年07月18日

本日は怜美(さとみ)とのお別れの会に、ご出席いただきありがとうございます。

突然、やってきた「あの日」から七週間が過ぎようとしています。今も写真を見ていると、怜美が話しかけてきて心が乱れます。それでも区切りが必要です。その気持ちに友人らが応えてくれて、この会を開くことができました。怜美を直接ご存じない方もいらっしゃると思います。少し思い出話をさせてください。

二年前の春、引っ越し荷物が片付いた日。私は怜美と兄に「学校を見に行こう」と誘い、歩いて大久保小学校に行きました。坂道だったので、怜美はちょっときつそうでしたが、私が「長崎でも二百段くらいの石段を登ってたじゃないか」と励ますと怜美はうなずいてくれました。

始業式の前には「友達できるかな」と心配していました。けれど、何日もたたないうちに友達を連れてきました。その日からわが家は、あっという間に女子たちの「遊び場」となりました。 怜美は帰ってくると、会社二階の事務室に大きな声で「ただいまぁ」と入ってきます。そして、ニコニコしながら私に近づいてきたら友達が来る日です。ゲームや宿題。バレンタインのチョコレートやお菓子作り。うちの夕食を作ってくれたこともありました。なんともにぎやかで楽しい子どもたちでした。 

怜美は学校が大好きでした。給食はもちろんですが、やはり、そこに友達がいたからです。みんな、本当にありがとう。この二年間は怜美にとってすてきで大切な時間でした。妻と私は三人の子どもを精いっぱい育ててきました。一緒に笑い、一緒に泣きました。しかったり、ほめたり。突き放したり、励ましたり。三人の基礎は妻が作り上げてくれました。妻の亡き後、私はその基礎を壊さないように必死でした。母を亡くしたとき、小学校三年だった怜美も、最近は私の話し相手をしてくれていました。怜美がこれからどんな道に進むのか。どんな男性を私の前に連れてくるのか。楽しみであり、不安でもありました。それもすべてはかなわぬことです。

でも、怜美との十二年間は本当に幸せでした。怜美、ありがとう。思い出は尽きません。悲しみも尽きません。どうすればこの苦しみから立ち直れるのか分かりません。ただ、あの日の後、友人、先輩、同僚、幼なじみ、そして面識のない方々。本当に多くの方に支えていただき、涙の出るような手紙やメールをいただきました。

今は、怜美と妻に「駄目ねえ、父さんは」と笑われないように、いつの日か必ず次
の一歩を踏み出さなければいけないと、言い聞かせています。 

最後に、今日来てくれた子どもたちにお願いがあります。あなたたちのすぐそばに、あなたたちを一番愛している人がいることを忘れないでください。死という形でなくても、あなたたちが目の前からいなくなったら悲しむ人がいることを決して忘れないでください。そして自分の人生を大切に生きてください。
 
今日は皆さん、本当にありがとうございました。

二〇〇四年七月十八日 御手洗恭二

△TOP

資料6:御手洗恭二さんさんの手記 2004年09月15日

さっちゃん。あの日から3ヵ月半。少年審判が終わりました。たくさんの人が彼女のことを調べてくれた結果に、父さんは戸惑っています。彼女は、程度の差はあれ、父さんたち大人が一般的に「普通」と呼んでいる子どものようです。この結果は鑑定や調査の限界だろうか。それとも「普通の子」でもこんな大変なことを起こしてしまうということだろうか。父さんにはわかりません。
 
そして、改めて親子や家族の大切さと難しさを感じています。君は父さんの前では年齢の割には幼かったり、そのくせ時にはお母さんのように励ましてくれた。でも手紙やメールをを読んだら(ゴメン、無断で)転校で変わったさまざまな環境に苦しんでいたんだね。知らなかった。
 
親が子どものすべてを理解することはできないかもしれない。でも父さんは努力が足りず、彼女とのめもごとに気づかなかった。気づいていれば何か手助けできたかもしれないのに。同じように彼女のご両親も考えてくれていたらいいね。
 
わが子が被害者、そして加害者になるなんて親は思っていません。だから父さんみたいに苦しまないために、同じ子を持つ大人に言えることは一つだけ。「子どものすべては理解できないと分かったうえで、理解する努力を続けてください。それぞれの家がそれぞれのやり方で」。
 
さっちゃん。彼女は学校でもちょっと気になる兆しを見せていたようです。でも大人は誰も気に留めず、手を差し出さなかった。
 
父さんが昔、学校を取材して「素敵だな」と感じるクラスがありました。先生が冗談を言って笑いを取るわけではないのに明るい。先生が怒れば子どもたちは震え上がる。それでも子どもたちと先生はお互いを信頼している。そんなクラスの先生は笑顔も素敵で、先生という仕事を心の底から楽しんでいるのだなと感じました。
 
今の学校はどう?先生たちは子どもと向き合うこの仕事を本当に楽しんでいるの?教育行政の人たちは自身も子どもと直接向き合う気持ちで学校を支えている?

今も君のいない寂しさがスクラムを組んでやってきます。でも多くの励ましでこの日にたどりつくことができました。少年審判は終わったけれど、父さんにとっても彼女にとってもこれからの半生がほんとうの審判です。そして父さんなりに事件を見つめ直したいと思っています。
 
さっちゃん。今年はクリスマスを少し楽に迎えられそうだよ。君がこの3年間、サンタさんに「母さんの声をもう一度聞かせて」とお願いしていたから、父さんはちょっと困っていた。今はもう二人一緒だよね。今年は父さんが「二人の声をもう一度聞かせて」とお願いしてみようかな。

2004年09月15日 御手洗恭二

△TOP

資料7:元同級生「被害者忘れないで」 佐世保・小6殺害10年

img23.jpgimg22.jpg
 聞き手・岩崎生之助2014年5月31日00時32分

 2004年に長崎県佐世保市で起きた小6同級生殺害事件は、周りの子どもの心にも影を落とした。悪夢にうなされ、時間が経ってもふとつらい記憶がよみがえる。「私はもう大丈夫。被害者のことを忘れないでほしい」。事件から10年となる6月1日を前に、元同級生の女性が語った。

佐世保・同級生殺害10年 被害者の兄「経験伝えたい」
 あの日のことはよく覚えています。給食時間、カッターナイフを持った加害少女が教室の入り口に立っていました。体じゅう血だらけです。私が「それ絵の具?」って聞いたら、「救急車を呼んで」って。すぐ、先生に連れていかれた。それが彼女を見た最後です。

 私、給食当番がイヤで、時々さぼっていました。よく彼女を誘って他の教室でシール交換をした。それで彼女は給食中に被害者の御手洗怜美(さとみ)さんを連れ出すことを考えついたのかもしれない。そのきっかけを作ったのは「私のせい?」って、今でも思ってしまう。

 事件後、彼女に追いかけ回される夢を見ました。逃げ込んだ教室でほっと一息ついて、ふと頭上のガラス窓を見たら私を見下ろしている。そこで目が覚めました。怖かった。逆に、仲良くおしゃべりする夢を見たこともあります。

 なぜ事件が起きたのか。私も参加していた交換ノートでのトラブルなどが動機とされていますが、いまだに理解できません。大きくなって同級生と「命を奪うほどのことじゃないと彼女も分かっていたはず」「子どもでも罰がないのはおかしい」と話しました。

 中学生のとき、地元で銃の乱射事件がありました。取材ヘリやサイレンの音を聞くと、思い出して自然と涙が流れた。高校時代も事件のことを聞かれるとドキッとしました。でも、今はもう大丈夫。いつごろからかはよく分かりません。

 二十歳を過ぎて思うのは、被害者を忘れてほしくないということ。どんな大事件でも、時間が経てば、みんなの記憶はうすらぐ。私も悲惨な事件のニュースを見ると「かわいそう」とは思うけど、次の日には忘れてしまう。御手洗さんも忘れられたら寂しいんじゃないでしょうか。

 御手洗さんの誕生日や命日には自然と同級生が小学校に集まってきました。同窓会みたいだけど、私たちだけ楽しんだら申し訳ない気もする。事件の話はしません。私も高校生までは参加していましたが、最近は仕事が忙しくて。だけど、誕生日や命日は必ず思い出す。だから、まだ生きているような気もするんです。

 彼女は(送致先の児童自立支援)施設から出たそうですが、どこで暮らしているかは知りません。いま、幸せなのか苦しんでいるのか分からないけど、「ちゃんと反省してる?」って聞きたい。いくら反省しても御手洗さんは戻らない。でも、せめて毎日思い出して手を合わせていてほしい。(聞き手・岩崎生之助)

 佐世保・小6同級生殺害事件 2004年6月1日、長崎県佐世保市の大久保小学校で、6年生の御手洗怜美さん(当時12)が同じ学級の少女にカッターナイフで殺害された。当時、大久保小は1学年1学級で6年生は38人。事件後、学校に派遣された臨床心理士らが心のケアにあたった。のべ80人以上の児童が相談に訪れ、7人が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いと診断された。

△TOP

資料8:佐世保・小6同級生殺害事件 被害者の兄

2014/04/29付 西日本新聞朝刊

妹を失った悲しみや、日常生活を送るつらさを誰かに聞いてほしかった-。長崎県佐世保市の小6女児同級生殺害事件で、妹の御手洗怜美(さとみ)さん=当時(12)=を亡くした男性(24)が5月、初めて講演し、孤独だった日々を振り返る。事件前、妹から加害女児とけんかになっていると打ち明けられた。「自分がきちんと対処していれば事件を防げたのでは」。自責の念を1人で抱え込み、苦しんだ。6月で事件から10年。ようやく向き合えるようになった記憶をたどり、犯罪に巻き込まれた子どものケアの大切さを訴える。

男性は怜美さんと3歳違いで、佐世保市の中学に通っていた。2004年6月1日、授業中に1人呼び出された。

生徒指導室にいた校長や数人の教師たちは深刻な表情で黙ったまま。事件を伝えるインターネットの速報記事を無言で渡された。「怜美が死んだ」と理解しながら、現実のこととは思えなかった。

深夜、遺体と対面したときになって、涙があふれた。

もともと感情をあまり表に出さない性格だった。うつろな表情の父恭二さん(55)を見て、「おやじさんがどうにかなるんじゃないか。しっかり生活する姿を見せて元気づけないと」と思った。

気丈に振る舞い、夜、布団に入ってから声を押し殺して泣いた。
中学でも、友人や教師と事件の話はしなかった。誰かに聞かれることもなかった。

母を病気で亡くしたこともあり、2人で過ごすことの多い仲の良い兄妹だった。
事件の1、2カ月前、怜美さんから、加害女児と交換日記やインターネットの書き込みでけんかになっていると相談された。「落ち着くまで交換日記はやめておいたら」と助言した。女児とも顔見知り。

2人は仲直りしたように見えた。

「あのとき、大人にきちんと相談していればよかったんじゃないか」。
翌年春、高校に進学したころから、自分を責める思いが頭から離れなくなった。
学校の正門を抜けると教室に向かう足が動かなくなり、保健室で過ごすようになった。
1学期で退学し、精神科や心療内科に通った。

今は、九州の大学に通う。妹に会いたくなると、花を持って丘の上の墓地に向かう。
「面白い漫画を見つけたよ」「海外留学することになった」。声に出して語り掛ける。
心が落ち着く大切な時間だ。妹と同級生だった加害女児は20歳を過ぎ、どんな生活を送っているのか分からない。きちんと謝罪して更生した姿を見せてほしいと思う。

これからは、自分の体験を人前で語っていくつもりだ。「僕は叫びたくても、叫ぶ場所すらなかった。

子どもは思っていることをうまく伝えられない。周囲の大人は根気強く向き合って、心の整理をする手伝いをしてほしい」

講演は5月24日午後1時から、福岡市中央区舞鶴の「あいれふ」で。

九州沖縄犯罪被害者連絡会の主催。父恭二さんとの対談形式で事件後の思いを語る。

△TOP

Copyright (C) LACAN MENTAL SCIENCE Lab. All rights reserved.
Powered by Movable Type 4.21-ja